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エステルの目的、そして恐ろしい過去……みらの先生の涙。
第27話 エステルのおうち
 § 27 エステルのおうち

 手を貸してほしい―――エステルは私に言った。
「私、おうちがほしいの」
「おうち……」私は鸚鵡返しに呟いた。
「だってそうじゃない? このおうちはもともとはSheenaおばあちゃんのものなんだよ?バティスタ一家が勝手に住んでるなんてひどいよ」
 エステルは頬をふくらませた。
 ああ、やっぱりそうだったんだ―――
 エステルの目的―――やはりそれはバルディ家を乗っ取ることだった。
 あのワルプルギスの夜、エステルは確かに皆の前でこう言った。

 このおうち、私にちょうだい―――

 それが彼女の真の目的。それは何となくわかりかけていた。
 でも……
「あの、エステル……気持ちはわからないでもないんだけど」
 私はためらいがちに言った。
「それは今さら無理なんじゃないかしら? 確かにあなたのひいおばあさんは、家の管理を親しい人に託していったみたいだけど、その人だってもう、半分寝たきりみたいになっちゃってて、結局ワートハイマーさんちの敷地は村の管理になっちゃったらしいのよ。だから……」
「そんなの知らないもん」エステルは突っぱねた。
「ここは私のおうち。Sheenaおばあちゃんと私のおうちなの」
 エステルは話を聞いてくれそうにはなかった。
 しょうがない。こうなったら明日、エステルを連れて火屋野ほやのリサの曽祖母を訪ねてみよう。それならきっと、この子だって納得して……
 私がそう勧めようと身を起こした、その時だった。
「ねえ、ミラノ」
 機先を制するかのようなエステルの声。
「実はね、ミラノ。私、あのこと、バティスタ氏に話しちゃった」
 え――――私はしばし言葉を失って立ち尽くした。
 あのこと……あのことって、まさか!
「あの人、本当に驚いていたわ。ガブリエッラは火屋野さんがサユリさんに産ませた娘なんだよ―――って言ったら……本気で信じてるみたいだった」
 エステルは無表情だった。それは感情を超越した、悟りすました禅僧のようなたたずまいだった。
「このおうちを私に返さなければ、このことを全部ガブリエッラに話す―――私、あの人にそう言ってやったの。そしたら、あの人……」
「エステルのばか!」
 ピシャッ―――私はあの子の頬を平手でぶった。
 ああ、この子は何てことをしてくれたんだろう!
 バティスタ氏の沈鬱な表情……あれは全てエステルの言葉が原因だったのだ。
 ああ、なんて意地の悪い子……
 サイテイ……あんたは最低よ、エステル!
「エステル、でたらめを言うのはもうやめて」
 私はエステルの胸ぐらをつかんで言った。
「第一、火屋野さんはAB型なの。O型のガブリエッラなんか生まれるはずがないのよ!」
「ミラノは何にも知らないのね」エステルは不敵な笑みを浮かべた。
cisシスAB―――同一染色体上にAとBの遺伝子が並存するタイプのAB型……これならA型のサユリとの間にO型の娘が生まれてもおかしくはないわ」
 cis AB―――まさか火屋野さんが……そんなことって!
「ミラノ、ねえ、いいでしょう? ミラノが協力してくれないなら私、今の話をマリーアにも言っちゃうから。マリーアはガブリエッラのこと嫌ってるから、きっと私に協力してくれるもん」
「そんな……そんなことして何になるのよ!」
 私はエステルを揺さぶった。
「あんたんち、お金持ちなんでしょ? 伯父さん夫婦に頼めば別荘の一つや二つ、きっと買ってくれるわよ」
「伯父さんなら死んだわ。伯母さんも一緒に」
 エステルは小さく呟いた。
「家が火事になって死んじゃったの。かわいそーにね」
 エステルは淡々とした口調で、二人の死について語った。
 まさか、この子―――私はおぞましい想像に取り憑かれていた。
 二人の死を語るエステルの態度。
 もしかして……もしかして、この子は……!
「伯父さんたちは死んだけど、私には財産なんて一セントだって転がり込んでは来なかったわ。だって私は伯父さんちの居候。毎日毎日、奴隷みたいにこき使われるだけのかわいそうな女の子なんだもん」
「あなた……殺したのね? 伯父さんたち夫婦を……」
 私は全身の震えに抗いながら訊いた。
「仕方なかったのよ」エステルは悲しげに言った。
「だって私、見たんだもん。介護がめんどくさくなったあの人たちが、Sheenaおばあちゃんを車椅子ごとハドソン川に放り込むところを」
 エステルはシクシクと泣き出した。
 そんな……そんなひどいことって……
 私は思わず目を伏せた。
「見て、ミラノ。これがSheenaおばあちゃんだよ」
 エステルは新たにもう一枚の写真を差し出した。
 古ぼけたセピア色の写真―――そこに写っていたのは……
「一九四〇年、結婚してヨーロッパにいたSheenaおばあちゃんはナチスに追われてリトアニアの日本領事館に助けを求めたの」
 写真に写っていたのは、人、人、人……
 ああ、これはユダヤ難民の写真なんだ。日本へのビザを求めて集まったという、何千人ものユダヤ人の……
「この人が難民たちの五人の代表の一人、ゾラフ・バルファフティク―――のちにイスラエルの宗教大臣になった人よ」
 エステルは、黒い帽子の紳士を指差して言った。そういえばワートハイマー氏も同じ帽子を被っていた。これはユダヤ人のトレードマークなのだ。
「そして彼の後ろに写っているのがSheenaおばあちゃん―――どう? 私に似てるでしょう?」
 きれいな人―――私は思わず写真の女性に見入った。
 これが若い頃のSheenaおばあちゃんなんだ。
 そして、あと何年かすれば、エステルもこんな美しい女性に成長する……
「おばあちゃんはMrミスター SUGIHARAスギハラSempoセンポChiuneチウネに会ったの。あの戦争でSheenaおばあちゃんは何もかも失った。だけど、Sempoセンポがくれたビザがおばあちゃんを助け出してくれたの」
 センポ・スギハラ―――なぜエステルがセンポのことを知りたがっていたのか、私はそれをようやく理解した。
 センポはSheenaおばあちゃんを救ってくれた人。
 あの子の大好きなSheenaおばあちゃんを……
「これでわかったでしょ」
 エステルは私の手から写真を取り戻した。
「アシュケナージの家にも、ワートハイマーの家にも、もうお金なんて一銭もないの。私はおうちがほしいの。そうだわ、ミラノ。私のおうち、あなたにも一緒に住まわせてあげる」
 エステルは私に向かって微笑みかけた。
「私、ミラノのことが好き。だってミラノと一緒だと何だかとっても楽しいもの」
「エステル……やめて、そんなこと言わないで」
「ミラノ、この家には他にもたくさんの絵があるの。みんなSheenaおばあちゃんのパパが集めたものなんだよ? そうだ。それ、ぜーんぶミラノにあげる。ミラノ、そうゆうの好きなんでしょ?」
 いや! そんなのいらない!
 私はあなたなんかと一緒に暮らしたくない!
 私はバティスタ氏と……あの人と一緒に楽しく優雅な生活を送るの!
 気がつくと―――私はエステルを振り払ってドアから外へと飛び出していた。
 ああ……ああ、どうすればいいんだろう!
 私は自室のベッドに転がり込むと、頭から毛布をかぶって震えつづけた。
 エステル……あの子はどうしてこんなことになってしまったのだろう?
 あんな……あんな天使のような子が、自分を育ててくれた伯父夫婦を焼き殺し、今度はこの家を乗っ取ろうとするなんて……あの子はそんな子なんかじゃない!
 そう……きっと今までのはぜんぶ作り話、私はまんまとだまされていたのだ。
 子供というのは、ああいった作り話を好むもの。周囲の愛に恵まれなかった子供ほど、冗談や作り話で人の気を引こうとする。それは時に他人を傷つけるものでもあるけれど―――
 そうすることでしか、彼らは自分の存在を主張することができないのだ。
 私は一度冷静になって状況を整理してみた。
 いま私が第一にしなくてはならないこと―――それは、これ以上のエステルの暴走を食い止めること。
 今のあの子はどうかしている。いずれにしても、一度バティスタ氏に相談しておいたほうがいいだろう。
 そういえば―――私は思い出した。
 私はバティスタ氏から招かれていたのだ。昼間、彼は私に言った。

 今夜またこの部屋で―――いいね、ミラノ……

 私はおもむろにベッドから身を起こした。
 やにわに高鳴る胸の鼓動。
 今夜、私は女になる。
 その時が……その時が来たのだ。
 
 私は全ての衣服を脱ぎ捨て、備えつけのバスルームへと向かった。
 何はともあれ、シャワーだけは浴びておこう―――

 そう思いながら……

                                 第27話 終
愛、憎しみ、疑念―――渦巻く混乱の中で、今宵、女になる、みらの先生……。
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