タロウくんと路地裏のネコ
午前三時。タロウくんが目を覚ますのは、いつもきっかりその時間でした。
ちょうどその時間に洗い終わるように設定してある洗濯物を物干しに干し、それが終わればお父さんとお母さんの朝食を作ります。同時進行で、あらかじめ冷凍保存しておいたおかずを二人のお弁当箱に詰めるのも忘れません。二人の外出準備は、もう夜のうちに済ませてあります。あとはコーヒーを淹れるだけ。
お父さんとお母さんがそれぞれ出かける頃になって、ようやく二人の子供のケンジくんが目を覚まします。ケンジくんは今年中学二年生になりました。
彼の朝食を用意していると「今日はいい、いらない」と、突然に作業の中止を伝えられることがあります。タロウくんは残念に思いながらも、作りかけの目玉焼きを廃棄しました。ケンジくんの外出準備も夜のうちに済んでいます。曜日ごとの時間割や行事予定までしっかりと頭の中に入っているのでした。
ゴミ出し。買い物。家中の掃除。炊事。洗濯。そういったものが、タロウくんの主な仕事でした。タロウくんはあらかじめ命令されている通りの仕事を毎日的確にこなしていきました。
そんなタロウくんの唯一の楽しみは、基本的には週に一、二回だけの買い物に出たときに、少しだけ、ほんの少しだけ寄り道をすることでした。本来通る必要のないルートをわざと設定して自分を騙すのです。絶対にしてはいけないことでしたが、それだけはどうしてか絶対にやめることが出来ませんでした。
ある日、買い物の帰りに、登録されているルート通りに路地裏へと入ると、小さな声がしました。
「なんだ。キラキラした箱が歩いてやがる」
ネコがいつもの路地裏でゴミ箱を漁っていたときでした。視界の端に、何かがキラキラと陽光を反射するのを感じ、思わずゴミ箱の陰に隠れました。
ネコはあのキラキラした感じが苦手でした。重い足音を立てながらゆっくりと近づいてくるものを、ネコはゴミ箱の陰からそっと観察しました。
四角い身体に楕円の頭。箱からは存外細い手足が伸びており、特に手指の造形は人間のものに似ています。まるで、鉄の箱から人間の頭と手足が生えているかのような異様なシルエットでした。左手にあたる部分で、買い物袋を三つ提げています。
「なんだ。キラキラした箱が歩いてやがる」
そう言って、ネコは四角いものの前に姿を現しました。ロボットが、人間はもちろん生命あるものに危害を加えられないことをネコは知っていました。
「ロボットがこんなところで何してやがる。こっちは行き止まりだってことぐらい知っているはずだろ」
「……いえ、そんなはずは」
楕円の下端を人差し指と親指とで挟むようにして、まるで人間が深く考え込むときのような仕種でしばらく静止した後、ロボットはロボットらしからぬ曖昧な返事を返しました。
「なんだ。変わったロボットだな。壊れてるのか」
「あなたはここで何をされているのですか」
ロボットが誰かに質問をするのを、ネコは初めて耳にしました。ましてや、自分のような猫に。
――やはり、壊れている。
そう思うと、目の前の鉄の箱がなんともかわいそうに思えてきました。
――仕方ない、話相手ぐらいにはなってやろう。
気がつくと、そんな気持ちになっていました。
「食い物を探しているのさ。ここは俺様のエサ場だからな」
「エサ場?」
ロボットは小首を傾げます。
「おうよ。人間の食べ残しやら、余りものやらが簡単に手に入るからな。他の猫には触らせねえ」
ロボットはさらに首を傾げます。
「どうしてですか。他の猫と分け合ってはいかがですか」
その言葉に、ネコは可笑しくなってお腹を抱えて笑いました。
「馬鹿か、お前は。ったく、こちとら生き残るために必死なんだよ。他の奴に譲ってやる余裕なんてありやしねえ。んなことしてみろ。すぐに野垂れ死にすることになっちまう」
「そう、なのですか」
「へっ。どこぞの金持ちの家の、しかも、ロボットじゃあ、百年経ってもわかんねえだろうがな」
「そう、ですか」
ロボットは少し俯き加減でそう言うと、くるりと踵を返しました。
「待て待て待て」
前足を上げて制止すると、ロボットは頭だけこちらに向き直りました。
「なんでしょう」
「いやなに、俺様も話相手が欲しかったところだ。来週、また同じ時間にここに来い」
自分でもなぜそんなことを言ったのか、ネコにはわかりませんでした。ただ、目の前のキラキラした鉄の箱を放ってはおけない、なぜだかそう思ったのでした。
鉄の箱はしばらく考えるように、動きを止めていましたが、ゆっくりと楕円を縦に振りました。
「タロウくん、一緒に遊ぼう」
小さな男の子が満面の笑みでこちらを見上げていました。右手を強く引かれて、タロウくんは男の子に危険がないように、歩幅を調節して歩きます。
「遊ぶ、とはなんですか」
「いいから、ついてきて」
振り向いたその顔もやはり笑顔でした。
映像はそこで途切れ、次に映し出されたのは真っ暗な部屋の中をろうそくの火だけが照らしている光景でした。ケーキの上のろうそくの数は六本。
”ケンジくん おたんじょうびおめでとう”
チョコのプレートにそれを書いたのは、タロウくんでした。
「ありがとう。タロウくん、大好きだよ」
タロウくんの手をとって、元気な声でそう言った男の子は、やはり笑顔でした。
――ん。
――ロウくん。
「タロウくん、コーヒー」
ケンジくんの声を認識して、我に返ったタロウくんは極力騒音を立てないように気をつけながら、キッチンへと向かいました。
時折、過去の映像が自動的に再生されてしまうことがあります。そういうとき、外部の映像は遮断され、仕事が手につきません。そもそも、頭部の二つのカメラで記録された映像は一時的に保存はされますが、特別に保護するよう指定されたもの以外は、古いものから順に削除されていくようになっていました。そして、先ほどの映像は保護対象として設定されているものではありません。
もしかしたら、私は――。
人間でいうところの考えごとをしながら、タロウくんはケンジくんの目の前にコーヒーを置きました。
「ちょっと、タロウくん。なんだよこれ」
振り向くと、まだ一口も飲んでいないコーヒーをこちらに差し出しているケンジくんがレンズに映りました。
「また、砂糖とミルク入れただろ。いらないって言ってるのに」
そう言って、眉を吊り上げます。
「申し訳ございません。すぐに淹れなおします」
受け取ったコーヒーをシンクに捨て、新たに淹れなおします。今度は砂糖もミルクも入れません。
「どうぞ」
再びケンジくんの目の前にコーヒーを置くと、その場で待機します。
本を読みながら、ケンジくんはコーヒーを一口啜ると、ぼそりと小さく呟きました。
「……苦い」
「申し訳ございません」
そう言って、タロウくんはコーヒーに砂糖とミルクを足しました。
ネコは路地裏を出て、大通りの隅の方を素早く移動しました。路地裏はネコのネグラでエサ場ですが、水を得る術だけはありませんでした。
――しばらく雨が降っていないからな。くそ、どぶ川の水でも飲むしかねえか――
水たまりなどがどうしても見つからないときだけ、ネコは仕方なく川の水を飲みました。この街の川はどこも汚く、それを飲んでもしおなかを壊せば、脱水症状で死んでしまうかもしれません。それでも、生きている以上、水を飲まないわけにはいかないのです。
どぶ川に鼻先を突っ込んだ後、吐き気に苛まれながらも今度はメス猫やその群れを探して街中をうろつきます。
水分を補給する以外は、そうやってメス猫を探すのが毎日の習慣でした。
――そういやあ、あの鉄の箱はどうしたろう――
ふと、一週間前に出会った奇妙なロボットのことを思い出しました。壊れたかわいそうなロボット。ネコはロボットともう一度会う約束をしていたことを、今の今まで忘れていました。
――たしか、今日の夕方だったか――
見上げると、先刻まで真上にあった太陽が少しずつ西へと傾いていました。今から戻ればなんとか間に合いそうでした。
ロボットが約束を守って、路地裏に来るとは限りません。しかし、気になりだすと、ネコはもう一歩も前に踏み出すことが出来ませんでした。
「仕方ない。戻るか」
自分を納得させるように、声に出して呟くと、ネコはくるりと踵を返しました。
――路地裏にはなにもいませんでした。
七日前のこの時間、一週間後の同じ時間にここに来るように言われたと、たしかに記録されていました。しかし、そこにあるのは、立ち並ぶゴミ箱とそこから溢れる生ゴミの山と、隅の方に隠れるようにして置かれている、くすんだ赤色の毛布だけでした。
やはり、自分はどこかおかしいのだろうか。そう思いながら、来た道を戻ろうとすると、茶と白の斑の生き物が行く手を阻みました。
「お前、本当に来やがったのか」
ネコは目を丸くしてこちらを見上げていました。登録されていた猫と特徴が一致していました。
「やくそく、ですから」
自分で発した言葉に、筐体の中の何かが揺らぎました。しかし、その正体は分からないまま、やがて小さな違和感は自分でもそうと気づかぬうちにどこかへと消え去りました。
「どうかしたか」
「質問の意味がわかりかねます」
ネコはしばらくキラキラと輝く箱を観察していましたが、それに飽きたのか、横を素通りして路地裏の奥へと、主人のような顔をして入っていきました。
「何してんだ。こっちに来いよ」
どすの利いた声の命令に従い、奥へと踏み込みます。タロウくんにとっては、たった数歩の距離でした。
「そういやあ、まだ名前も聞いていなかったな」
「私は”HOUSEKEEPER-SEG-012”です」
「長ぇよ! いや、そういうのじゃなくて、もっとこう、あるだろ。呼び名みたいな……」
楕円に手を添えて考える仕種をとります。
「ご家族の方々には、”タロウくん”と呼ばれています」
「おう、それだよ、それ。タロウ、だな」
しかし、ネコの発したそれは登録されているキーワードと合致しません。
「いえ、”タロウくん”です」
「いいんだよ。どっちでも」
訂正は聞き入れてもらえませんでした。
タロウくんとネコは一週間に一度、必ず路地裏で会うようになりました。いつも取り留めのない話をするだけでしたが、ネコはいつの間にか、そのことを楽しいと思うようになっていました。
ネコは色々なことをタロウくんに話しました。
めずらしく魚が一匹丸ごと捨てられていたときのこと。街でタロウくんと同じ機種で色違いのロボットを見かけたこと。この路地裏が母親から譲られたエサ場だったこと。冬の寒さに耐えられず、死んでいった兄弟姉妹のこと。
タロウくんもいつしか、自分のことを話すようになっていました。名前こそ出さないものの、そのほとんどが家の中でのことなので、お父さんやお母さん、ケンジくんのことも話題に上げました。それは守秘義務を違反するものでした。本来なら、決して犯すことのできないことを実行している自分を不思議に思いました。
タロウくんはネコのいう外の世界の話を聞くのが好きでした。実のところ、街の中だけの狭い世界のお話でしたが、家の中と買い物ルートしか知らないタロウくんにとっては、途方もなく遠い、広い世界の冒険譚だったのです。
いつしか、タロウくんは自由なネコの身の上を羨ましいと感じるようになっていました。
「お前も家を出ればいいじゃねぇか。こうやって、寄り道だってできるんだ。家出だってやろうと思えば出来るに違いねぇ」
しかし、それには頭を横に振ります。
「私はお父さんの所有物です。勝手にあのお家を離れることは出来ません。それに……」
「それに?」
めずらしく言い淀むタロウくんの頭部をネコは心配そうに見上げました。
「それに……なんでしょう。わかりません」
「なんだそりゃあ」
確かに箱の中で、何かが引っ掛かったような感じがしました。しかし、それはほんの一瞬、部品の間で弾けたかと思うと、次の瞬間にはもう何の違和感も残ってはいませんでした。
「わかりませんが、やはりあのお家を離れることはできません」
「タロウくん、一緒に遊ぼう」
小さな男の子がこちらを見上げていました。右手を引かれながら、タロウくんは男の子に危険がないように、歩幅を調節して歩きます。
「いいから、ついてきて」
男の子は振り向いて笑顔で言いました。
映像はそこで途切れ、次に映し出されるのは真っ暗な部屋の中。ろうそくの火だけが部屋の中のものに輪郭を与えています。
”ケンジくん おたんじょうびおめでとう”
チョコのプレートにはそう書かれていました。
「ありがとう。タロウくん、大好きだよ」
タロウくんの手をとって、元気な声でそう言った男の子は、やはり笑顔でした。
――なんでだよ。ずっと一緒だって言ったじゃないか――
「おい、タロウ!」
目の前にはなぜか小さな動物の後ろ脚が映っていました。どうやらネコが自分の頭部に飛び乗ったようだと、タロウくんは推測しました。なぜそのような状態になっているのかは、皆目見当もつきませんでしたが。
「まったく、何度声かけても反応がねぇから、ついに壊れたかと思ったじゃねぇか」
茶化すような口振りでしたが、表情や声音から心配してくれたことがわかりました。
家出の話が出てから数週間が過ぎていました。ネコは相変わらず自由に街の中を歩き回っているようでした。最近は人間の家に盗みに入ることもあるようで、その為か、人間の生活にも少しずつ興味が出て来たようでした。
「楽器っていうのか。屋根裏や軒下に隠れて何度か聴いたが、あれはいいな。特に、バイオリン。あれはいい。人間どもは嫌いだが、あれは別だ」
ネコは口癖のようにバイオリンの音を褒め称えました。
「お前はねえのか。人間と生活しているんだろ。何か気になるものとか。やってみたいこととか」
「私は……」
ケンジくんやお父さんたちの顔が浮かびました。
「私は、一度でいいのでコーヒーを飲んでみたいです」
ネコはいつにもまして目を丸くしました。そして、声を上げて笑いました。
「やめとけやめとけ。壊れるぞ」
――なんでだよ。
――なんでだよ。
――なんでだよ。
――なんでだよ。ずっと一緒だって言ったじゃないか――
リビングは真っ暗でした。どうやらまだ夜も明けておらず、いつもならばカーテンの向こうに感じる淡い光も、表の街灯の微弱な人工の光にすり替わっています。
ふと小さな音を認識して、タロウくんは首を傾げます。それは、お父さんとお母さんの声でした。
「やっぱり、もうダメなんじゃないかしら。近頃、変に動きが止まることも多いし。それに、買い物だって今までより一時間も二時間も時間が掛かっているのよ」
お父さんが考え込むように唸ったのが聞こえました。
「タロウくんも旧いし、前回もひどかったからな。修理にかかる費用を考えたら、新しいのに買い替えたほうがいいのかもな」
タロウくんは、再びゆっくりと目を閉じました。
私は……私は……私は……
「明日、お家を出て行こうと思います」
いつものように買い物袋を提げたロボットの口から信じられない言葉が飛び出しました。ネコは驚きましたが、同時に口元が綻ぶのを感じました。
「へっ。やっとその気になったか。そりゃあ、そのほうがいいぜ。命令されるだけの人生なんてつまらねえ。そうだろ」
ゴミ箱の上で踊りながら、ネコはタロウくんの決意のこもった二つのレンズを覗き込みました。ロボットかもしれない。壊れているだけかもしれない。それでも、こうやって自分で自分の生き方を選んだんだ。
「俺ぁ、お前のことを尊敬するよ」
「なぜです」
タロウくんは首を捻りました。ネコはその問いには答えず、ふんと鼻先で笑うだけでした。
――きっと、お前から見れば俺様は自由に見えるんだろうな。けれど、俺はこういう生き方を望んだわけでも、まして、自分で選び取ったわけでもない。こうやって生きることしか出来なかった。たったそれだけなんだ。何不自由ないどころか、病気になることも、死ぬことさえない。実は、お前のことがほんの少しだけ、羨ましかったんだよ。そんなお前が、わざわざこっち側を選んだ――
「たいした奴だぜ、お前は」
次の日の夜、タロウくんは真っ暗な部屋の中を玄関に向かって、移動していました。物音を立てないように、ケンジくんたちを起こさないように、慎重に。
誰にも気づかれないうちに出ていくつもりでした。
暗闇の中、人のそれと見分けがつかないその手をドアノブへと伸ばします。あと数センチで届く、その時、
「……どこ行くんだよ」
背後から誰かの声がしました。
「ケンジくん……」
振り返るまでもなく、その声の主はケンジくんでした。
「こんな時間に外出するように、なんて設定されていないはずだろ。なんで出てこうとしてるんだよ」
「………」
タロウくんは答えることができません。命令された通りしか行動できないはずのロボットには、こんな時、どう答えればいいのかわかりません。
「なんだよ。黙ってないでなんとか言えよ。また、やくそく、やぶんのかよ」
ケンジくんの声は感情の高ぶりとともに震えていました。
「ずっと……ずっと一緒だって言ったじゃないか」
――なんでだよ。ずっと一緒だって言ったじゃないか――
それはいつか聞いた言葉と同じものでした。小さい頃のケンジくんの顔が涙でぐしゃぐしゃになっていました。それなのに、タロウくんは手を伸ばすことも、声をかけることもできませんでした。
今も同じだとタロウくんは思いました。ケンジくんが泣いていても、手を伸ばすことも、声をかけることもできません。振り返ってここに残ったところで、深刻なバグが発生してしまった自分は、もう、そう長くはここにいられない。そのことはタロウくんが一番よくわかっていました。
後頭部に何かが当たったかと思うと、ケンジくんの足音は遠ざかっていきました。後には静寂のみが残されました。
暗闇の中、タロウくんは再びドアノブに手を伸ばします。タロウくんには、もうそれ以外道が残されていないように思われました。
――どんな状況でも、生き残るための努力はしなければならない――
タロウくんは、ネコの話を聞くうちに、強く、そう思うようになっていました。
タロウくんはいつもの路地裏に立っていました。まだ陽も昇らないうちの路地裏にいつもの暖かさはなく、夜の空気と冷たい闇だけがそこに溜まっていました。
そこにネコの姿はありませんでした。
何時間待ったでしょう。辺りが次第に明るくなっても、ネコが現れることはありませんでした。理由はわかりません。家を出る事も、ここで落ち合うことも、前日にネコに話していました。それなのになぜ。
ネコを待っている間、箱の中が妙にザワつくのを感じました。それは、ネコの安否がわからない為か、約束をやぶられた為か。
タロウくんはネコを探しにいくことにしました。ネコがよく立ち寄るところは、今までの話から推測できました。行ったことはありませんが、街の地図は頭の中に入っています。ネコが毎日のように歩いたであろう道を、タロウくんはなぞりました。
路地裏を出て、大通りの隅のほうを歩きます。早朝の大通りは、それでも人がまばらに歩いていました。雨が降らない日が続くと、この先のどぶ川で水を飲むのだとネコは言いました。ここしばらく雨は降っていない為、おそらくネコはどぶ川に向かったと思われました。
どぶ川へ行くには車道の向こう側へ渡る必要がありました。こんな時間でも時折、自動車が通りました。それらは、タロウくんから見て三本向こうの街灯の下に差し掛かると、まるで何かを避けるように車道の内側に膨らみました。
――血を流してぐったりとしたその姿は、まるで別の猫のようでしたが、特徴が登録されているデータに完全に一致していました。
タロウくんはとにかくネコを拾い上げ、自動車の通らないところへと移動させました。すぐ横を通りすぎたサラリーマンが不思議そうにタロウくんを見ました。その手に持ったものに目を向けると露骨に顔をしかめ、早足で去っていきました。
話しかけても、揺さぶっても、ネコはピクリとも反応しませんでした。自由の象徴のようだった茶と白の毛並みは、真っ赤な血に汚れて見る影もありません。ネコが壊れてしまったのだと、タロウくんが理解するまでにそう時間は掛かりませんでした。
タロウくんは、ネコの身体を路地裏に運ぶと、薄汚れた赤い毛布に包んでやりました。ネコの母親がどこかから咥えてきたのだという話を聞いたのはいつだったろうか。
――俺ぁ、お前のことを尊敬するよ――
ネコがいつかそう言ったのを思い出しました。
赤い毛布に包まれたネコの口元は満足そうに、笑っているように見えました。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。