『 私のいとしい息子 ―my Lovely Child― (上)』
――私のいとしい息子……
あなたがはじめて、私のもとにやってきたあの日のことを、今もよく覚えています。
あれは春、草が雪の布団の下で目覚め、花がつぼみの中で歌い始めた季節のことでした。
ご主人様が子供を産んだばかりの私のところに、あなたを連れてきました。
――私のかわいい息子……
はじめて目にしたあなたの姿は、お世辞に可愛らしい、とは言えませんでした。
毛皮はぼさぼさ、眼は涙と目やにでふさがれ、鼻はすんすんと鳴き声を上げていました。
わき腹に浮いたあばら骨から、哀れなほどお腹がすいていることが分かりました。
あなたは母親に見捨てられました。
そして、私は子供を失っていました。
その年の春、私は四匹の元気な赤ちゃんを産みました。
だけど、五匹の末っ子は冷たく、物言わぬ姿で生まれ落ちました。
例え何匹目であろうと、我が子を失う痛みに変わりはありません。
あの子に吸ってもらうはずだったお乳は、はちきれるほど張りつめ……
その切ない痛みは、悲しみと一緒に私の心に爪を立て、深い傷あとを残しました。
それから、あなたがやってきました。
私の六番目の子供、そしておそらくは最後の息子が……。
ご主人様に抱かれて、部屋の中に入って来た時、あなたはお乳の匂いを嗅ぐなり、ものすごい勢いで暴れはじめましたね。
ご主人様の腕を振り払い、まだ立つこともできない小さな四本の足で、私の方へ這ってきましたね。
こちらへ近寄ってくる、見知らぬ赤ちゃんを見たとき、正直に言って戸惑いました。
それも、あなたの目を覗きこむまででした。
涙でうるんだその茶色の瞳を見た瞬間、不思議な絆が私たちをつなぐのを感じました。
まるで磁力で引き寄せられるように、あなたは私の懐に潜り込み、子供たちの中に混ざり、そして……
あなたの口が、私の乳首を含んだときの感触をどう言い表わせば良いのでしょう。
胸の奥にたまった苦い記憶を、吸い出してくれたときの気持ちを、何に例えれば良いのでしょう。
心に空いた隙間が埋められるのを感じました。
傷がいやされるのを、悲しみが慰められるのを覚えました。
私はあなたの汚れた毛皮を舐めると、あなたは気持ちよさそうに鳴き声を上げ、さらに深く私の乳房に顔をうずめました。
――私のうつくしい息子……
優しい時間は、ゆっくりと過ぎていくようで、その歩みはとても早いものです。
気がつけば、季節は春を通り越し、暑い夏がやってきました。
あなたはもう、みすぼらしい痩せっぽちの赤ん坊でありませんでした。
私のお乳をいっぱい飲んで、その体は夏草のようにたくましく成長していました。
あなたの毛皮は、兄弟たちと同じように、黄金色に輝いていました。
這うことしかできなかった足は、兄弟たちの誰よりも強く大地を蹴っていました。
その眼で輝くのは涙ではなく、子供らしい無邪気な喜びでした。
健やかに大きくなっていくあなたを見て、私の胸は幸せではちきれんばかりでした。
でも……。
――私のつよい息子……。
時は幸福ばかりを、もたらしてくれるわけではありません。
私の息子、あなたは大きくなっていきました。
兄弟たちの誰よりも大きく、やがては私の背丈を追い越すほどに……。
その変化がゆっくりだったために、はじめの頃、私は気付かないふりをしていました。
しかし、時間は容赦なく、残酷な事実を私たちの前に突きつけてきます。
ある日、遊んでいたあなたは、兄弟の一匹を傷つけてしまいましたね。
あなたから見れば、ほんの軽い一撫でのつもりが、叩かれた子は部屋の反対側まで吹き飛んで、壁にぶつかりました。
幸いなことに……。
大きな怪我はなく、その子はすぐに起き上ると、またあなたにじゃれかかりました。
それでも、わたしはあの時、心臓が凍りつきそうになったことを覚えています。
あなたの瞳の中にわたしと同じ恐怖が、黒く焼き付いていたのも覚えています。
叩かれた兄弟よりも、叩いたあなたの方が、深く傷ついていました。
あなたは、自分の力が大きく強くなりすぎたことに気づいてしまったのです。
あやまって、兄弟たちを傷つけてしまうかもしれないほどに。
あるいは、兄弟たちを殺してしまうかもしれないほどに……。
あの日以来、あなたは兄弟たちと本気で遊ぼうとしなくなりましたね。
力いっぱい、じゃれつき、走り回る兄弟たちを見ながら、いつもさびしそうに部屋の隅にたたずんでいましたね。
―――私のやさしい息子……
やがて、秋の紅が、夏の緑を塗りつぶし、悲しい、別れの季節がやってきました。
私の子供たちの、里親を決める時がやってきたのです。
最初の頃、あなたは兄弟たちに混じって、不安と期待に目を光らせながら、新しいご主人さまについて話していましたね。
『男の人がいい』とか、『女の人がいい』とか。
『優しいご主人さまがいい』と言った子もいるし、『警察犬になりたい』と言っていた子もいました。
その中で、あなたは一匹だけ、『もう少しお母さんと一緒にいたい……』と言ってくれました。
だけど、それも里親探しが、本当に始まるまでのことでした。
兄が、姉が、次々に選ばれ、連れて行かれる中、あなたは取り残されました。
最後まで残ったのは、あなたとしっぽの曲がった小さな兄弟の二匹だけ。
それでも、あなたは意地を張って、元気なふりをしていました。
落ち込んだ兄弟の前で、自分のしっぽを振って見せて、
『ほら、見てよ。ちょっと曲がっているぐらいなんだいっ! 僕のしっぽなんか変なふさがついているんだぜ』
そう言って、あの子を励まそうとしましたね。
でも、私は知っています。
あなたが、夜中にこっそり起きて、水皿に映った自分の姿を見てため息をついていたことを。
兄弟たちのように愛らしく尻尾を振り、犬らしく鳴く真似をしていたことを。
そして、その練習の成果が、何一つ実を結ばなかったことを知っています。
あなたが甘えて、じゃれつこうとするほどに、人間たちは怯えてふるえ、決してあなたに近づこうとしませんでした。
ついに最後の兄弟が、申し訳なさそうに、里親の腕に抱かれていった時……。
たった独りになったあなたは、ひどく打ちひしがれました。
まるで赤ちゃんだった頃のように、わたしの懐の中に潜り込もうとしました。
あなたは、くんくん、と鳴きながら、私に聞きました。
『お母さん、ぼくって、可愛くないの?』
『いいえ』とわたしは言いました。『あなたはわたしの可愛い息子よ』
『じゃあ、ぼくは大きくて、みっともないんだね?』
『いいえ』とわたしは首を振りました。『あなたはとても立派で、すてきよ』
『ならどうしてっ』あなたの声は、悲しみでかすれていました。
『どうしてだれもぼくを選んでくれないの!』
長い間、私はどうやって、あなたの問いに応じればいいのか分かりませんでした。
『ごめんなさい』と、あの時、私はあやまりました。
そして今、あなたが目に前にいれば、やはり同じ言葉を口にしたことでしょう。
ごめんなさい、もっと早く言うべきでした。
もっと早く、本当のことを、あなたに教えるべきでした。
『あなたは、私の子供じゃないの』
『え?』と、あなたは目を見開きました。『ぼくはお母さんの子供だよ』
『いいえ』わたしは、三たび首を振りました。ただの言葉なのに……。
『あなたは私の本当の子供じゃないの』
なぜ、話すだけでこんなにも苦しいのでしょう。
『あなたは、犬じゃないの……』
まるで、口にするたびに、血を吐き出しているような……。
『あなたは、ライオンなのよ』
『 私のいとしい息子 ―my Lovely Child― (下)』に続く
……というわけで、大変恥ずかしながら、戻ってまいりました。
連載中の『 Doragon Tail 』の方は、まだ停止中ですが……。
リハビリのために、とりあえず一作書いてみました。
(下)は、明日投稿の予定です。
で、『 Doragon Tail 』は来週まで、お待ちください。
よろしくお願いいたします。