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バティスタ氏の妻サユリが残した奇妙な絵『スザンナ』。そこに込められたバルディ家の真実とは……
第24話 天使の図像学
§ 24 天使の図像学イコノグラフィ

「なるほど―――」バティスタ氏は興味深そうに頷いた。
 全ての説明を終えた私は、訴えるような目で彼の顔を見つめた。
 おねがい、どうかわかって―――あなたは今、恐ろしい危険の中にいるの……!
「ピエロ・ディ・コジモの絵が、私たち家族の運命を暗示している―――か」
 バティスタ氏は笑った。
「せっかくだがミラノ。私にはむしろ、モナリザの壁に刻まれていたという二人の恋人の名前のほうが気になるね」
「名前?」私は訊いた。
「そう、名前」彼は頷いた。
「そのうちの一人はJaneジェーンだったね。Jane ―――君はこの名前の由来を知っているかい?」
「いえ……考えたこともなかったけれど」私は彼の顔を見ながら答えた。
「いいかい、ミラノ。 Jane というのは、英語でいうJohnジョン の女性形なんだ。ちなみにJohn をイタリア語で言えばGiovanniジョヴァンニ 、そしてギリシア語では――― Johannesヨハネ
 ジェーン=ヨハネ?
 彼の意外な謎解きに、私はしばし言葉を失った。
「全ては偶然の一致なんだよ、ミラノ」
バティスタ氏は笑みを浮かべながら言った。
「マリーアのこともガブリエッラのことも、そして―――私のことも。確かなのは次の二点だけだ。ワートハイマー氏の妻がリザと呼ばれていたこと、そして彼の家にはジョシュとジェーンと呼ばれる二人の男女がいて、それが永遠の愛を誓い合っていたということ―――それだけだ」
「え、ええ……」私はバティスタ氏の言葉を受け入れた。
 そうだ、全てはただの偶然。
 あの絵に描かれたエリザベスの子ヨハネがバティスタ氏をあらわしているなんて……馬鹿げているにもほどがある。
 むしろ、彼が言うように、ヨハネ=ジェーンと考えるほうがずっと自然だ。ワートハイマー邸の壁に「ジェーン」の名が刻まれていたのが何よりの証拠。ヨハネ=ジェーンは、ワートハイマー家の一員だったのだ。
 すると……「リザ=エリザベス」、「ジェーン=洗礼者ヨハネ」という二つの等式と、その聖書的背景から言えるのは、ジェーンはリザの娘であるということ。そして、火屋野ほやのリサの言葉を信じるならば、例の“椎名ちゃん”は、“誓子さん”の娘ということだから……
 いくぶん複雑になってしまったけれど、端的に言えば、こうだ。

 誓子=リザ・ワートハイマー
 椎名=ジェーン・ワートハイマー、リザの娘

 ならば、話はスッキリする。
 ピエロ・ディ・コジモの『聖母マリアのエリザベス訪問』―――あの絵にこめられた真の意味。
 それはリザ夫人(誓子)の妊娠のお祝いだったのだ。あの絵に描かれたエリザベスは、聖なる胎児・洗礼者ヨハネを身ごもっている。そして、リザ夫人もまた娘ジェーン(椎名)を身ごもっていた。この絵は妻の妊娠を記念してワートハイマー氏が贈ったもの―――それが正しい謎解きだったのだ。
 だとすると、もう一方の妊婦―――あの切り裂かれた聖母マリアは誰なのだろう? マリアもまた子供を身ごもっていた。のちにイエス・キリストと呼ばれる男の子を―――
「ありがとう、ミラノ」バティスタ氏は私の腕を軽く叩きながら言った。
「私のことを心配してくれたんだね。大丈夫、不安なことは何もないのだから」
 私は潤んだ瞳で彼の顔を見つめた。
「君の推理はなかなか面白かったよ。これも一種の図像学イコノグラフィと言えるかも知れない。そう、死んだ妻のサユリもそうだった。彼女は図像学の世界に魅せられて、画家になる夢を捨て、美術史学の道を歩むことを選んだのだから」
 バティスタ氏は、イーゼルに立てかけられた例の『スザンナ』へと目を移した。
 一緒についてきたエステルが、私の袖を引っ張った。
 そう、あなたもこの絵を見たいのね、エステル……
 私はエステルの手を引いて、間近に寄ってこの絵を鑑賞した。
「君たちはまるで本当の親子のようだね」バティスタ氏は目を細めた。
 そう、エステルはママに手を引かれる子供のように、私のとなりをちょこちょこと歩いていた。
 それにしても、この絵は何度見ても素晴らしい。サユリさんってすごい……
「……なんだかおかしいわ、この絵」
 感激する私の横で、エステルが小さく呟いた。
「ミラノ、この絵おかしいよ」
「え……おかしいって……何がおかしいの、エステル?」 
 私は再び画面に目を戻した。
 おかしいって……この絵の何がおかしいのだろう?
「この絵……聖書に出てくるスザンナと長老たちの物語でしょう、おじさま?」
 エステルの言葉にバティスタ氏は頷いた。
 スザンナと長老―――それについては前にも書いた。だとすれば、この絵は確かに奇妙だ。 スザンナを覗き見しているのが「長老たち」ではなく、「天使」……それも大天使ガブリエル―――この描き方は明らかに異様だ。
「ミラノ、エステル」
 バティスタ氏は、私たちの肩に手をかけて言った。
「この絵には、確かにいくつかの謎がある。図像学に通じていた妻がこんなデタラメな絵を描くはずがない。おそらくこの絵には、何らかの秘められた意図があると思うんだ」
 思わぬ展開に、私の心はざわめいた。
 この絵の謎……私には、それを読み解く能力はない。
 頼みの綱はそう、芸術学博士号候補生―――エステル・アシュケナージ。
 私に促され、エステルは再度絵のそばへと歩み寄った。
「教えて、エステル」私は言った。
「この絵はいったい何を描いたものなのかしら?」
「わからないわ」そっけないエステルの返事。
 私はいささかゲンナリとなった。それを見たエステルは一つだけこう指摘した。
「わかるのはこのユリの花だけ―――」
 エステルは少女のもつ白いユリの花を指差した
「これは伝統的に聖母マリアの象徴物アトリビュートなの。だからこの絵が西洋の図像学に基いて描かれているとしたら、この少女は聖母をあらわしていると解釈することが可能なの」
 白ユリ=聖母マリア――それが、図像学の一般的な解釈。
 では、残りの人物は一体……
「ミラノ、これから話すのは図像学とは言えないことなんだけど……いいかしら?」
 エステルは私に許可を求めるように言った。
「いいのよ、エステル」私は言った。
「あなたの好きなように解釈してくれれば」
 うん、とエステルは小さく頷いた。
「この絵に登場する他の人物……スザンナと天使ガブリエル。スザンナはヘブライ語で“ショーシャンナー”―――“ユリ”を意味するの。ガブリエルは“ガヴリーエール”―――その意味は“神の勇士”」
 エステルはそこで言葉を切った。
 ユリ……神の勇士……そして聖母マリア……
 私は頭の中でくりかえし呟いた。
 ユリ……勇士……マリア……
 聖書の中のスザンナは貞淑な人妻だった。だが、この絵に描かれたスザンナは何かが違う。
 絵の中の彼女は、すでにその場で妊娠している。彼女を孕ませたのは誰なのだろう?
 まさか―――私は一つの結論に達した。
 スザンナは「天使」によって孕まされたのだ。大天使ガブリエル―――この天使は、妊娠、受胎をつかさどる。その名の意味は“神の勇士”!
 神の勇士……それがスザンナの姦通の相手だったのだ!
 白ユリの少女(マリア)は、おそらくスザンナの娘。そしてもう一人、お腹の中に宿った二人目の子供―――それこそが“神の勇士”によって孕まされた不義の子……!
 ああ、なんてこと……!
 私には全てが理解できた。
 
 スザンナ、ガブリエル、マリア、そしてお腹の中の赤ちゃん……

 それがいったい誰を意味しているのか―――
 エステル……あなたはそのことを言いたかったのね?
 あの子が頷くのを見て、私は確信をえた。
 すでに、エステルには私の集めた情報を全て伝えてある。その上で、あの子は私に対して、衝撃的な事実を示そうとしているのだ。
 私は思わず駆け出した。
 いたたまれなくて……その場にいるのがつらくてならなかった。
 ああ、こんな事実、知りたくはなかった……
 私はこみあげる切なさに抗いながら、バラバラになったパズルのピースを一つずつ組み合わせていた。そう、サユリさんが残した『スザンナ』という名のパズルを―――
 スザンナの意味するところは“ユリ”―――すなわち、バティスタ氏の愛妻小百合サユリを象徴していたのだ。
 サユリは娘のガブリエッラと瓜二つといわれた和風美人。スザンナがガブリエッラを思わせる顔立ちで描かれているわけも、これだときっちり説明がつく。
 そして白ユリの少女として描かれた聖母マリア―――ああ、私はいま完全に理解した。
 あれは、この家の長女マリーアなんだ。子供時代のマリーアを忠実に写し取ったものなのだ。だから、その面影に見覚えがあった……。
 そして最後に“神の勇士”ガブリエル―――
 私は今からそのガブリエルに会いにゆく。
 遅かれ早かれ―――彼には会わなくてはならないのだから。
 ガブリエル―――その人物こそが、絵の中のサユリが宿したお腹の中の子の父親。あの子の……あの美しい少女の父親なのだ!
 
 私は薄暗い廊下を走り続けていた。
 外はもう真っ暗―――おそらく彼もすでに帰宅しているはず。そう、夕食までには戻っているはず―――
 
 私はその人物―――火屋野勇人(ユウト)を探していた。

                                  第24話 終
サユリを孕ませたのは火屋野勇人だった? だとすると、お腹の中の子供は……
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