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エステルの遺書―――死んじゃダメ、エステル!!
第29話 天使のように
 § 29 天使のように

 私はバスローブ一枚を身にまとい、しどけない姿で彼の書斎へと走った。
 はやく……一刻も早く彼に会って、エステルのことを伝えなきゃ……!
 私はバティスタ氏の部屋の前に着くと、両拳で荒々しくドアを叩いた。
 返事がない。
 私は待ちきれずにドアノブを引いた。さいわい、鍵はあいていた。
 私は思い切って部屋の中に踏み込んだ。
「バティスタさん――――」
 意外なことに、彼は在室していた。
「ミラノ―――」
 私の呼びかけに応じる彼。
「ミラノ、悪いが今、ちょっと手が離せないんだ。今夜の穴埋めはきっとする。だから―――」
 不自然に引きつったバティスタ氏の顔。私は、気遣うような表情を浮かべ、そっと彼に向かって足を踏み出した。
「来るな、ミラノ!」
 彼は、声を荒げて私を拒絶した。
「バティスタ……さん?」
 私は不安になって、もう半歩、前に踏み出してしまった。
「来るなって言ってるだろぉ、ミラノぉぉぉーっ?」
 バティスタ氏は、猛獣のような素早さで私に飛びかかった。そのまま壁に押しつけられた私―――
 身動きが……身動きが取れないっ!
「ゲホッ、オエエッ」
 私は苦しさのあまり、何度も咳き込んだ。その反動で激しい上下運動をくりかえす私の胸。
 はだけたバスローブの前を合わせようとして、私はバティスタ氏の腕を払いのけた。
 その刹那、私の目に飛び込んできた光景―――今でも鮮明に覚えている。
 彼の後ろに広がっていた光景―――それは、まるで美しい悲劇のワンシーンのようだった。
 仰向けに寝かせられた少女の遺体……彼女は胸に一冊の日記帳を抱きしめたまま死んでいた。
「エステル!」私は思わず叫び声をあげた。
「心配はいらないよ、ミラノ」
 バティスタ氏は、いつもの笑顔を取り戻して言った。
「エステルは眠っているだけだよ。こんなところで眠ってしまうなんて―――まるで赤ちゃんのようだ」
「いやあ! そんなのいやあ!」
 私は泣きわめいた。
「エステル……エステルを返して!」
 私は、バティスタ氏の胸を叩きながら言った。
「なんで……なんでなの? エステルはあなたにあやまりに来ただけなのに! それを……それをこんな……」
「落ち着くんだ、ミラノ」
彼は私の手首をつかんだ。
「君は美しい。そうか、私のためにシャワーを浴びてきてくれたんだね」
 バティスタ氏は私を押し倒した。
「その胸元……本当にセクシーだ。そうだ、ミラノ。君のその胸元によく似合うジュエリーを贈らせてほしい。君の名にちなんでミラノの宝石職人PASQUARE(パスクワーレ) BRUNIブルーニの最高級品をプレゼントしよう。君の健康的な小麦色の肌には、真っ白なダイヤがよく映える―――」
 そんな……そんなことを言うのはやめて、バティスタさん!
 私は、涙を流しながら何度も首を横に振った。
「そんなの違う……バティスタさん、あなたはそんな人じゃない……!」
「何が違うというんだ、ミラノ?」
 彼は、荒い吐息とともに言った。
「私は君を愛している。君の望むものならなんだってプレゼントしよう。そうだミラノ、私と結婚しよう。二人でこの家に住むんだ。そのためにも――――いいね、ミラノ」
 いや……そんなのはいや!
 全ての抵抗を封じられ、私は目を伏せたまま泣き続けていた。
 彼はエステルの死体をどうするつもりだろう?
 バラバラにして埋めてしまうのだろうか?
 それとも火をつけて骨と灰にして、そのへんの道端にバラまいてしまうつもりだろうか?
 いや! そんなの耐えられない!
 あんな……天使のようなあの子の身体を、ゴミみたいにそのへんに捨ててしまうなんて、そんなの絶対にいや!
 だが―――バティスタ氏の選択はどうやら後者のようだった。
 部屋中に漂う石油の臭い……そう、彼はすでにエステルの亡骸なきがらに灯油を振りかけていたのだ。
「ミラノ、愛してる」
 バティスタ氏は、私のバスローブに手をかけた。
「君のカラダは芸術品だ。そう、ウタマロやホクサイの描く裸婦のように―――」
 彼の手が、私の下半身に伸びようとしたその時だった。

 ゴパッ

 鈍い音ともにバティスタ氏の額が割れ、彼はもんどりうって床に倒れた。
 私は、放心状態でその様子を見つめていた。
「おうちかえせーっ」
 薄気味悪く響く悪魔じみた老婆の声。
 私は声のする方向を見た。
「うわあッ」
 私は、醜く顔をゆがめながらのけぞった。
 そこにいたのは―――正体不明の老婆。
 誰、誰なの、この亡者みたいなババアは!
 老婆は草刈り鎌を手に、ゆっくり、ゆっくりとバティスタに向かって歩み寄った。
「しいなちゃんのおうち、かえせー」
 その言葉とともに、老女はバティスタに向かって鎌を振り下ろした。
 グチャッ
「おうちかえせえー」
 ビチャッ
「おうちーっ」
 クチュッ
 老女は、くりかえし、くりかえしバティスタの身体に鎌を入れた。
 飛び散る皮膚の切れはし、中途半端に破損する人体のパーツ、引きちぎられた血管……
 だが、そこは非力な老人のこと、何度斬りつけても致命傷には至らなかった。
 不思議そうに首をかしげる老婆。
「あ……ああ……」
 私は四つんばいになって廊下へと這い出した。
 だ、誰なのあいつ? どこのどいつなの、あのババアは!
 私ははだけた胸もそのままに、ヘナヘナとその場にへたりこんだ。
 その瞬間だった。
 
 ボッ
 
 私の顔を赤く照らし出す紅蓮の炎。
 バティスタ氏が……バティスタ氏が石油に火をつけたのだ!
 たちまち炎に包まれる彼の書斎。
 バティスタ氏も老婆も、そして天使のようなエステルの身体も……
 おびただしい数の美術品とともに、全てが赤一色に染まってゆく。
 私はポカンと口を開けたまま、裸同然の格好でその様を見つめていた。
 
 ああ、全てが消えてゆく……
 ウタマロもホクサイもカキエモンもジノリも……

 こんな時でさえ、私の頭からは豪華な美術品のことが離れなかった。
 火は瞬く間に天井に燃え移った。廊下より先に、階上の部屋が業火に包まれたのだ。
 
 しいなちゃんのおうち、しいなちゃんのおうちー……
 
 炎の向こうから聞こえてくる老婆の声―――
 それを聞きながら、私はある一つの結論に達していた。
 そう、あの老婆はエステルを迎えにきたのだ。
 しいなちゃんの曾孫ひまごであるエステルを。
 喫茶店“ラピュタ”で、エステルは私に言った。
 来日のことはSheenaおばあちゃんの昔の知人に伝えてある―――と。
 私は、いずれその知人がエステルを引き取りにくるのだとばかり思っていた。 
 ああ、それは間違ってはいなかった。
 だから……だからババアが来てしまったのだ!
 エステルを迎えにきたのは七人ミサキでもジョシュでもない―――ババア!
 
 ババア……ああ、なんなのあのババアは!

 私は、朦朧とする意識の中で泣きわめいていた。
「みらのさん―――しっかりして、みらのさん!」
 私を揺さぶる茶谷くんの声―――
 どうして彼が……これは幻覚なのかしら?
「ちょっと起きなよ、みらのさん! こんなところにいたら燃えちゃうよ!」
 ああ、来てくれたんだ、茶谷くん……
 私のことなんて見捨てて逃げちゃうかと思っていたのに……
 私は、茶谷くんの背におぶられながら、炎の中を玄関へと進んだ。
 私の頭の中をよぎるいくつかの思い―――
 ああ、ヨシュア君……ヨシュア君は大丈夫だろうか?
 あの子、まだ二階の私の部屋にいるのだろうか?
 ガブリエッラは……たぶん、助からないと思う。
 火屋野ほやのさんは彼女を助けようとするだろう。
 だけど……だけど、マリーアがそれを許さないと思う。
 そして三人とも炎の中で死んでしまうんだ……
 ああ、みんな死ぬんだ。そして全ては灰になる―――
 私が絶望の涙を流した、その時だった。 

 みらの―――

 ああ、誰かが私の名前を呼んでいる。
 この声は……そう、あなたはエステルね?
 私は茶谷くんの背から降り、自らの足で板張りの廊下に立った。
 声のする方向―――そこには、威厳をたたえた一人の老人の姿があった。
 全身を黒のスーツに包み、同じく黒のシルクハットの戴いた紳士……
 エステルは大人しく手を引かれ、老紳士に寄り添うようにして立っていた。
 ああ……あれはエリヤ? 預言者ハ・ナシエリヤ?
 死者の魂を導くユダヤの父祖、大いなる天使サンダルフォン―――いや、違う。
 あれはワートハイマー氏ではないだろうか?
 シーナおばあちゃんのパパ、やさしいおじいさんベンジャミン……エステルは彼に連れられていくのだ。
 どこか、私たちの知らない次の世界へ……
 人の魂はアダムの身体から作られた。罪を背負った魂は神のもとへ還ることはできない。その贖いの時を終えるまで―――だから人は転生ギルグルムをくりかえすのだ。
 その瞬間―――ああ、エステルの魂が預言者の手を離れ、私のもとへ駆け寄ってくるのが見える―――
 私は感じた。
 天使のようなエステルが私の子宮に頬ずりし、その中へと消えていく様をありありと―――

 ママ―――

 私は聞いた。
 そして、もう二度と―――あの子の声が聞こえることはなかった。

                                  第29話 終
炎上したワートハイマー邸―――すべては永遠の時の彼方に……
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