謎めいた老婆の言葉、そしてワートハイマー家の悲劇……名画に秘められたメッセージとは?
第23話 ジョン・ザ・バプティスト
§ 23 ジョン・ザ・バプティスト
私は図書室を飛び出した。
まずは火屋野さん……火屋野勇人に会わなくては。リサの曾祖母に会うにしても、火屋野さんの車がなくてはどうにもならない。時間のことを考えると今日はもう難しいだろう。それなら明日にでも……
私は足早に廊下の角を曲がろうとした。
ゴツッ
「いたっ」額同士がぶつかる鈍い音。
私は、不注意にも誰かとぶつかってしまった。
「―――大丈夫、みらのさん?」
あまり心配そうじゃない茶谷くんの声。いたい……大丈夫じゃないかも。
「みらのさん、もっと気をつけないと危ないよ? 僕もまあ……次からは注意するから」
いちいちもっともな茶谷くんの言葉。うーん、言い返せない……
あ、そうだ―――はずみで私は重大なことを思い出した。
「茶谷くん、あなた、昨晩ガブリエッラさんと一緒だったわよね?」
私は勢いで訊いてみた。もしかして茶谷くん、ガブリエッラとその……
「うん、一緒だったけど、なに?」
悪びれる様子もなく淡々と答える茶谷くん。まさか開き直り?
「やってみるとさ、意外とハマるもんなんだね、ビリヤードって」
彼は楽しげに言った。
「火屋野さんが丁寧にルールとか教えてくれたんだよ。だからけっこう上達してさ」
「え、火屋野さんって……ずっと三人でやってたの?」
「そうだけど」茶谷くんは怪訝そうな目で私の顔を見つめた。
なんだ、火屋野さんもいたのか……ふう、ホッとした。と同時に、私の中で、ある一つの疑念が、次第に確信へと変わった。
そう、マリーアは言っていた。火屋野さんはガブリエッラのことが好きなのだと……。
そうなのかもしれない。
火屋野さんのガブリエッラを見る目―――あれはちょっと普通じゃない。どことなくストーカーじみているというか……けっきょく昨夜だって、ずっとガブリエッラに付き添っていたのだから。
茶谷くんにビリヤードを教えるためではなく、二人が変なことにならないよう監視するために―――
とにかく、茶谷くんは無実だった。気をよくした私は、足取りも軽く、再び火屋野さんを探して小走りに邸内を駆け回った。
「あれ、神野先生。そんなに慌ててどうしたんですか?」
ドアから顔を覗かせるガブリエッラの声―――ああ、ちょうどいいところに!
「ごめんなさい、ガブリエッラさん。ちょっと火屋野さんを探していて」
「火屋野さんが何かしたんですか?」胡散臭げなガブリエッラの反応。
「いや、そうじゃなくて……とにかく用事があるの。ねえ、どこかしら、火屋野さん」
「用事で外に出てるみたいですよ? 夕食までには戻ると思うけど……」
火屋野さんが外出……それではどうしようもない。
全身から一気に疲れがふき出して、私はヘナヘナと壁にもたれかかった。そんな私を不思議そうに見つめる十六歳のガブリエッラ。その純和風の清らかな顔……
「そういえば……ガブリエッラさんって、お母さん似なんですってね」
「ええ、よく言われるんです」彼女はいつもの笑顔に戻って言った。
「でも、お姉さまとヨシュアはパッチリとした西洋風の顔立ちなのに、なぜか私だけ黒目黒髪の日本人的ルックスで……私だけ橋の下で拾われてきたのかしら?」
「今どき橋の下だなんて、そんな表現よく知ってるわね、ガブリエッラさん」
私は思わず吹き出した。つられてガブリエッラも吹き出した。
「でも、この話をするとママがものすごく怒るんです。みんなもう驚いちゃって……ママったら、ただの冗談なのに」
ガブリエッラは家族全員の血液型を教えてくれた。バティスタ氏と妻のサユリさんはともにA型。そしてマリーアとヨシュアの姉弟もA。ガブリエッラだけがO型……でも、これは別におかしなことではない。両親がともにA型の場合、子供は必ずA型かO型となる。このケースで生まれてくることがないのは、B型とAB型なのだから。
ガブリエッラは鬼っ子じゃない。実際、母のサユリさんにそっくりなガブリエッラが、バルディ家の娘であることを疑う余地などどこにもないのだ。
それはともかく―――火屋野さんは夜までつかまらない。だったら、こんなところでウロウロしているのは時間の無駄。私はとりあえず部屋に引き返すことに決めた。
ガチャツ
私はドアノブを回して自室に足を踏み入れた。
その瞬間、私は思わず叫び声をあげた。
「あーっっ!」
ベッドに腰かけてモナリザに見入る一人の女の子―――エステル。
「ちょっと、勝手に入っちゃダメでしょ!」
私は思わず声を荒げて言った。
「ごめんなさい」エステルは素直に謝った。
意外な反応に、私は戦意を喪失した。それと同時に、昨夜のことが生々しく思い出され、私は思わず赤面した。そう、危うく私はエステルと……
エステルは、単にモナリザが見たかっただけらしい。なんでも、例のひいおばあちゃんが、この名画をよく模写していたとかで―――おばあちゃんは美術に相当詳しい人だったようだ。エステルが美術を学ぶようになったのは、間違いなくこの曾祖母の影響だろう。
「ねえ、エステル」
エステル―――私は、無意識のうちに彼女をファースト・ネームで呼んでいた。
「ほら……例の“ラジオ、混んだ”ってやつなんだけど……」私は言った。
「もしかして、それ――― La Giocondaのことじゃないかしら」
エステルに意見を求める私―――昨日までのわだかまりが嘘のように。
どうしてだろう?
エステルがワートハイマー家と同じユダヤの家系に生まれ育った女の子だから?
それとも、昨晩の体験を通じて、私はエステルのことを無意識に受け入れようとしているのだろうか?
「La Gioconda …… Mona Lisa?」
そう呟くと、エステルは私の顔を見つめた。二人の視線がピッタリと合った。
この絵―――リザ・ワートハイマーの“モナリザ”に不審な傷などはない。もし、「ラジオ、混んだ」が何かの合言葉で、それが「モナリザ」を指しているとすれば……。
だとしたら―――私たちは互いの目で頷いた。
私たちは、二人で力を合わせて『モナリザ』を額ごと上に持ち上げた。
あ―――エステルが小さく呟いた。
剥き出しになった白い壁。そこに刻まれていた文字、それは―――
Josh and Jane, world without end――――
ジョシュ? ジェーン?
私たちは、またしても未知の人名に遭遇した。
そして、続く文章「world without end」――――これは文語的表現で「永遠に」という意味らしい。エステルがそう教えてくれた。
だとすると、これは二人の恋人同士の永遠の愛の誓い―――それを刻みつけたもの?
「ねえ、エステル」私は訊いた。
「これ……どういう意味なのかしら。どうしてモナリザの裏にこんなメッセージが……」
ラジオ、混んだ―――火屋野リサの曾祖母の言葉。それは恋人たちのメッセージ在り処を指し示していた?
エステルは答えなかった。
黙ったまま壁に近づくと、刻まれた文字にそっと手をかざし、何かを感じ取ろうとするかのように、頬をつけた。
「ねえ、エステル。聞いてもらいたい話があるの」
私はそっとエステルの肩に手を置いた。エステルは憂いを帯びた瞳を私に向けると、壁から身を離して向き直った。
私は、エステルに全ての推理について説明した。
モナリザ(=エリザベス)がリザ・ワートハイマーを象徴していること、そしてピエロ・ディ・コジモの『聖母マリアのエリザベス訪問』が、マリーアやガブリエッラを象徴する登場人物で満たされていること―――
「教えて、エステル。聖母マリアは私でも知ってるけど、この絵の中で聖母のとなりにいるエリザベス―――これは一体どういう人なの?」
私は訊いた。エステルは、いつになく口数が少ないように感じられたが、私の問いに対し、次のように答えてくれた。
「“エリザベス”はヘブライ語で“エリシェヴァ”……“神は誓う”という意味なの」
ヘブライ語……ここでもまたヘブライ語があらわれた。
「この絵に描かれている“エリザベス”は、ユダヤの祭司ザカリアの妻の“エリザベス”。映画『十戒』で有名なモーセの兄弟アロンの妻も“エリザベス”ってゆうの」
エリザベス=「神は誓う」。まさか、この名前にそんな意味があったなんて……
ラジオ、混んだ……La Gioconda。
それはモナリザ、つまりエリザベスのことを意味していた。そして“エリザベス”の意味、それは「神は誓う」……
いや、ちょっと待て。神は誓う?
誓う……誓い……それって!
ラジオ、混んだ―――そのラジオの持ち主とされる女性……名前は確か“誓子”さん!
私の全身に電流が走った。
誓子さん……それは“エリザベス”を和訳したものだった!?
私はまちがっていなかった。
モナリザ=エリザベス=リザ・ワートハイマー、そして今、エリザベス=誓子という図式が加わり、「リザ・ワートハイマー=誓子」という等式が成り立つことが立証されたのだ。
x=yかつy=zならばx=z―――xがリザ、yがエリザベス、zが誓子だとすれば、上の推理は、等式の交換則と推移則からしてまちがいなく正しい―――
興奮さめやらぬ私をよそに、エステルはさらに衝撃的な事実を私に告げた。
「ザカリアの妻エリザベスは、洗礼者ヨハネ―――人々に神の裁きの到来を告げた、イエス・キリストの従兄弟―――を生むの。洗礼者ヨハネは、英語ではJohn the Baptist―――フランス語のジャン=バティストという人名はここからきているの」
ジャン=バティスト……つまり“ジャン”が“ヨハネ”、“バティスト”が“洗礼者”を意味する複合的な名前なんだ……私はそう理解した。
バティスト……「洗礼者」を意味するこの単語、私はどこかで耳にしたような覚えがある。
バティスト……バティスト……まさか、それ!
私の全身はわなないた。
フランス語のバティスト、それってもしかしてイタリア語では……バティスタ!
ああ、なんてこと?
やはり、この絵はバルディ家の運命を予言する絵だったんだ……!
私はワートハイマー氏を恨んだ。
ワートハイマー家の誰かによって切り裂かれた聖母の絵。それがめぐりめぐって今、バルディ家に対して、未知の災いをもたらそうとしている。
さしあたって危険なのはマリーア!
ああ、マリーアが危ない……!
私はすぐさまバティスタ氏の書斎へと向かった。もちろん、エステルの手を引いて……
だが、バティスタ氏はわかってくれるだろうか?
自分たちが今、どれだけ異様な状況に巻き込まれているのかを……
私は走った。
息苦しさをこらえながら、バティスタ氏のもとへと走りつづけた……
第23話
家族とは異なる黒目黒髪の次女ガブリエッラ。そして名画が予告するバルディ家の運命とは……。
次回、エステルによる名画の図像学的解釈。その結論とは……
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