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アメリカ人貿易商ワートハイマー氏の日記。そこに綴られた96年前の悲劇とは……?
第19話 ワートハイマー氏の日記
         五月一日メーデー バルディ邸

 五月一日――私は一人だけ正午まで爆睡していた。
 自慢じゃないが、私の寝起きは最悪。
 バルディ家の人々もエステルも茶谷くんも――私以外の全員は、きちんと起きて朝食をとったというのに……。
「どうもすいません」私はバティスタ氏に非礼を詫びた。
「あれから根をつめて調べ物をしていたもので――恥かしいです」
 私は自分勝手に話を作って言い逃れを試みた。
 本当のところ、例のハーブティーでメロメロになった私は、その後すぐにベッドにもぐりこんで、あとは思い切り爆睡――
 大いびきの上、ヨダレで枕を濡らしながら……
「かまわないよ、ミラノ」
 ミラノ――あれ以来、バティスタ氏は私のことをそう呼んでいる。
 嬉しいような、気恥ずかしいような……
 私はまだ戸惑いを感じていた。
「好きな時に起きて、好きな時に食べる――君がしたいようにすればいい」
 バティスタ氏は笑顔で二度、私の肩を叩いた。
 私たちはバティスタ氏の書斎にいた。
 もちろん、午後の情事にふけろうというためではない(オイオイ)。
 私はただバティスタ氏のコレクションを見せてもらいに訪れただけ――
 私たちは、手軽に食べられるグレンチ・パイを片手に、ソファーに腰かけた。
 甘いものを食べながら、リラックスしてアートを楽しむ――とっても贅沢だ。
 私はソファーの上から部屋の中を見わたした。
 壁に並ぶのは日本の浮世絵の数々――
 そう、バティスタ氏は大の日本びいき、中にはちょっとエッチな春画も……
 さすがにエステルが指摘するような、どぎついものは飾られてはいなかったけれど。
 外国の人ってこんなのが面白いんだ――私は改めてそう思った。
 世界的にも評価が高いという写楽の役者絵にしても、私の目にはウケを狙った変顔ヘンガオの落書きにしか見えないんだけど……プッ、下手な絵。
 それよりもこう……もっと写実的な絵ってないのかしら? 西洋の油絵みたいな……。
「あまり気に入ってはもらえらなかったようだね」
 バティスタ氏は私の顔を覗きこみながら言った。
「私にはとても素晴らしいと思えるのだが……」
「そうかしら」私はあえて持論を述べてみた。
「私は西洋の絵のほうが好きだな……レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ、それにティツィアーノ」
「ダ・ヴィンチ、ラファエロ……全部イタリアの画家だね」
 バティスタ氏は私を振り返りながら言った。
 私は耳の裏まで真っ赤になった。
 私ってば、無意識のうちにイタリアの画家ばかりを列挙して……
 バティスタ氏の母国であるイタリアの――
「うれしいよ、ミラノ」バティスタ氏は言った。
「君はイタリアの絵画が好きなんだね。まるで自分のことを誉められている気分だよ」
「そんな――」私は恥かしさのあまり目を伏せた。
 これじゃまるでハリウッドの恋愛映画――まさか自分がその主人公になってしまうなんて。
 今でもまだ信じられないような気分だ。
「せめて実家のフィレンツェに戻れば、君が言うような作品をいくらでも見せてあげることができるのだが――」
 バティスタ氏は悔しそうに言った。
「いいんです、別に」私は慌てて自分の言葉を打ち消した。
「別に私、浮世絵が嫌いっていうわけじゃないですから……」
「本当かい、ミラノ?」
 私は大きく頷いた。それを見たバティスタ氏は、意を決したように立ち上がった。
 彼はイーゼルに立てかけた一枚のキャンバスへと歩み寄ると、そこから真っ白な覆いを取り去った。
 はっ――私は思わず息をのんだ。
 あらわれたのは落ち着いた色彩の写実的な油彩画――
 古典に範を取った明快でシンプルな構図、抑制の効いた節度ある陰影表現、そして上品な色彩――
 まさしく正統的な意味での名画と呼ぶにふさわしい一枚。
 いったい誰が描いたものなのだろう?
「ミラノ、君にこの絵を見せるべきかどうか、本当は迷いもあったのだが……」
 バティスタ氏は、私にも見えるようにイーゼルの位置を整えた。
「わあー……」私は何度も歓声をあげた。
 すごい。このリアルで立体感的な表現。どうやったらこんなふうに描けるのだろう?
 すごい、この絵は本当にすごい……!
 そこに描かれていたのは、水浴中の一人の裸婦――聖書物語に出てくるスザンナ。
 よく見るとこの顔、どことなくガブリエッラに似ている。
 まさかガブリエッラが実際に脱いでモデルになって……
 いけない、こんなところで萌えている場合じゃない!
 そして目を画面左のほうに移せば、そこには女を覗き見しているとしか思えない一人の天使の姿。
 さらにいえば、この裸婦のお腹――かすかにふくらんでいるのがわかる。
 そう、彼女は妊娠しているのだ。
 だとすれば、この天使の正体は明白。
 妊婦のもとを訪れる天使といえば一人しかいない。
 そう、大天使ガブリエル――受胎告知の天使。
 そして妊婦のとなりには、白いユリの花を持ったかわいらしい女の子の姿……
 この顔にもどことなく誰かの面影がある。
「実はこの絵――亡くなった妻のサユリが描いたものなんだ」
「ええーっっ」私は思わず叫び声をあげた。
 サユリさんってこんなに素晴らしい絵を描く人だったの? 
 すごい、これならプロにだってなれたろうに……!
「妻が死んでから、年を追うごとにこの絵に惹きつけられていくのが自分でもわかるんだ。どうしてだろう? この絵は何かとても不快なもののようにも見える。だが、それが逆に私の心をたかぶらせる――まるで自分が、スザンナを覗く淫らな老人を演じているかのような錯覚に陥るんだ」
 バティスタ氏の赤裸々な告白――でも、私にはわかる。
 この絵がバティスタ氏の思いを揺さぶる理由――それはスザンナの顔立ちにある。
 この顔立ちは彼の愛娘ガブリエッラそのもの。
 そんな絵を見せられたら、私だって……
 そして、そのとなりで白ユリを捧げもつ美少女――この顔にも明らかな面影がある。
 私の知っている誰かの少女時代を描いたもののように思えるのだが……
「この絵は聖書に出てくるスザンナと長老たちの物語を描いたものなんだ」
 バティスタ氏は絵の由来について説明してくれた。
 スザンナと長老――聖書によると、話はこうだ。
 その昔のユダヤに、年甲斐もなくエロに走った二人の老人がいた。
 彼らは、美しい人妻スザンナの水浴現場を覗き見して欲情し、こともあろうに人妻を犯そうとしてスザンナに言い寄った。
 驚いたスザンナが老人たちを拒むと、彼らは逆にスザンナを姦通罪で告発し、石打ちの刑に追い込んで殺してしまおうと画策した。
 ところが最後には、神の預言者ダニエルが老人たちの罪を暴き、スザンナの無実を立証する――
「だがサユリは、長老たちの姿を描かず、かわりに天使の姿を描いた。それが気になって、ずっとここに立てかけてあるんだ」
「そうだったんですか」私は納得したように頷いた。
 別に私は、死んだサユリさんのことなど気にしてはいない。
 そのことを気遣っているのなら、それはバティスタ氏の思い過ごしだ。
 私はただ、この絵の素晴らしさに純粋な感動を覚えていた。
 どうやら彼にもそれが理解できたようだ。
 バティスタ氏は満足そうに私の目を見つめて微笑んだ。
「実を言えば――」彼は続けた。
「この家の前の持ち主――ベンジャミン・ワートハイマー氏も熱心な美術収集家だったようでね。彼が芸術全般に対してどれほどの理解を持っていたのか? それを窺うことができる格好の手かがりがこれ――」
 バティスタ氏は机まで戻ると、引出しから古びた一冊の日記帳を取り出した。
「ワートハイマー氏の日記――他の家具と同様、これもそのまま机の中に残されていたものなんだ。置き忘れていったのか、それとも何か急な事情で日本を離れなくてはならなくなったのか――恐らくその二つが不運にも重なってしまった結果だと私には思えるのだが」
 ワートハイマー氏の日記――例のアメリカ人貿易商のそれ。
 自分の妻に『モナリザ』の精緻なコピーをプレゼントした人物――
「この日記によれば、彼もその家族も、みな美術の素養があった人たちのようなんだ」
 バティスタ氏は、日記から読み取れることを説明してくれた。
「この邸は、もともと神戸のユダヤ人協会のゲストハウスの役割も兼ねていた。ワートハイマー氏は、当時人気の避暑地だったこの土地に別荘を建て、家族でよく訪れていたらしい」
「ユダヤ人協会?」私は訊き返した。
「ということは、ワートハイマー氏はユダヤ系だったんですか?」
「そう」バティスタ氏は頷いた。
Wertheimerワートハイマーという姓はセファルディ系ユダヤ人に多い名字だからね」
 そうなんだ……例の貿易商は日本にやってきたユダヤ人だったんだ。
「それで――」私は訊いた。
「あのモナリザも美術愛好家のワートハイマー氏が奥さんに贈ったものなんですね? For My Lisa――リザのために。リザってワートハイマー氏の奥さんの名前だと思うんだけど……」
「その通りだよ、ミラノ」
 バティスタ氏は私の頭をなでながら言った。
 これじゃあ、どっちが作家先生だかわかったもんじゃない。
 でもいいの。私はこうして彼のそばで甘えていたいのだから。
「この日記には何度も Lisa と呼ばれる女性が登場する。個人的な日記だから、『妻』や『夫』といった続柄をあらわす記述はどこにもないが、文脈からして自然にそう理解できる」
 日記――確かにそれは推理を要する読み物だ。
 なにしろ書いた本人にしか理解できない記述の連続なのだから。
「しかしこのワートハイマー氏、妻のリザのほかにも愛人がいたらしいんだ」
「えっ」私は小さく呟いた。
「それがどうも日本人の女性――ワートハイマー家の家事をみていたひとのようなんだ」
 愛人……私は心の中で再度呟いた。
 なんだか裏切られたような気分だ。
 妻にあんな素敵な『モナリザ』をプレゼントしたワートハイマー氏が、裏で女を囲っていたなんて……。
「やがてその女性の妊娠に気がついたワートハイマー氏は、彼女をユダヤ人コミュニティのあった神戸にやり、そこで男の子を産ませたらしい。そして彼は――その男の子を自分の養子という形で引き取ったようなんだ。それも愛人の女性と一緒に――あくまで日記から推測すると、だが」
「なんだか複雑なんですね」
 どう答えていいものか、私は曖昧な返事で応じるほかなかった。
 私はこういう込み入った人間関係が好きじゃない。
 そんなことに巻き込まれるくらいなら、最初から不倫なんてまっぴらごめん――そう思う。
「それで」私は訊いた。
「どうなってしまったんですか? その……リザさんと愛人」
 私は話の流れで訊いた。本当はあまり深入りしたくはなかったけれど、今のロマンチックな気分が、いくぶん私を大胆にしていた。
 私はあえてワートハイマー家のドロドロの愛憎劇の結末を聞いた。
「妻のリザはうすうす感づいていたようなんだ」バティスタ氏は言った。
「まあ、自分の夫の子供、それも男の子とくれば……それが隠し子だと気づかないほうがおかしいかも知れない」
 確かに……
 一つ屋根の下で暮らしている以上、年とともに父親に顔立ちが似てくれば、疑いの目が向くのは避けられない。
「結局、ワートハイマー氏の愛人とその息子――当時12歳だったらしいのだが、彼ら二人はそろって1925年に死んでいる。不慮の事故だったらしい」
「二人とも一緒に……ですか」
「そう」バティスタ氏は頷いた。
「ミラノ、これを見てほしい」
 バティスタ氏は日記の間に挟まっていたボロボロの紙切れを私に手わたした。それは何かのパンフレットのようだった。
 タイトルは――日露交驩交響管絃樂大演奏會
 よ、読めない……これって旧字?
「調べたところ、それは日露にちろ交歓こうかん交響こうきょう管弦楽かんげんがく大演奏会だいえんそうかい――つまり、日本とロシアの演奏家たちが、一同に会して東京で行った演奏会のパンフレットらしいんだ。もっとも、ロシア側の参加者は旧満州のハルピン在住のメンバーが中心となっていたようだが」
 なるほど……
 でも、それが愛人母子の死と何の関係が?
「当時、ワートハイマー氏はこの演奏会の開催に深く関わっていたらしい。演奏会が開かれたのは1925年の4月26日から29日まで――コンサート・マスターをつとめたヴァイオリニスト、ニコライ・シフェルブラットとも親交のあったワートハイマー家は、当然のことながら四夜連続で東京の歌舞伎座に通い、全ての公演を聴いている」
 オーケストラの生演奏――私はまだ一度も行ったことがない。
 何か敷居が高いような気がして……。
 でもバティスタ氏と一緒なら――彼ならきっと私の望むがままに、どこへでも連れていってくれることだろう。
 私の思惑をよそに、彼は96年前の出来事について説明を続けた。
「公演最終日の4月29日――それはワートハイマー氏にとって悪夢のような一日となった」
 彼はついに核心を語りだした。
「その日の昼……氏の愛人だった日本人女性――名前を鞠子まりこと言ったらしいのだが、その鞠子の母親にあたる人が危篤に陥ったとの電報が東京のワートハイマー邸にもたらされた」
「鞠子……」私は声に出して呟いた。それが彼女の名前……
「ワートハイマー氏はすでに自宅を出た後だった。午後七時の開演時間に合わせて、家族もそれぞれの準備に追われていた――これはそんな中で起こった出来事だったんだ」
 なんてタイミングの悪い……
 私はつい自分のことのように顔をしかめて聞いた。
「当然のことながら彼女――鞠子――は、実家へと急行した。その時、彼女はあの子――そう、表向きワートハイマー氏の養子ということになっていたあの男の子も一緒に連れていってしまったようなんだ。その子にとっても祖母にあたる人のことだからね。彼女としても思い余った末の行動だったに違いない」
「でも、そんなことしたら……」
「そうだ、ミラノ」バティスタ氏は私に向き直った。
「当然、妻のリザは不審に思うだろうね。いや、むしろ疑念が確信へと変わったと言うべきか」
 結局、鞠子とその子供は、郷里の実家まで目と鼻の先という地点で、折からの豪雨による土砂崩れに巻き込まれて死んだ。詳しいことはわからないが、日記の文面からそう読めるのだと、彼は実際にその箇所を私に指し示しながら教えてくれた。
「そしてこれは私の推測なのだが――」
 彼は話のしめくくりにこう付け加えた。
「鞠子の実家というのは、このあたりの村――そう、もともとこの洋館が建っていた蛇滝村にあったのではないか――私にはそう思えるんだ」
「蛇滝村……」私もつられて呟いた。
 なるほど、それはありえるかも知れない。
 ワートハイマー氏が保養のたびに訪れたという蛇滝村の洋館、つまりこの建物――鞠子はそこでワートハイマー氏に使用人として仕えていたのだから。やがて二人は結ばれ、愛し合い、そして……
 それにしても――私は思う。
 いくら好きだからって、東京の本宅にまで愛人を呼び寄せてしまうなんて、それは少しやりすぎではないだろうか。
 鞠子さんにしても、ただの家政婦さんのまま通せるものなのだろうか?
 私なら無理だ。こうやって好きな人に甘え、おねだりをし、欲望のおもむくままに暮らす……
 一度欲望に目覚めてしまったら、もう後には引き返せない。
 でもたぶん――鞠子さんは、自分を抑えることができたのだろう。
 控え目で慎ましやかな百年前の大和撫子やまとなでしこ――
 きっと耐えながら、息子の成長を見守っていたのだろう。
 だが、その反動もまた大きかったのだ。
 母親の危篤を聞き、ついには息子を連れて東京のワートハイマー邸を飛び出してしまった鞠子……
 そしてあの悲劇――
 
 パタン
 
 彼はワートハイマー氏の日記を閉じた。
 ハッと我に帰る私。
「さて、申しわけないがミラノ」バティスタ氏は立ち上がった。
「これからちょっと所用があるんだ。悪いが続きはまた後にしよう」
 彼の言葉を受け、私は素直に頷いた。彼は続けて言った。
「今夜――いいね、ミラノ?」
 甘く囁くような彼の言葉――私の心はゾクッと粟立った。
 今夜――その言葉の意味がわからないほど、私は子供じゃない。
 高ぶる胸の鼓動を悟られまいとして、私はつとめて平静を装いながら彼の部屋を後にした。
 
 バクン、バクン、バクン……
 
 早鐘はやがねを打つような私の心臓――胸の鼓動は高鳴ったままだった。

                                 第19話 終
ワートハイマー家の愛人関係、そしてバルディ家に残された奇妙なヌード――
少し淫靡な匂いが漂い始めた山中の洋館。
そして今夜、ついにみらの先生、ベッドイン!?
りさこの公式ブログです☆ 気になるお話、いっぱいです♪
りさこのギャラリー☆画像がいっぱい  小説の原作漫画やCGなど、いっぱいです♪
クリヤマアイコさん ある意味、一部JCの間で囁かれた都市伝説です……
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