列車は静かに滑り込んできた。
ぽつんと明かりがひとつ灯っているだけで、何もない無人の駅。
女が一人、乗り込む。
彼女が乗り込むとすぐに、列車はしんしんと粉雪が降るホームを後にした。
深紅の上質のカシミアのストールを頭からすっぽりと巻き、その隙間からブロンドの髪が覗いている。
背はすらりと高く、優雅な立ち居振る舞いはどこぞの高貴な生い立ちであろうかと思わせる程だ。
窓際の席に腰掛け、優雅に組まれた足元はこれまた上質の、何度も職人がなめしたであろう皮の編み上げブーツに覆われている。
女は窓の外を見つめる。外気との差が激しいせいだろう、窓はほっくりと白く絵をつけた。
上半身を覆っていたストールを外して雪を払うと膝かけにし、ガタンゴトンと少しクラシックな列車の揺れに身を任せていた。
列車は、今は見かけない木枠の窓や扉があり、壁には真鋳のフックが付いている。車内の灯りは、アールデコ調のくすんだ光を放つ柔らかで懐かしい雰囲気のしつらえだ。
古き良き時代を思わせる車内は、程よく温度も湿度も保たれており、なんともいえぬ心地よさと安堵をもたらす。大きな窓の下では、木枠にはめられた美しい小さなタイルが宝石のように輝いていた。
窓からは雪の灯りと、細やかな星の光が揺らめいている。
やがて列車は次の駅に停車する。駅といっても名前も駅らしい建物もなく、ただそこにぼんやりと浮かびあがるホームに列車が吸い寄せられて行くだけ。
入り口も出口もなく、列車が離れるとすうっと闇にのまれ、ただ透明な空間が広がって行くだけだ。
「ここ、よろしいですか?」
今の駅で乗り込んできた一人の女が先に座っていたブロンドの女に声をかける。
「座席はほかにも空いてますけど、せっかくなら誰かと話をしたくて」
ブロンドの女はどうぞというように、にっこりと微笑み、手を前の座席に差し伸べた。
雪を払い、頭を下げて腰掛けた女性は、三十代くらいであろう、黒髪に優しい表情を浮かべた日本人だ。
「どちらまで?」
日本人女性に話しかける。
「私は、東京まで。一人残した長男が気がかりなんです」
「あら、私にも息子がいるんですよ」
二人は年齢も近いようで、息子の話や、お互いの故郷の話に花を咲かせていた。
しばらくすると斜め前の座席で、男二人が口論をはじめた。
女達はフイっと顔をあげ、男達の様子を伺う。いつのまに乗り込んできた人達だろうか、よほど話に夢中になり、気づかなかったのだろうかとブロンドの女は小さく驚きながら、男達の会話に耳を傾ける。
「だから、俺の家族はお前の国のせいで、あんな事件に巻き込まれたんだ! 無差別な殺人を意味もなく続ける。まったく忌々しい。ビルのど真ん中に飛行機が突っ込んできて、俺は自分の会社も何もかもあの時に失ったんだぞ」
顔を紅潮させ、喋りまくっている男はアメリカ人のようだ。立派なスーツの襟元に星条旗をあしらった会社のマークであろう、ピンバッジが光っている。
随分と恰幅のよい初老の男は、白髪の混じった頭をきちんとなでつけ、高級なシルクのイタリア製のタイを締めている。眼鏡の奥で緑色の瞳は厳しく相手を睨み付け、イラつく眼光を放っていた。
「何を言うんだ! 貴方の国の驕りでたくさんの国が貧困にさらされているんだ。他の国は貴方の国の奴隷ではない。私の仲間もたくさん命を奪われた。私は使命だと思っていた。神の教えのままに、家族を守るためにも」
褐色の肌に怒りをあらわにしている男は、顎に見事な髭を蓄え、頭には白いターバンを巻き、丈の長い大きな上着とたっぷりとした布使いのズボンを履いていた。
男二人は睨み合い、今にも掴みかかろうとしている。女達が固唾を呑み、思わず立ち上がりかけたその時、
「まあまあ、お二人とも、落ち着いてください」
小柄な男が素っ頓狂な声をあげた。口論中の男達はなんだといわんばかりに声の主を睨み付ける。
かなり小柄な男は丸い顔に小さな黒い目、大きくて丸い鼻を持ち、非常に個性的な顔立ちだが、引き締まった口元には知性が漲っている。
きちんと帽子を被り、ややブカブカの濃紺の上着の金ボタンをきっちりとはめ、車掌の印である三ツ星の腕章をつけていた。胸のネームプレートには「サイトウ」と彫られている。
白い手袋にはティーカップが握られていた。
「紅茶です。どうぞ」
二人の男に手渡した。男達二人はぶつぶついいながらも受け取り、カップに口をつける。
「さあ、ご婦人方も」
二人の女は、微笑みながらカップを受け取り、一口飲んだ。
「ああ、おいしい。とても温まる、不思議な紅茶ですねえ」
日本人の女が心からホッとした声で呟いた。
「本当に。とても懐かしい、甘い味がするわ」
ブロンドの女は香を楽しみながら、向かいの席の男達を見る。
すると、男二人はすやすやと眠っている。
「これは、なんというお茶ですの?」
男達のあまりに安らかな寝顔に驚いて、ブロンドの女は車掌に尋ねる。
「"安息"です」
車掌と女二人は思わず笑い声をあげた。
「サイトウさんとおっしゃるのですね、私は……」
ブロンドの女は名前を告げようとして戸惑った。自分の名前が思い出せない。
「ああ、いいんですよ。皆さんには名前はないのです。他の方の名前は口に出せますが、自身のお名前は思い出せないのがここでは正解なのです」
日本人の女は知っているようだった。大きく頷いている。
車掌は一礼して席を離れた。
「さあ、あなたも紅茶をお飲みなさい」
一番後ろの席で車掌の声がするが乗客の姿は見えない。
女二人は顔を見合わせ、立ち上がって覗き込む。
座席に突っ伏し、ガタガタと震えている老いた女が見える。全く顔を上げようともせず、ただただ体を縮めて震えていた。
いつからそこにいたのか、気配すら感じさせなかった。
ガチャーン!
老婆は車掌の差し出したカップを払いのけ、悲鳴をあげながら白磁のカップは散り散りに砕けた。
車掌は何も言わず破片を拾い集め、一旦ドアから出ると、モップを持って床を拭き始めた。掃除が終わると車掌は何事もなかったかのようにモップを片付け、老婆の背中をさすりながら話しかける。
「あなたも選ばれてここに来たのですから。大丈夫です」
そう告げると、一礼し、車両を出て行った。
列車はカタン、カタンと車輪を鳴らしながら、ゆっくりとカーブを描いて走る。
「大丈夫かしら」
日本人の女が心配そうに呟きながら腰掛ける。ブロンドの女が辺りを見回すと座席は乗客で埋まっていた。
いつの間に乗り込んでいたのだろう。みな思い思いに本を読んだり、談笑したり、居眠りをしている。
肌の白いのも黒いのも、髪の毛の赤いのも黄色いのもいた。
車掌が忙しそうに紅茶を配ったり、降りる先を確かめたりしている。
「私、今日この列車に乗れるとは思ってなかったから……、嬉しくて」
日本人の女が話し始める。
「この列車のチケットに当選するのをもう何年も待っていたから」
嬉しそうに窓の外を眺めながら黒髪の女は続ける。
「この列車は願いを叶える列車だって聞いていたんです。クリスマスの一日だけ、行きたいところへ連れて行ってくれる列車だって」
「あなたは何処へ行きたいの?」
「私は、息子の様子を見に。たった一人だけ残して来てしまったんです」
黒髪の女は俯いて、少し哀しげに笑った。
「私は日本の神戸という街で、大きな地震に遭いました。夫と二人の息子と暮らしていた家も潰れて、跡形もなくなって……。夫と次男は即死でした。私は入院していて、生きようと必死でしたが帰ってくることはできなくて……」
「それは、お気の毒ですわね。知っていますわ、たくさんの人が亡くなられましたもの」
「長男だけを残して来てしまったんです。たった一人で。あの時はまだ中学生でしたけど、今はもう成人しています。あの子の様子が気になって仕方がなくて。私はすべてを受け止める事ができましたけど、きっとあの子は心を閉ざしてしまっている……。私は自分が許せないのです」
「なぜ? それは仕方のないことでしょう?」
「いいえ、私は入院中、あまりの苦しみにもういっそ楽になりたいと何度も願いました。あまりの肉体の痛みに耐えることが辛かったのです。あの子のためにもっと必死で、頑張ればよかった……」
黒髪の女はそう言いながらハンカチで目頭を拭った。
「大丈夫。息子さんはわかってくれるはずです。息子さんのお名前は?」
ブロンドの女は黒髪の女の肩を優しくさすりながら声をかけた。
「龍……、龍次郎です。貴方のお国の言葉なら、ドラゴンかしら」
黒髪の女は涙を拭き、笑いながら顔をあげた。
「ドラゴンなら、きっと強い男になるわ。貴方がそう願っているのだもの」
二人の女は顔を見合わせて頷いた。列車は優しく音を立てる。
カタタン、コトトン、カタタン、コトトン。
車掌が再び席にやって来た。黒髪の女に話しかける。
「さあ、貴方は次に降りますよ。貴方のほかにも数名降りますが、必ず一人一人に先導の天使がつきますからご安心を。青井百合子さん、それが貴方のこの世でのお名前です」
黒髪の女はハイと返事をし、降りる支度を始めた。
やがて列車は静かに停車する。シューッっとブレーキの音がしたかと思うと、窓がさあっと明るくなった。
「それでは、お先しますね」
ブロンドの女に微笑みながら会釈をし、青井百合子は降りていった。女は百合子のことを窓からじいっと見つめている。
百合子の前に長いたっぷりとした金髪を揺らし、青い目をした美しい天使が立っていた。
「私は、貴方の先導、ガブリエルと申します」
あまりのまばゆさに百合子は戸惑っていたが恐る恐る近づいた。すると、背中から大きな白い羽が現れ、百合子を驚かせた。
「さあ、参りましょう」
百合子とガブリエルは小さな光の玉となって静かな星空に吸い込まれていった。
ブロンドの女は小さく手を組み、行ってらっしゃいと百合子のために祈った。
しばらくすると先ほどの男達が目を覚まし、再び口論をはじめていた。小走りに車掌が二人に近づく。
「さあさあ、お二人は次の駅で降りるんですよ。二人一緒です。先導も二人に一人付きますからね。これは特別ですよ」
車掌が予定表とにらめっこしながら淡々と告げると、男二人はなんだって? と同時に声を荒げた。
「なんで、こんな薄汚い奴と一緒なんだ。おかしいじゃないか!」
「こっちこそご免だ。こんな高慢なホワイトカラーと一緒になんていたくもない」
車掌は全く動じることもなく言葉を遮る。
「ですが、そのように書かれておりますので。嫌でしたらこのまま戻ってもよろしいですよ」
二人の男は、車掌の凛とした口調に黙り込み、お互い目も合わせずに降りる支度を始めた。
降り口でまたもや肩が触れただのなんだのと口論になった。
「お静かに!」
ぴしゃりとした声のほうを見ると、真黒な髪と黒いつややかな羽を持った美しい天使が立っていて、二人を眼光鋭くブルーグレーの瞳で見据えている。
男二人はお互いの襟首を掴んだまま、呆気にとられたように見つめていた。
「私がお二人の先導、サミュエルと申します。さ、時間がありませんよ、参りましょう」
サミュエルと名乗った天使は車掌と顔を見合わせ、ニヤっと笑ったかと思うと小さな二つの光の玉とともに飛び去っていった。
次々と停車しては乗客が降りて行き、気がつくと車内にはブロンドの女と座席に突っ伏したままの老人だけになっている。
女はほうっとため息をつき、窓の外を眺めた。流星が、楽譜上で踊る音符のように光を残しながら駆けてゆき、サラサラと光の粉が舞い降りる。雪は相変わらず降っていて、シャンシャンという鈴の音とともに、トナカイに引かれた大きな大きなそりが、ゆっくりと横切っていくのが見えた。
子供達の歌声が澄み渡った星空に響いている。うっとりとその光景に見とれていた。
「お待たせしました。次の駅で降りて頂きます」
女ははっとして目を開けた。どうやら眠っていたらしい。一体どこからが夢だったのだろう。
「私、一人? あの方はどうなさるの?」
女はうずくまっている老人を見やる。
「ああ、あの方は最終の駅で、私と降りることになっています」
「そう……」
老人の様子が気がかりで仕方ないが、女は降りる支度を始める。
赤いストールを頭からすっぽりとかぶった。
やがて列車は静かに息を吐き、停車した。女は何度も老人のほうを振り返る。
「あの方の苦しみを察していらっしゃるのですね」
車掌が女に言った。
「あなたはお優しいですから。さあ、行ってらっしゃいませ」
女は意を決して降り立った。栗色の巻き毛を輝かせた小さな男の子が立っていた。
「貴方の先導、ミカエルです」
「そう、ミカエル、よろしくね」
「こう見えても、私はかなりの年寄りですからご安心を」
女の小さな不安を察したかのようにミカエルはおどけて言った。
「それなら頼もしいわ。連れて行ってくださる?」
ミカエルは頷くと翼を広げた。
ザザザアアアアア──ッ!
それは体の何倍も大きく、威厳のある形をしていて、女を驚かせた。
「では参りましょう、プリンセス=ダイアナ。それがあなたの名前です」
二人は輝く玉となり、透き通った闇に溶け込んでいった。
カタタン、コトトン、列車は揺れる。
カタタン、コトトン、懐かしい響きを奏でながら。
「そろそろ終点ですよ。支度はよろしいですか?」
車掌は老婆に声をかけた。老婆は突っ伏したままじっとしている。
「さあ、行きましょう。私と一緒に」
老婆を抱きかかえるようにして列車の外に降り立たせる。老婆は車掌にしがみついたまま震えていた。
「大丈夫です。自分を信じて……、しっかりつかまってくださいね」
車掌の背中からは羽は現れなかったが、自在に体が宙に浮く。空中でくるりと一回転してみると、老婆をつかまらせ、空を泳ぐように掻き分けた。
車掌と老婆もまた小さな光の玉となり、漆黒の海へと進んで行き、やがてパチンと弾けて見えなくなった。
***
百合子はガブリエルと一緒に東京の上空にいた。
華やかなイルミネーションが足元に広がっている。こんな角度でクリスマス一色の街を見たのはもちろん初めてだった。
行きかう人々は二人の姿には気づかない。
「ガブリエルさん、ありがとう。ここまで連れてきてくれて」
百合子の顔は清々しさに満ちていた。
「息子さんに会えてよかったですね」
ガブリエルの金髪はイルミネーションの光でさらに輝きを増している。街にはオーナメントやレプリカの天使が溢れかえっているのに本物は見えないのだと百合子は不思議な感覚を覚えた。
「はい、会えてよかったです。あの子、とても大切な人に出逢えたみたいで……本当によかった」
百合子はアパートの一室を訪ねた。狭い部屋だったが息子の龍次郎は小さな彼女と二人でクリスマスを過ごしていた。生前に家族四人で写した写真が飾られていて、息子は穏やかに笑い、幸せそうだった。彼女に小さな指輪をプレゼントし、指にはめてやると小さな彼女は泣き出した。
「心を閉ざしてしまって人を寄せ付けなかったあの子が、家族を持とうとしていました。息子はノッポなんですけどね、お相手はとても小さくてかわいらしい人だった」
百合子は目を細めて嬉しそうに話し続けた。ガブリエルは頷きながら百合子を見守る。
「私、思い残すことはもうありません。息子は自分の人生をしっかりと歩き始めましたから」
百合子の目に涙が光る。
「そろそろ時間です」
ガブリエルの言葉に百合子はハイと返事をし、二人は光の玉となりイルミネーションの輝きに紛れて消えた。
***
「どうしましたか、お二人とも。ぼんやりなさって」
漆黒の翼を羽ばたかせながらサミュエルが尋ねる。三人は暗い海の上空に浮かんでいた。
「いや、その……」
アメリカ人の男が深いため息をついた。
「会社の様子を見てきたんだよ。復興したが、役員の汚職で倒産寸前さ」
アメリカ人の男は何事かを考えながらまたため息をついた。
「創始者の俺の面影なんて形だけのものだった。9月11日に飛行機が突っ込んできたあの事件が無くても、俺の会社は駄目だったんだな」
「私の国も、神の名のもとに虐殺や略奪が横行していました。神はそんなことを望むわけがない。私の信じていたものは一体なんだったのでしょう」
褐色の肌のターバン男が嘆いた。
「私の心が拠り所とするものはなんだったのだろう」
「神は拠り所などではありませんよ? 神の教えは厳しくそして大きな愛なのです。拠り所やすがりつくものではないのです。そして正義もまた人間のエゴなのですよ」
サミュエルは静かに言った。
「そしてこの世はどれも、ひとつもあなた方が所有しているものなどない。みな神様からお借りしているもの。あなたの会社も、すべてあなただけのものではないのです」
二人の男は顔を見合わせた。
「どうです、まだ時間はあります。お互いの国を見に行ってはいかがですか?」
サミュエルの提案に二人の男は考え込んでいたが、やがて承知した。
二人はお互いの国を隅々まで見ることが出来た。隅々まで見ていくと、苦しみも悲しみもどこの国にも同じようにあるのが身に沁みてくる。
「アメリカは病んでいる。見せかけの豊かさの裏側に、暗くて深い闇が潜んでいる」
心を痛めながら褐色の男が呟いた。
「この国は貧しい。神の名を政治に使い、人々を扇動している。貧困と病気の蔓延している国……、こんな小さな国を強大な軍力を使ってどうしようというのか」
アメリカ男も今、初めて自分の命を奪った国に対して心を痛めたのである。
「こんなところで言い争っている場合ではない。世界はみなそれぞれ病んでいるのだ」
二人の男は口を揃えて言った。
「戦争など、してはならぬ。命は人の手によって奪ってはならない」
二人の男はいつのまにか声を上げて泣いていた。
「あなたがたは今、お互いを知ることが出来たのです。だから世界を知ることができた。この世に残した思いよりも、もっと遥かな高みへの足がかりを見つけたのです」
サミュエルは二人の男を諭した。二人の男の顔からはそれまでの険しさは消え、意志を持った強さと落ち着きが表れた。
「さあ、時間ですよ。戻りましょう」
三人は小さな光の玉となり、消えていった。
***
プリンセス=ダイアナはかつて自分が住んでいた城の上空に佇んでいた。
「ねえ、ミカエル」
ダイアナは小さな先導に話しかける。
「私はもっと心がざわめくと思っていたのよ? ここに来たらきっと居てもたってもいられないような気持ちになるってそう思ってた」
「では、どんなお気持ちなんです?」
ミカエルは愛らしい巻き毛を揺らしながら尋ねる。
「夫と新しい妻が一緒のところを見ても、なんともなかったの。子供達もそうよ。なぜかしらね、心はとても穏やかだったの」
ダイアナは俯き、まるでそれが少し寂しいとでも言うように小さく笑った。
「あなたの国を見ましょうか、一緒に来てください」
ミカエルの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ダイアナの体はすうっと流れるような光に包まれていた。
懐かしい風景が眼下に広がる。街はクリスマスの装いに溢れ、カーナビーツストリートはまた一段と美しかった。
懐かしい生まれ故郷、ノーフォークの風景……、そして相変わらず雄大な姿のビック・ベン。
ため息がでるほど美しいバッキンガム宮殿は夫となる人と初めて出逢った場所。そして永遠の愛を誓ったセント・ポール大聖堂……。
クリスマスの英国は本当に美しいとダイアナは思う。
輝かせていた瞳をダイアナはふと曇らせた。
「ミカエル……、あそこに寒さで震え上がっているホームレスの子供がいるわ。私、パンをあげたいの」
「それは、できません。規則ですから」
ミカエルが答える。
「今日はクリスマス・イヴなのに……、パンも買えない子供達も、病気で戦っている子供達もたくさんいるのね。そんなことはわかっているのに……、ただの感傷なのかしら。ミカエル、どうしたらいいのかしら。それもまた運命と淡々と受け止めるのが神の御意志なのかしら……」
「奇跡は神が起こすものではないのですよ」
ミカエルの答えにダイアナが首をかしげていると、街中の大きなTVスクリーンに人々が集まっているのが見えた。
大きなスクリーンに生前のダイアナが映しだされている。思わず自分の姿に見入った。
画面は変わって二人の息子が映し出された。
「母は僕達の前ではいつも明るかった。悲しみは僕達の前では見せなかった。母を奔放だという人もいるけれど、自由で明るい母が僕達は大好きだった。僕達は母の息子であることを誇りに思う」
インタビューに答える二人の息子。ダイアナの瞳にみるみる涙が溢れていく。
そしてそのあと、生前に出逢ったたくさんの人々、エイズ患者や難病に苦しむ人々が、ダイアナにそれぞれの言葉を贈っている。
「ありがとう、あなたは私達の心の光です、ハッピーメリークリスマス!」
テロップにはそう流れている。人々の笑顔が大きく映し出されていた。
「ダイアナ、貴方はとっくに全てを許していたのですよ。貴方がそれを気がつかなかっただけです。あなたの心の悔いはもっと別の所にあるのです。今は、もうお分かりでしょう? 貴方はご自分が思っている以上に、プリンセスとしての仕事を全うされていたのですよ」
ダイアナはミカエルの言葉にむせび泣く。
「私はまた再び生まれ変わってこの世に来たい。たくさんの人々の力になれるように」
ミカエルはダイアナの手を取り、言った。
「奇跡は心が……、魂が起こすものなのです」
ダイアナはにっこりと微笑んだ。涙を拭い、はっきりとした口調で言った。
「私はこの世界を愛しています」
ミカエルは頷き、二人は光の玉に包まれながらゆらゆらと消えていった。
***
車掌と老婆は真っ暗な暗闇の中にいた。
老婆は相変わらずブルブルと震えている。真っ暗な闇の中……、そこは老婆の心の中である。
車掌は老婆に話しかける。
「さあ、もう顔をあげてください、エノラ。エノラ・ゲイ・ティベッツ。それがあなたの名前です」
老婆は自分の名前を聞くとひいいっと叫び、突っ伏した。
「ああ、許してください、許してください」
ガチガチと鳴る歯の間から漏れるのは許しを請う言葉ばかり。
「ああ、私の息子、息子を許してください、許してください」
老婆の息子は第二次世界大戦時、アメリカ軍のB-29の機長だった。
広島で「リトル・ボーイ」と呼ばれる爆弾の投下スイッチを押したのが彼である。
その爆弾こそが世界初の原子力爆弾であった。
「エノラ・ゲイ」は「リトル・ボーイ」を積んだ戦闘機の名前、つまり機長は自分の母親の名前を機体につけたのである。
老婆は慟哭した。
「息子は、息子は終戦後、広島の地に行かなかったのではないのです。行けなかったのです。息子の精神力は限界でした。限界だったのです。私にとっては機長ではなく、ただの息子なのです。どうか、どうか息子を許してください」
車掌はエノラにこう言った。
「では、まず貴方が息子を許し、自分を許すことです」
エノラは涙で汚れた顔で車掌を見つめた。
「貴方の罪が全く許されてないのであれば、あの列車に乗ることも出来なかったのですよ。さあ、私と一緒に、日本を見に行きましょう。広島を見に行きましょう。その現実をしっかりと受け止め、あなたは自分と息子を許すのです」
車掌の強い口調に、エノラははっとなった。まるで正気に戻ったかのように。
「悲しみにくれていても、恐れていても、何も解決はしないのです」
エノラの顔に少しづつ赤味が差してくる。
「わたしは」
エノラは体を震わせ、歯を食いしばりながら言葉を吐き出した。
「どんな息子でも、彼を愛しています。たとえそれが許されなくても」
車掌が静かに頷くと、小さな光が暗闇の中に浮かび上がった。 車掌は老婆の手を取り、その小さな光のほうへと歩き始めた。
***
カタタン、コトトン、カタタン、コトトン。
列車は静かに動き出した。
車掌は一人一人が戻っているか、確かめながら声をかける。
「皆さんお揃いですね」
車内は賑やかではあるが、行きとは流れている空気が違った。
見えない透明な光に包み込まれているかのような清々しさが漂う。
車掌は一礼してドアの向こうへ消えた。
百合子はダイアナの向かいに腰を下ろした。二人はにこやかに言葉を交わしている。
斜め向かいにはアメリカ男と褐色肌のターバンの男が何やら真剣に語り合っていた。
「ここ、よろしいかしら?」
一人の老婆が上品な笑顔を向けて言った。
二人の女はどうぞと席を促す。老婆はダイアナの横に腰掛けた。
「この列車はね、行きたい所へいける列車じゃないのよ」
老婆が二人に話しかける。
「この列車はねえ、行きたいところを知るために乗るの。本当に行くべき所をね」
二人の女は老婆の話にじっと耳を傾けていた。
「自分を許さないとそこには行けないのよ。だからこの列車に乗る人は限られているのね。一年に一度、聖夜にだけ走るの。キリスト様の誕生日に私達も生まれ変わるの、一緒にね」
老婆は静かに目を閉じた。ダイアナは優しく老婆を抱きしめ、その頬にキスをする。
窓の外には光のシャワーのように流星が降っている。
どこからか静かな鐘の音がして、遠くから聞こえる賛美歌が流れ込み、車内を一杯にした。
カタタン、コトトン、カタタン、コトトン。
ガタンと音がして扉が開いた。車掌が一礼をして入ってくる。
ティーカップとポットを乗せたワゴンを押しながら歩いていた。
奥の座席から一人一人に、にこやかに話しかけながら紅茶を配っている。
「いかがでしたか、聖夜の旅は」
車掌は百合子にティーカップを渡しながら尋ねた。
「とても感謝しています、この旅に」
百合子はティーカップを両手で受け取る。
「この列車が贈り物をするんですよ、皆さんに」
車掌は笑いながらダイアナにカップを手渡す。
「ありがとう、車掌さん。帰りはみんな行き先が一緒なのね」
ダイアナも両手でカップを受け取りながら笑顔で答えた。
「さあ、あなたも、いかがです?」
車掌は老婆にカップを渡した。
彼女は紅茶を一口のみ、ほうっとため息をついた。
「とっても温まる、おいしいお茶ね」
老婆は車掌を見上げて尋ねた。
「これはなんていうお茶なの」
車掌は軽く頭を下げながら答える。
「“安息”です」
老婆は目を閉じてゆったりと微笑んだ。
「そう、やっと頂けたわ」
カタタン、コトトン、カタタン、コトトン。
列車は星空に向かってゆっくりと消えていった。
──クリスマスの夜のお話。
END
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