月の夜
丸い月の大きな夜だ。
ふと見上げた夜空の銀盤が欠けて落ちてきたのかと思ったが、勿論違った。
それは白々と月光を弾く羽を持った一匹の蛾だった。
地面に落ちてきた白雪蛾---雪のように白い体をした蛾だから---は柔らかな下草の上で動かない。
死んでいるわけではないようだ、呼吸はしている。
体は静かなリズムを刻んでいる。
大きさは手頃だった。
充分に腹が満たされる量で、まだ若い肉はとても美味そうで、“夜公”(ヤコウ)は舌なめずりをしていた。
ここしばらく満足に食べてはいない彼に、それは幸運がもたらした贈り物だった。
夜公の目の前で落ちてきた獲物、細心の注意で忍び寄る必要もなく、目を閉じたままで逃げすことはないのだ。
蛾では決してご馳走とはいえなかったが贅沢などは言っていられない。
数日雨は降り続いて木の烏鷺で縮こまっているしかなかったのだから。
ようやくやんだ雨に濡れた世界で弱っていた、ちっぽけな蟋蟀を一匹、口にはしていたがまだまだ喰える。冷たい雨はまたいつ降り出すかわからないなら、喰えるときにははち切れるほど喰っておいたほうがいいのだ。
そうは思ったが・・・。
一匹、蟋蟀を喰ったばかりで空腹感が少し薄らいだゆとりの中で眺めたせいか。
それともこの白い蛾は本当に特別美しい羽をしていたのか、夜公にはわからなかったが、目の当たりにする姿に黒い蜥蜴の心はドクンと跳ねたのだ。
今は泥を舐めるほど腹が空いていないから・・・。
なにも今すぐに喰う必要はないだろう・・・。
ああ、しかし。
そんな悠長なことを言って逃してしまったら悔やんでも悔やみきれないだろう!
けれど。
月の光る羽、白い羽のなんて綺麗なんだろうか。白い体は甘い匂いがするほどにそそられる!
夜公はそっと近寄ると口を寄せた。
触ってみても目覚めなかった。
夜公はうっとりと目を細めて口に含んだ。
それほど力を入れるまでもなく、千切れた白い羽は夜公の口の中で本物の雪のように細かく溶けていった。
しかし雪のように無味ではなく、温かく、生きた白だ。ごくりと呑みこんだあと続けざまにもう二口噛み切っていた。
そのときだ。
死んだように動かなかった体がびくりと震えた。
痛みが走ったのだろう。
羽を喰われるという痛みが、手放した意識を引き戻そうとしていた。
ぐたりと投げ出されていた四肢が藻掻くように地を擦って---夜公の前で、一匹の美しい蛾は目を覚まそうとした。
呼ばれているような気がしてあたりをきょろきょろと見回すと、蒼い夜空には大きな月が浮かんでいた。
まあるい月。
満ちた月。
なぜだかわからないけれど、そこには、此処には無いものが在るように思った。
そこには在ると思ったそれはいったい何だと自分は考えたのか。しかし、驚きすぎて今となってはもう忘れてしまった。
それを手に入れるために月を目指して飛びたった“深羽”(ミウ)が、意識を取り戻したとき目の前に在ったものは“それ”ではありえない、一匹の黒い蜥蜴だったのだから。
羽がじくじく痛い。
大きく欠けた羽が、焼けるように痛いのだと気が付いた深羽は必死に目の前の蜥蜴に目を戻した。
上手く呼吸ができなくて、声が出ない。だから、悲鳴もあげられなかった。
よって、見つめるしかできない黒い蜥蜴は、慌てもしない度胸の据わった蛾だ、と興味深げに深羽を見つめるのだ。
黒い蜥蜴。
気をつけるのよ、彼らはここらいったいにたくさんいるわ。雑食でね、いろいろ底なしに食べるわ。わたし達もね。
近づいてはだめよ。羽もない、地面を走ることしかできないくせに---木や岩を伝うの。丈夫だから多少のことでは死なないから、高みから跳びかかって襲ってくるわ。
だから、姿を見つけたら大急ぎで離れるのよ!
その大きな黒蜥蜴が、目の前にいた。
大きな蜥蜴、今まで見た中で一番大きな蜥蜴---。
---特別急ぐほどに腹は空いていないから。
動けない---。
---これだけ欠けた羽では勢いよく飛んで逃げることもないだろう。
こわくて、こわくて、こわくて立ちあがるどころか、脚も動かせない---。
---真っ白な蛾、はじめてゆっくりと観察する蛾、自分を見て逃げようともしない不思議な奴。面白い、何を考えて生きているんだろう?
「おい、おまえ呼吸しているか?・・・死んだのか?」
低い呟きはほとんど黒蜥蜴の自答だった。
首を傾げたあとに大きな手が伸ばされてきて
「生きてる!」
急いで答えた声は上擦ってしまった。
「死んでしまったんなら、さっさと喰ってしまおうと思ったのだが---」
「まだ、生きてるから、食べないで!」
真っ向から大きな目で見つめられてそんなことを頼まれた夜公は、気迫に圧されて思わず、ああと応えていた。
「・・・ほんとうに?」
縋るように確認されても、困るだろうが。
「食べない、今は---」
とりあえず、今は。
厭きるまでは、食べるよりも面白いかもしれないとちらっと思ったから。
話をするには不自由なことがあった。
「おまえにも名前はあるのか?」
「あなたにも名前があるの?」
言葉を話している間は、夜公だってきっと食べられないから。
取り止めのなくて、切実な会話を続けていつの間にか丸い月は空から消えて、夜は静かに明けていった。
体から離していて、他の奴に横取りされでもしたら笑えない。
羽しか味見していないのに、他の奴にくれてやる気などさらさらにないのだ。
ただでさえ短気な同胞が多いこの辺りで、だから夜公は深羽を肩に乗せて移動していた。
空を飛ぶ軽い深羽の体など問題はない。
それよりも別に問題はあっただろう。
「なにを見てる?」
「・・・見てない・・・」
深羽は夜公の顔を見下ろしてふるふると首を横に振った。
夜公はふっと鼻を鳴らす。
「じゃあ言い換えよう。なぜ俺を見ているんだ?」
足を止めて聞き直すと
「・・・地面がどんどん動いてゆくから、ずっと動いているから・・・どこに行くの?」
「さあな。此処よりもいいところがどこかにあるかもしれないからな、探しているだけだ」
一番訊きたかったことは、“私を食べないの?”だったかもしれないが、尋ねることによって気が変わるかもしれなくて怖くて口にはできなかった。
「なんだ、言いたいことがあるなら口に出して言え。じゃねえと俺にはわからん」
見られていることがこれほどに気になることだとは知らなかった。しかも相手は、これだ。
弱くさい飛べないような白い蛾。手放しでもしたら、いつどこからか掠め取られてしまうかもしれない無力で風前の灯火な彼の食料な深羽の眼差しは、しかし決して弱くはなかった。
強い熱を秘めて夜公に絡みついていた。
「・・・月、今日も見えるかな・・・?」
「月?」
夜公は木漏れ日を生み出す空を見上げた。ざわつく木の葉の間から眩しい太陽が覗いている。
「晴れているからな」
なんとも一方通行な会話だった。
たぶん、互いがわかっていないからだろうと夜公は思った。
夜公にしても今まで何度も食べたことはあっても話をしたことはなかったのだから、こいつだって食べられるだけで話したことは---と考えて、くくくっと笑っていた。
ああ、これはなんと馬鹿げた発想だろう!
食べられていたら、深羽はここにはいないのではないか!
「なにか面白いの?」
「ああ、とてもな!」
機嫌良く笑いだした夜公につられるように深羽は、ぎこちなくだったが微笑んでいた。
笑った深羽に、今度は夜公が驚く番だった。
「---楽しいのか?」
肩の上の娘はこっくりと頷いていた。
夜公もこんなふうに目を細めて声を出して笑うのだ。夜公は深羽にとって“死”そのものだったが、ただそれだけではなく同じように笑い、なにかを考えて、どこかに向かって生きている生き物だと感じたから。
生き物である以上、なにかを食べなくてはならない、同じように。
そう深羽と同じようにだ!---。
張りつめていた緊張が途切れた深羽はくすくすと一人笑い続けて、ようやく収めると、怪訝に見上げる夜公に話しかけた。
「わたし、月、好き。見つめているとドキドキする。夜公は、月好き?」
柔らかく尋ねられて、さらに動揺していた。
「月?・・・嫌いじゃない。月夜は誘われてふらふらする奴が多いから狩が上手くゆ---」
こいつに話すべきではないことまでつい口を滑らせてしまい、迂闊さに鼻に皺を寄せる夜公に深羽は一瞬目を丸くしたが、再び頬を弛めた。
「そっかぁ。そうだよね。だから、こうなったんだものねぇ」
くすくすと花が揺れるように笑う姿を夜公は、眩しそうに見ていた。
夜がやってきた。
昨日より少し欠けた月が空に浮かんだ。
「おまえの好きな月が出ているぞ」
「うん、綺麗」
両手を空に伸ばして伸び上がる深羽を落っことしそうになって夜公は慌てて支えなくてはならなかった。
「・・・ありがとう」
地面に抱き下ろされた深羽はそれからしばらく夜公の横を歩いていた。
手を繋いで---大きな黒い夜公の掌はすっぽりと深羽の手を覆った。
逃げるといけないから繋いでいるのだと、二人は心に説明をしていた。
心はなにか滑稽な誤解をしてしまうといけないからと、丁寧に説明しても鼓動は収まらなかった。
繋いだ手が優しすぎるのが、いけないのだと思った。
そんな日が2日続いて3日目の夜だ。
厚い雲に覆われた空には月はなかった。
昼間に光を浴びすぎてしまったためか、ぐったりと深羽は草の上に横たわっていた。
具合が悪いらしい深羽の横に腰を下ろした夜公は頬杖を突いて、白い深羽の姿を眺めていた。
ぐるぅと、夜公の腹が鳴った。
あれから3日、なにも喰っていなかった。
腹が空いた。
腹が空いた。
食い物は目の前にあるというのに、食べるられるものがないのだ。
柔らかい白い体・・・欲求を抑えられず夜公は身を寄せていた。
白くて透けるような首筋を、ぺろりと舐めてみた。
舌に甘い感触が残った。
今まで視た中で一番綺麗な白雪蛾の深羽は、きっと今までになく美味しいだろうと考えると口の中に唾液が溢れだした。
もう一度べろりと呼吸に上下する胸元を舐めた。深羽は眠り続けている。
再び口の中に甘い味が広がった。
ああ・・・腹が空いた・・・。
もうそろそろ、潮時だろう。
夜公は大きく口を開くとぱくりと静かに持ち上げた深羽の腕を口に突っ込もうとしたときだ。
「もう、食べることにしたの?」
目を開けた深羽が微笑を浮かべていた。
「うん・・・いいよ、食べても。もう私、飛べないし」
答えない夜公のかわりに、深羽は続けた。
「この数日間ね、とても楽しかった。背で運ばれることも、手を繋いで地面を歩いたことも今までなかったもの」
「---楽しいだと?」
にっこりと肯定した。
「俺は・・・」
深羽の言葉に驚いた夜公は自問していた。
「俺も、楽しかった・・・」
自分の言葉を信じられないもののように聞いた。
深羽の白い手を口に入れるかわりに、夜公は甲に口付けてそっと下草の上に戻していた。
楽しかった、が---。
腹が空いた---。
明日からは、食料を失ったしまったから、肩に深羽を抱きながら狩りをしようと夜公は決心した。なかなか大変そうだったが、深羽をばりばりと喰うよりも楽そうだと思った。
深羽を弱らせていたものは、太陽の光もで疲労でもなく、秋風なのだとすぐに夜公は気付くことになる。
なぜなら白雪蛾は冬を越すことはないからだ。
厳しい冬の到来で死んでゆく者を食べて、夜公は冬を乗りきって春を迎える。夜公は十回以上の春を迎えられる生き物だったが、深羽は違うのだ。春に生まれて晩秋に死に行く定めだった。
そんなことなど当然知っていたはずだったが、夜公の中には氷が生まれていた。
深羽はもうすぐ死ぬのだ。
日だまりに座って高い秋の空を深羽は見つめていた。
夜公にとって過ごし安くなったと感じる気候が深羽の体から力を奪ってゆくのだ。
ふらふらとしか歩けなくなっていた。
それは、別段問題じゃあない。深羽は元々、夜公の肩の上で移動するのだから。
歩けないのは構わないが、その先に深羽を迎えようとしているものは---逃れられない死。
どうしてやることもできない生きるものたちの終着点だ。深羽は静かに着実にゆこうとしている。
「わたしね、もうすぐ死ぬの。わたしが死んだら夜公はわたしをどうする?」
空から夜公に視線を移した深羽は小首を傾げてそんなことを言いだした。
どうすると言われても、だ。意味がわからなかった。
曖昧な笑みを浮かべた夜公に深羽は言う。
「土に埋めてくれる?」
「ああ」
返事を絞り出すには少々時間がかかった。
「好きなところがあるなら---そこに」
「するとね、やっぱり食べられるの」
「は?」
面食らう夜公を見上げて淡々と言った。
「土の中でもね、やっぱり誰かに食べられるの。・・・だったらね・・・」
深羽は細い腕で体を抱きしめるように蹲っていた。
「知らない誰かじゃなくて、夜公がいい。夜公だったら、きっともう、あまりこわくないから」
極希に、冬が来る前に南に旅立ってゆく白雪蛾がいると聞いたことがある。
「夢よ。あなたは自分が泳いで海を越えてゆけると思ってる?」
「いいや。溺れて死ぬだろう」
でたらめに広い水たまり、足が付かない深みをそれほど長くは泳いではいられなかった。
「大きな黒蜥蜴でも無理なかぁ。・・・あのね、海渡りは飛んで暖かい世界にゆけたらいいね、というわたしたちの夢なの。目指して飛び立つものもいるけど、そのあとどうなったかはわたし達にはわからないね。・・・でも、もしかしたらほんとうに辿り着く幸運な子もいるかなぁ?」
常春の楽園を想像してうっとりと深羽は微笑んだあとに、
「でもわたし、暖かい世界じゃなくて月に行ってみたいと思ったとき、羽壊しちゃったから」
残念と、付け加えた。
壊したのは深羽じゃなくて、俺だっただろう。
もしあの時、俺が壊さなかったら、南を目指すという選択肢が残されていたことになる。
---これを、後悔と言うのだろうか?
片羽が大きく欠けた白い蛾が夜公の前に横たわっていた。
夜風は夜公の黒い肌をも貫こうと冷たさを増していた。
月は刃物のように尖って、蒼い空の裂け目になっていた。
星がうるさいほどに瞬いている。
蟋蟀の姿がめっきりと減っていた。
世界は、篩いに落として最小限の生き物を養うだけにして、灰色の時間を迎えようとしていた。
灰色はやがて、白になる。
白雪の深羽に似た世界だというのに、白雪蛾は雪を見ることはないと思い当たって、夜公はまた可笑しくなった。
くくくくっと喉で笑っていると、夜公の腹も一緒になって笑った。
腹が減った。
夜公の目の前には、満月の夜に得た幸運があった。
あたりで深羽を欲しがって様子を見ているものは少なくはないはずだ。ときどき枯れ草がガザガザと鳴った。
柔らかそうな白い喉をぺろっと舐めてみた。
目眩がするほどに甘い。
割けない程度に力を込めていたが、深羽はもう震えることもなかった。
気まぐれで、すぐに食べなかった蛾を食べたとき、あれほど美味そうだと思っていたのに、予想に反して結構苦い味がした。
でも腹は満たされて、翌日夜公は丘を駆け抜けて里に下りることが出来た。
その後、夜公は白雪蛾を食べることは避けるように---なったわけではない。
それは間違った感傷だ。
白雪蛾は大事な黒蜥蜴の夏場の食料源だったのだから。
考えてみるといい。
それは、深羽ではないのだ。
あの秋で、深羽はもう消えたのだから深羽はいないのだ、だからどこにも問題はないだろう?
深羽はいない。もう深羽はどこにもいないのだ!---。
ただし。
夜公は自身が餌となって狢の腹に収められるまでに、何十と白雪蛾を捕らえたが、食料たる彼らに話しかけることは二度とはしなかった。




