エステルを失ったみらのさん、喫茶店ラピュタに帰ってきました。そんなみらのに飢野教授は……。
エピローグ――思い出の中のユダヤ人
エピローグ―――思い出の中のユダヤ人
「そうでしたか。それは大変でしたね」
飢野教授はココアをすすりながら嘆息した。
「常に自分自身を見つめ、どんな時でも明るさと笑顔を失わない―――それがタルムードにあるユダヤの教えなのですが……残念でしたね」
「先生」私は訊いた。
「どうしてエステルはあんなことになってしまったんでしょうか? 今にして思えば、全てがつながっていたような気がするんです。まるで何かに導かれるように……」
「それはあなたの考えすぎです、神野さん」
飢野教授は穏やかに否定した。
「いくつか事物の符合―――それはさして気にすべきものではなかったのです。例えばヨハネとエリザベス―――そんなのはありふれた話です」
飢野教授は続けた。
「例えば有名な音楽家のバッハ―――彼の名前はヨハン・セバスティアン。彼の父はヨハン・アンブロージウス、そして母の名はエリーザベト―――バティスタ氏が言ったように、全ては単なる偶然……そのようなものにこだわるべきではなかったのです」
飢野教授はカップを置いた。
「そうそう、あなたに言われて目を通して置いたエステルの遺品なのですが、中にこんなものが混じっていました」
教授は一枚の紙切れを私に差し出した。
「これは……何かの本を破ったものみたいですけれど……?」
「その通りです。これは一九〇一年にニューヨークで刊行された『ユダヤ大百科事典』の一ページです。ここを見てください」
私は指示された箇所を目で追った。
「これはN・マックレオドが唱えた《日ユ同祖論》の記事です。日本人とユダヤ人が二五〇〇年前に分離した兄弟民族だという説を取り上げたものです。世界中のラビの中でもっとも日本事情に精通していたといわれるラビ・マービン・トケイヤーもこの問題について重大な関心を寄せていました」
私はその記事に見入った。でもどうして? なぜこんなものがエステルの遺品に?
飢野教授は続けた。
「若き日のワートハイマー氏は、この記事を読んで日本に強く惹きつけられたようです。ローマによって国を奪われて以来、各地に離散したユダヤ人たちは心のうちに常に安住の祖国を夢見ていた―――それゆえに」
マックレオドの日ユ同祖論―――それはまるで夢のような話。ワートハイマー氏だって頭から本気にしていたとは思えない。
でも、私にはわかる。
だって、エステルだって同じだったから。
シーナおばあちゃんのおうち。そこがあの子の安らぎの場所―――エステルはそう信じていた。それこそが孤児だったあの子の夢の祖国、シーナおばあちゃんが生まれ育った思い出のおうちなんだから―――
「それからこちらの日露交歓交響管弦楽大演奏会のパンフレット―――おそらくシーナの
ものかと思いますが、ここの部分を見てください」
飢野教授が指し示した先―――そこにあったのはニコライ・シフェルブラットの名前。
シフェルブラット―――そう、バティスタ氏は言っていた。ワートハイマー氏が懇意に
していた音楽家、この演奏会でコンサート・マスターをつとめたヴァイオリニストだって……
「シフェルブラットはモスクワ交響楽団のソリストで、首席奏者をつとめたほどの高名な音楽家でした。のちにNHK交響楽団の前身である新交響楽団の指揮者として活躍し、日本の土となった―――彼もまたユダヤ人でした」
それだけではない。N響の基礎を築いた指揮者ジョセフ・ローゼンストック、東京音楽学校で教えた世界最高峰のピアニスト、レオ・シロタ―――それがみんなユダヤ系の人だったことを、私は今日、初めて知った。
そして―――飢野教授は言った。
「伝統的に守銭奴としてのイメージが強いユダヤ人ですが、彼らが本当に大切にしているもの―――それが何だかわかりますか?」
もし敵に襲われたとき、自分なら何をもって逃げるか―――
なんだろう? お金? 食料?
私なら……趣味のマンガ本だろうか?
「答えは“教育”です」飢野教授は教えてくれた。
「ユダヤ人は何よりも教育を大切にします。一度身についた教育は、誰からも決して奪われることはありません。ユダヤ人のことを“本の民族”―――ピープル・オブ・ブックと呼ぶのはそのためなのです」
ああ、これでわかった―――私は納得した。
エステルのおつむがあんなに賢かったわけ―――
そうか、常に迫害を受けて生きてきたユダヤ人たちは、どこでも生きてゆけるようにと一生懸命勉強してきたんだ。
そんなことを思いながら、私はエステルのことを思い出し、泣いた。
でもあの時―――私は確かに感じていた。
あの子のぬくもりがお腹の中に息づくのを、私は確かに感じたのだ。
そう、きっといつか―――私は結婚して赤ちゃんを産むの。
そして私はママになる。
生まれてくるのはそう―――天使のような女の子。
サラサラの髪、愛らしい瞳、スラリと伸びたきれいな手足……頭だっていいんだから。
私は思い切りかわいがってあげるの。
あなたはきっと生意気で、へそ曲がりで、こましゃくれて早熟で……
でも私は知っている。
あなたが本当は甘えん坊で、ママのおっぱいが恋しくてたまらない、赤ちゃんみたいな子だっていうことを。
ねえ、そうでしょう、エステル?
「みらのさんさ―――」
ぶしつけに私の背中をつつく茶谷くんの声。
うえっ、うぐっ……なに? なんなの、茶谷くん?
私は涙を拭きながら振り向いた。
「そこ、どいてくれないかなあ? 僕、インベーダーやりたいんだけど」
茶谷くんは私を押しのけると、インベーダーの台に着いた。
「これ、面白いんだよ。見た目はシンプルなんだけど、そこが深いんだよ」
「そうですね」飢野教授は笑った。
「知っていますか? スペース・インベーダーを世に送り出した“タイトー”―――あの会社を興したミハエル・コーガンもユダヤ人なのです」
飢野教授は静かに席を立った。
季節はもう夏―――
まぶしい日差しが、喫茶店“ラピュタ”の店内を白一色に照らし出していた。
終
……あ、でも、もう一話分ありますから、早まって最終話だと勘違いしないでね<(_ _)>
次回は私からのお話です。ここが肝心だからよ〜く聞いてね(^v^)
ついでに次の連載も始まるから、次回、確認してLet’s Go!!(強制ですね、ほとんど……)
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