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バルディ邸の秘密を物語る奇妙な絵の数々……。
「切り裂かれた聖母」の意味するものとは?
第16話 切り裂かれた聖母
次の部屋――問題の絵があるというその部屋に私たちは足を踏み入れた。
「どうぞ、ご覧ください。これが問題の絵、Pieroピエロ diディ Cosimoコジモの――」
「The Visitation and Two Saints――『聖母マリアのエリザベス訪問と二人の聖人、聖ニコラウスと隠修士アントニウス』……ワシントンのNationalナショナル Galleryギャラリーで見たことがあるわ。そういえば、ダ・ヴィンチの『ジネヴラ・デ・ベンチの肖像』もあそこだったかしら」
 エステルは、バティスタ氏に代わって作品の履歴をそらんじてみせた。
 バティスタ氏も、感心したように頷いた。
 聖母マリアが、親戚のエリザベスを訪問するシーンを描いた、この絵。
 二人とも妊娠中だとかで、それもお腹の子は、なんと、聖霊が宿ってしまったもの。
 マリアの子がイエスで、エリザベスの子が洗礼者ヨハネなんだそうだ。
 前者はともかく、後者のヨハネって誰?
 なんでもイエス・キリストの先駆的存在で、イエスに洗礼を施した偉い人――らしい。

 ところで、この絵のいったい何が問題なのか?
 それは、傷――それも、ただの傷ではない。
 傷は、聖母マリアの顔と身体とに集中していた。
 他は全くの無傷……
 これはいったい何を意味するのだろう?
「ねえ、ミラノ」エステルが私の袖を引っ張った。
「私、ここに泊まりたい」
「もちろん。あなたのお好きなように、ミス・アシュケナージ」
 バティスタ氏は、快く承諾してくれた。私はエステルに代わってお礼を言った。
「さあ、それでは食堂のほうで腹ごしらえなどいたしましょう。昨晩はとんだことでご迷惑をおかけいたしました。熱いカプチーノが入っています。コーヒータイムにしましょう」
 バティスタ氏は、私をエスコートして食堂へといざなった。
 私は、夢の世界をさまよっていた。まるでお姫様気分……
 そして、そこでご馳走になったカプチーノのおいしいことといったら……。
 イタリアでは、カプチーノは朝の飲み物と決まっている。
 それも、とびきり甘い砂糖たっぷりの……。
 そう、イタリア人は甘いものが大好き。
 でも、私だって負けてはいない。
 食後に運ばれてくるdolceドルチェ――イタリアの甘いデザートは、どれも私の大好物ばかり。
 ああ、なんておいしいのかしら……。
「長旅でお疲れでしょう。夕食の時間までゆっくりとお休みください。三時のティータイムには、改めてお部屋のほうにお電話を差し上げますので」
 バティスタ氏は、私たちを気遣うように言った。
「ありがとうございます。こちらこそお世話になります」
 一同を代表して、私が礼を述べた。
 まるでホテルのようなサービス。
 私は、心からゴージャスな気分にひたっていた。
 それを確認したバティスタ氏も満足そうに頷いていた。
 こうして私たちは、朝昼兼用の食事を終え、それぞれの個室へと引き返した。

 部屋に戻った私は、さっそくゴロンとベッドに寝転がってみた。
 ふわふわで気持ちのよいお布団の上で、私は改めて名画モナリザを仰向けに眺めた。
 モナリザ……実をいうと私、この絵の良さなんてちっともわからない。
 微妙にフケたおばさんが、不気味な微笑を浮かべている微妙な絵……
 どこかで聞いた《学校の怪談》に出てくる怪画そのもの。
 結局、美術的にどうこうというよりも、天才ダ・ヴィンチが残した謎の名画というブランドがものをいうのだろう。
 いや、モナリザだけじゃない。絵画の値段なんてみなそんなもの。
 作家の名前とサイズ、それに技法と支持体の材質――あとはぜんぶ門前払い。

 そんなことを考えながらも、私の目はついつい書斎机の上に備えつけられた電話のほうへ……
 早くも三時のおやつが気になりだしている私。
 いけない、ヨダレが出るわね。
 ああ、このままじゃブクブクになってしまうかも。
 それはそうとして――電話といえば、あれだ。
 つながらない電話と、混みあったラジオ――
 そう、例の言葉「ラジオ、混んだ」。
 そうだ――私は思った。
 無事にバルディ家に到着したことを、ヒッチハイクの娘さんにも知らせてあげよう。
 ずいぶんと私たちのことを心配してくれていたことだし……それが礼儀というものだろう。
 彼女の携帯番号は、あの時に聞いた。ちゃんとメモしてあるのだから。
 私は早速、自分の携帯から彼女のそれへと電話をかけてみた。
 幸い、私の電波はきちんと届くようだ。ガブリエッラのそれとは違って――

『ハイ、火屋野ほやのです』

 え? ホヤノ?
 私、どうして火屋野さんの電話に……?
 でも、この声は確かにあの時の娘さんの……
「あ、あの、私、昨日お世話になった神野かみのですけど……」
 とりあえず私は言ってみた。
『神野みらの先生? 本当に神野みらの先生なんですか!』
 弾むような彼女の声。
 よかった、あの子のようだ。
「おかげさまで無事、大峯村につきました。その節はホント、ご迷惑をおかけして……」
『そんなこといいんです、神野先生』
 彼女は本当に嬉しそうにそう言った。
 それはそれとして――彼女には、訊いてみたいことがあった。
「失礼だけどあなた……」私は意を決して訊いた。
「火屋野さん……っておっしゃるの?」
『ハイ、火屋野です』彼女は愛想よくそう答えた。
『このあたり、多いんです、火屋野って家。もう村中みんな火屋野で……田舎ですよね』
 そうか……このあたりではよくある名字なんだ、火屋野って。
『あの、先生。私、リサって言うんです。火屋野リサ。何か外人みたいな名前でしょう、リサって。神野先生の「ミラノ」みたいで』
「やだ、リサさん。私のはペンネームよ」
 私は思わず吹き出した(※本名はダサイから内緒)。
 リサ……確かに外人のような名前。
 綴りは「Lisa」……リザとも読むわね。
 でも考えてみれば、日本人だかの外国人だかわからない名前って意外に多いような気がする。
 ナオミ、ミカ、ジュン、ケン……名前だけじゃ何人か判断できない場合もあるわけだ。
(※でも、ナオミの正しい発音は「ネィオゥミ」、ミカは「マイカ」)
『そういえば先生、「しいなさん」と「誓子さん」のラジオの話、なんだか気にされてましたよね?』
 思いがけないリサの言葉。
 そう、私が彼女に訊きたかったのは、まさにそのことなのだ。
『私、あれからひいおばあちゃんに訊いてみたんです。「しいなさん」と「誓子さん」っていったい誰なの――って』
 そう、それだ。それが一番の問題だ。
『そしたら、ひいおばあちゃん、「しいなさん」は「誓子さん」の娘だって言うんです。ひいおばあちゃん、その「しいなさん」ととっても仲良しだったみたいで……たぶん「ラジオ、混んだ」っていうのは、友だち同士の合言葉みたいなものだと思うんです』
 なるほど、そういうことってあるかも知れない。
 子供ってわりにそういう言葉遊び、好きだから……。
『当時、「しいなさん」の家には、放送が始まったばかりのラジオがあったみたいなんです。そのことじゃないかしら』

 椎名しいなさん(※わかりにくいから、とりあえず当て字)は誓子さんの娘……
 そして、当時始まったばかりのラジオ放送……

 ラジオ放送が始まったのは大正時代。
 中学の教科書にそう書いてあったから間違いない。
 大正――
 そういえば、七地蔵に刻まれていた年号は「大正十四年」。
 時代的には重複する。
「あの、申し訳ないんだけどリサさん」
 私は、思わず彼女に頼み込んでいた。
「その話、もっと詳しく知りたいの。何かわかったらまた連絡をくれないかしら? なんだか図々しいお願いだとは思うんだけど……」
『全然かまわないですよ、神野先生』リサは快く承知してくりれた。
『ひいおばあちゃんの話、ぜひ作品に使ってあげてくださいね。私、楽しみにしてますから』
 それはちょっと確約はできないけど……
 ともあれ私は、お礼だけ言って電話を切った。
 椎名さんと誓子さん……そして火屋野リサ。
 そして大正時代のラジオ……
 ちょっと待って。

 リサ……リザ――
 リザといえば!

 私の目は自然と例の名画へと向けられた。
 モナリザ――この絵のモデルになった女性もまた『リザ』という名前だったではないか!
 モナリザ……直訳すればイタリア語で「私のリザ」。
 これはリザさんの肖像画なのだ。
 「火屋野リサ」と「モナリザ」……
 まさか何か関係があるとは思えないが、面白い符合だ。
 私は、じっと目を凝らして再度この絵を分析してみた。
 すると、画面右下に針で引っかいたような細い線――文字らしきものが目にとまった。
 ハッキリとはわからないが、多分これはこの絵を描いた人物のサイン。
 何と読むのだろう?
 この芸の細かさときたら、フランドルの画家ファン・アイクの『アルノルフィニ夫妻の肖像』のサインに近い……
 とりあえず私は、読めるところまでをメモに書きとめてみた。

 For My Lisa

 フォー・マイ・リザ――「私のリザへ」。
 まさか他の読み方は……ないわよね?
 解読の結果、これはサインではなく、メッセージだということがわかった。
 なるほど。だとすると、この絵はプレゼントか何かだったに違いない。
 例えば、夫から妻へのプレゼント。
 その妻の名前が『リザ』だったのだ。
 だとしたら『モナリザ』は彼女にとって最高のプレゼント――私ならそう思う。
 この絵は恐らく、この洋館を建てたアメリカ人貿易商が残していったもの。
 だとすると、『リザ』というのは、その人の奥さんの名前だろうか?
 そう考えてみるとロマンチックな話。
 でも、リザさんはこの絵を残したまま、アメリカに帰ってしまった。
 たぶん、昭和の戦争が原因で。

 私は、リザの生涯に思いをはせていた。
 一体どんな人だったのだろう?
 そして彼女は、後にどんな運命を辿ったのだろうか――

 そんな空想にひたりながら、私はいつまでもモナリザを見つめていた。

                                  第16話 終
私の友人も画家をしています。貧乏時代、お金がなくて国民年金保険料を支払うのがきつくなった私は、その友人が段ボールに描いた油彩画と版画を売り払って、社会保険費に当てていました(;_:)
今ではネットで売った絵の収益を恵まれない子どもさんたちに寄付するようにしてるの。大した額じゃないのだけれど……。
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