幽霊は眠らない②
時計はもう2時を差していた。相変わらずペースが上がらない僕を尻目に、一向寝る気配のない戸田さんは、手近にある資料や雑誌を勝手に手にとって見ている。それにも飽きるとこちらに向き直り、「どうだい?」と、また気を紛らわせるように声をかけてくる。
「どうもこうもないっすよ。終わりませんよ、こんなもん」
「手伝おうか?」
「いいっすよ。僕の仕事だし。それより早く寝てください」
「ほほう、殊勝なことを言うねえ」
戸田さんはビールを片手に立ち上がり、僕の背後に回ると小声で話しかけてきた。
「二人きりだね」
「変なこと言うのはやめてくださいよ」
「いいや、決して変なことじゃないさ。君も気づいていただろ?」
「何言ってるんすか」
「瀬戸君、作家になるんだったら、いろんなことを経験しておいたほうがいい」
「ちょ、やめてください」
戸田さんが、肩に手をかけてきたので、半ば本気になってそれを振り払うと、「冗談だよ、冗談」と言って、戸田さんは愉快そうに笑った。
「冗談になんないっすよ。俺が応じてたらどうするんすか」
「応じてたらって、そのときは最後まで……」
「気持ち悪いこと言わないでくださいよ」
「君が言わせたんじゃないか」
「冗談に決まってるでしょ」
「なるほど、そっちも冗談か。まあ、間違っても君のようなタイプは襲わないから安心してくれ」
「何の話してるんすか」
戸田さんは笑いながら、ようやく床に敷いた毛布に寝転がった。
「いやあ、こうして寝ながら飲むと、酒が回って良くないんだけどねえ」
「もう酔ってるんじゃないですか」
「いやあ、君も言うようになったねえ」
残ったビールを一気にあおった戸田さんは、赤ら顔で「おやすみ」と言って、毛布にくるまってしまった。
深夜3時。
ようやくあと一息のところまできた。朝7時からロケだから、それまでに片付けて少し寝たい。腹が減った。
「瀬戸ク~ン」
突然声をかけられてびっくりした。戸田さんが横になったまま、こちらを見ていた。
「どう?終わりそうかい?」
「もうすぐ終わります」
疲れを癒すために、目をつむってデスクの上に顔を伏せる。
「だいぶきてるようだねえ。ここ何日か帰ってないようだし」
それには何も返事のしようがなかった。戸田さんは、僕より長く、少なくとも一週間は帰ってないはずで、僕も安易に弱音を吐くわけにはいかない。
「ところでつかぬことを伺うけどさ、君は加賀谷さんのことどう思うの?」
「どう思うって、すごい元気な人だと思いますよ」
「元気ねえ……女性としてはどうかな?」
僕はデスクに顔を伏せた姿勢のまま、少しだけ頭をめぐらして戸田さんのほうを見た。
「男の話だったり、女の話だったり、好きですね」
「もちろんさ。そっちの話題は、人間関係を語るうえで付き物じゃないか。君は年上には興味ないのかい?」
僕は今23で、加賀谷Dは27になる。
「別に上だからどうこうってことはないですが、加賀谷さんはないです」
「ふーん、加賀谷さんは結構美人だし、男好きのする顔だと思うけどなあ」
確かに目鼻立ちがはっきりしていて、特に目元の涼しいところなどスポーツマンタイプの美人といえなくもない。
黙っていれば、ではあるが。
「じゃあさ、他の人はどうかな?歳が近いとなると、深津さんあたり」
「深津さん……も、ないでしょう。性格的にきつい、てか無愛想すぎるところがあるし」
うんうんと、戸田さんは首肯して、毛布にくるまった体を少し起こす。
「だよねえ。目が釣り上がってて、睨まれるとびびって何も言えなくなっちゃう」
「あの睨み、普通じゃないですよね。元ヤンとかじゃないんすかね」
「おうおう、言うじゃない。そんなこと言ってて大丈夫なの?」
「誰もいないから大丈夫すよ」と言った途端、会議室のドアがガチャリと開いて、中から深津さんが出てきた。
なんで?誰もいないんじゃなかったの?
といっても、別に確認したわけじゃない。静かだから僕と戸田さんしかいないと思ってただけだ。会議室でADが寝ていることも普通にある。だけど、いくらなんでも静かすぎるでしょ。ほとんどの人が帰ったのが夜の11時くらいで、それから何時間経ってると思ってるんだ。
深津さんは無言のまま自分の席に行くと、引き出しから薬のようなものだけ取り出して、再び会議室に帰ってしまった。
「聞かれましたかね。今の」
「うーん、どうだろうねえ」
「聞かれたらまずいっすよね」
「いやー、まあどっちにしろ同じじゃない」
「そりゃ、戸田さんはそういう人だから平気だけど、僕はまずいですよ。悪口を言ったとなると」
「いや、そういう意味じゃなくて、以前僕と瀬戸君で深津さんの容姿をあれこれ言ったことがあっただろ。あれ全部深津さんにばらしちゃったからさ」
「ちょ、さりげなく何言ってるんすか。何やってるんすか」
「雑談をしようと思って話しかけたら、なんだか冷たくあしらわれてね。つい怒って言っちゃったんだ」
「僕のことまで言う必要ないじゃないすか」
「まあ、冷静に考えるとそうだね」
平然としている戸田さんにあきれて、僕がさらに追求しようとすると、再び会議室のドアが開いて、深津さんが隙間から頭だけ出して言った。
「うるさいから黙っててくんない。別にあんたらのこと、何とも思ってないから」
ドアはゆっくり閉まった。深津さんはいたって冷静だった。
僕は戸田さんと顔を見合わせ、何も言わずに仕事に戻った。
それから仕事に、仕事に……
突然椅子が揺れて、目を覚ました。
〈地震?〉
と思ったのは一瞬で、早朝に出社した谷口Pが僕の椅子を蹴ったせいだとすぐに気づいた。
「おい、今日ロケだろ。いつまでも寝てんじゃないよ」
時計を見ると、6時を過ぎていた。やばい。すぐに準備をしないと間に合わない。
と、寝てしまったことを思い出して愕然とした。終わってない!残り少しだけど、とてもロケまでには終わらない。ロケのすぐあとに会議で使う資料だから、どうやっても都合がつかない。どうしよう。入って一ヶ月、気の緩みはなかったつもりだが、こんなにひどいミスをやらかしてしまうなんて。
こちらを見ている谷口Pと視線が合って、思わずそらしてしまった。
どうしようもない。やっぱりニートにこんな仕事無理だったんだ。やめよう。謝ってやめよう。
一人混乱しているうちに、僕の背中を軽くトントンと叩くものがいる。振り返ると、戸田さんが右手の親指を突き立てグッドの形を作り、らしくない爽やかな笑顔を見せている。デスクの上にあった資料は全部片付いていた。
まさか、と思ったけど、どう考えてもこの人しかいなかった。
「ありがとうございます!」
戸田さんは気にしなくていいよという風に手のひらをひらひらと振り、かえって決まりが悪そうな照れた顔をした。
「ん?セトグチでロケだっけ?」
谷口Pはよく僕(=瀬戸)と戸田さんをセットにして、セトグチと呼ぶ。
「いえ、ADは瀬戸だけですよ。僕は昼から別件なんで、ちょいと外の空気吸ってきます」
戸田さんは、さっきまでと打って変わり、小声でぼそぼそと話し、顔も生気がなくやつれていた。夜中に雑談してたときの元気はどこにいったのか。出世をしないための演技?だとしたら、たいした役者だ。
それとも……もしかして、戸田さんが幽霊と呼ばれているのは、夜中に実力を発揮するからだろうか。夜中の戸田さんこそが本来の姿で、昼は仮初の姿?
僕は次々に変わる戸田さんの印象に惑わされつつ、一つのことに気づいた。
僕が寝ている間に仕事やってくれたとしたら、戸田さん全然寝てないじゃん。
何も言わず、音もさせずに遠ざかっていく戸田さんの後ろ姿を見て思った。鈴木先輩とはタイプが違うけど、戸田さんもまたできるADに違いない。
「せとおおおおお、じゅんびできてるかああ」
どんな目覚まし時計より、効き目がある加賀谷Dの叫び声とともに、僕は慌しくロケに必要なものが入ったバッグを肩に担いだ。
落ち着いてる暇はない。早く戸田さんに仕事を回される人間にならないと。
そのために今日ベストを尽くす必要がある。
だから気合を入れて叫び返した。
「はい、すぐに出れます!」