大天使ガブリエルの暗示、そしてバルディ家の悲劇……みらの先生は走ります。
第25話 しいなちゃん
§ 25 しいなちゃん
「どうなされたのですか、神野先生? そのように汗びっしょりで……」
彼―――火屋野勇人は言った。
ガブリエル―――それはヘブライ語で“神の勇士”を意味する。
それは火屋野“勇人”を暗示した置き換え―――もはや疑う余地はない。
そしてもう一つ。あの絵にはマリーアの弟ヨシュアの姿が描かれていない。そう、あれはヨシュアが生まれる前に描かれた作品なのだ。ということは、あのお腹の中にいる赤ちゃんは、そう―――サユリの次女ガブリエッラ!
ああ、なんということだろう。
火屋野さんはストーカーなどではなかった。
父親―――ガブリエッラの父親だったんだ。
彼がいま三十五歳だとしたら……娘のガブリエッラは十六歳。よって、彼が自身の従姉であり、バティスタ氏の妻でもあったサユリさんと結ばれたのは、十八、九歳の頃……。だとすると、彼が大学一年くらいの時。きっとまだ若すぎたんだ。だから情熱を抑えることができなくて、それで……。
「火屋野さん」私は意を決して訊いた。
「火屋野さんは……その……」
……ダメだ、私には訊けない。
もし事実を知ってしまえば……私はもう後戻りできなくなる。
バティスタ氏の悲しむ顔が目に浮かぶ。ガブリエッラだってきっと……
そうだ―――私は一つの賭けを思いついた。
そうだ、血液型を訊けばいいんだ。事実を確かめるのはそれからでも遅くはない。
もし火屋野さんがAB型でありさえすれば……A型のサユリとの間にO型のガブリエッラは生まれない! そうだ、まずはそれを確かめるべきだったんだ―――
私はそこに一縷の望みを託した。
どうか……どうかAB型でいて、おねがい―――
私は祈るような気持ちで彼の答えを待った。
「私はAB型です」火屋野さんはハッキリと言い切った。
ああ、やった―――私は思わず胸の前で両手を組み合わせた。
乙女チックにはしゃぐ三十路前の腐女子を目の当たりにして、火屋野さんは呆れたように首をかしげていた。
よかった―――火屋野さんはシロだった。これで誰も傷つかないですむ……
私は心からの喜びをかみしめていた。
なぜだろう? 他人に無関心な私が、どうしてこんな……
もしかしたら―――これが恋というものなのだろうか?
恋は人をこんなにも優しい気持ちにさせるものなのだろうか?
私はバティスタ氏の悲しむ顔を見たくはなかった。そしてガブリエッラのそれも―――
「それにしても神野先生。なぜ私の血液型などを……」
「すいません、火屋野さん。ちょっとした占いみたいなもので……」
私は話を取り繕って言った。まさか本当のことは言えないだろう。
私は満面に笑みをたたえながら、せいいっぱい火屋野さんに向かって愛想をふりまいた。
その時だった。
「ミラノ、そんな人にだまされちゃダメ!」
背後から投げつけられた少女の声―――私は思わず振り返った。
「ミラノ、だまされないで。その人はウソを言っているの」
エステル―――まさか私のことをつけてきたの?
「うそではありませんよ、エステルさん」火屋野さんは穏やかに言った。
「調べればわかることです。私は間違いなくAB型なのですから」
「そうよ、エステル」私は諭すようにエステルの頭をなでた。
「私たちが間違っていたのよ。やっぱりあれはただの思い込み。全てはバティスタ氏の言う通り、ただの偶然だったのよ」
エステルは頷かなかった。黙ったまま私の顔をじっと見つめていた。
「あなたは先に食堂で待っててくれる? そろそろお夕飯の時間だから。ね?」
エステルはようやく首を縦に振ってくれた。
食堂へと向かうエステルの背中を見送りながら、私は改めて火屋野さんに訊いた。
「あの……火屋野さんって、蛇滝村のリサさんの従兄にあたるんですよね?」
「リサ?」彼は驚いたように言った。
「神野先生、リサをご存知なんですか?」
「ええ、ちょっと」私は彼女との出会いを手短に説明した。
「それで……リサさんから聞いたんですけど、この洋館ってもともとは彼女のひいおばあさんが管理していたんですってね」
「ええ……といっても名ばかりのものでしたが」火屋野さんは言った。
「ご存知かとは思いますが、私はバティスタ氏の妻サユリさんとは、父方のいとこ同士でした。リサは母方の従妹にあたるのです。ですから、この洋館にゆかりがあるのは母方の曽祖母ということになりますね」
「そうだったんですか」私は頷いた。
「曽祖母が動けなくなってからは、うちの父が洋館の管理を引き受けました。といっても、もともと大したことなどしていませんでしたから……半年にいっぺん様子を見にまわるくらいのことだったかと思います。いずれにせよ、父ももう亡くなったことですし」
「ええ、リサさんから聞きました」私は言った。
「結局、お父さまは土地と洋館を蛇滝村に売ってしまったんですか? ワートハイマーさんの許可は得たんでしょうか?」
「さあ、それは……」火屋野さんは困惑げに言った。
「管理といってもほとんど名目だけのものですから。土地も建物も、そもそもいったい誰のものなのか、私たちにはよくわからないのです。ご存知ですか? 民法には取得時効という考え方があります。占有の意思を明らかにした上で一定期間の使用状態が続けば、時効の完成により所有権を得ることができるのです」
「一定期間って……どれくらいなんですか?」
「原則として十年。長くても二十年です」
十年……他人の土地でも十年いすわればその人のモノになっちゃうわけか……
「ワートハイマーさんはこのことを知らないんでしょうね、きっと」
「そうだと思います」火屋野さんは言った。
「なにしろ何十年も音沙汰なしですから……今さら何か問題があるということもないでしょう。私としては、この館が残っただけでも良しとすべきだと思うのですが」
「そう……そうですね」私は頷いた。
でも―――私は思った。
火屋野さんの曽祖母はどう考えていたのだろうか? 彼女は、あの土地と洋館が人手にわたったことをまだ知らない。
おそらく―――彼女はまだ信じているのだ。ワートハイマー一家が戻ってくることを、そして“椎名ちゃん”、すなわちジェーン・ワートハイマーが帰ってくることを―――そう、彼女は言っていた。
しいなちゃんが帰ってくる、しいなちゃんが帰ってくる……
ジェーンがなぜ「しいな」という日本語で呼ばれていたのか、それはよくわからない。だが、ジェーンと“しいな”が同一人物であることは、今や疑う余地のない事実―――
だが、もしかしたら―――もしかしたら火屋野さんなら知っているかもしれない。しいな(=ジェーン)について、彼は曽祖母から何かを聞いているかもしれない。
「あの、火屋野さん」私は改めて彼に訊いた。
「リサさんから聞いた話なんですけど……ひいおばあさん、何かしきりに“椎名ちゃん”という人のことを気にしてるみたいなんです。火屋野さんならご存知じゃないかしら? その……“椎名ちゃん”って人のこと」
「いえ、それは初耳です。もしかしたら昔、曽祖母から聞いたことがあったかも知れませんが……正直、私にはあまり興味がなかったもので」
ああ、はずれか―――私があきらめかけたその時だった。
「ですが―――その名前でしたら、蛇ヶ谷からの車の中で、むしろ、あなたとエステルさんが何度も口にされていたのではなかったでしょうか? 私の聞き間違えでしょうか」
「えええっ?」私は思わず声をあげた。
私とエステルが、“椎名ちゃん”のことを話し合っていた? そんなバカな!
私は知らない……“椎名ちゃん”なんて人は……でも……
ああっ……!
私は全身を硬直させたまま、その場に立ち尽くした。
知ってる……私は確かに知っている!
しいなちゃん……ああ、私は確かにその名を口にしていた。
まさか……まさか、あの人が“しいなちゃん”だったなんて……!
昨日の電話―――そこでおどけるようにリサは言った。
私の名前、外国人みたいでしょう―――
そう、日本人なのに外国人のように聞こえてしまう名前、リサ。だがその逆もまた……
外国人の名前なのに、日本人のように聞こえてしまうそれだってあるんだ!
しいなちゃん……ああ、今ならわかる。そう、まちがいなく……
ヤバイ……これって絶対、何かがヤバイ!
私の第六感は最悪の結果を予見していた。
そして、エステル―――あなたはいったい何者なの!
第25話 終
明らかになった“しいなちゃん”の正体―――そして、エステル、あなたはいったい誰なの……?
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