世紀末の帝國(2/14)PDFで表示縦書き表示RDF


第1部 帝國の足跡では、この「世紀末の帝國」の世界がどのような歴史を辿ったかを述べております。
世紀末の帝國
作:独楽犬



第1部 帝國の足跡 その1


 全て1905年に遡る。日本はその国家の存亡を賭け、北の大国ロシアと激戦を繰り広げていた。陸軍は無敵と言われた旅順要塞を陥落させ、さらに奉天でロシア満州軍主力を圧倒することに成功した。しかしすでに戦力は限界に達しこれ以上の戦争継続は不可能であった。対するロシアも多くの戦力を温存していたものの国内のゴタゴタで戦争を継続する力を失っていた。
 最終的に戦争の勝敗を決したのは海上での戦いだった。1905年5月27日、ロシア海軍第二太平洋艦隊(バルチック艦隊)と日本海軍連合艦隊は激突した。日本海海戦である。連合艦隊はこの戦いでバルチック艦隊を壊滅させる一方で、損害はわずかに水雷艇3隻という空前絶後の大勝利を得た。
 日露戦争はアメリカの仲介もあり、ポーツマス講和条約をもって終結した。日本は大国ロシアとの戦いに勝利し、国際社会での影響力は飛躍的に上昇したが、その一方でアメリカやイギリスから借りた戦費の返却が国庫を圧迫するようになった。結局は償還に行き詰まり、ポーツマスで得た満州利権―主に南満州鉄道の経営権―の一部をアメリカに譲り渡すことになった。これ以降、日本はしばらく大陸への進出に消極的になり、国内のインフラ整備による国力増大に力を注ぐようになったのである。支配の優越権を得た朝鮮半島についても日本は保護国化以上のことは行なわなかった。

 10年の時が経ち、欧州では第一次世界大戦が始まった。それは日本にとって大陸進出の新たな機会であった。日本は中国のドイツ租借地である山東半島を占領し、中国へその利権の継承を求める対華二十一ヶ条要求を出した。その一方で西洋列強の承認を得る為に欧州戦線への派兵も実施し、駆逐艦による連合国船の護衛から始まり、金剛級戦艦の派遣、さらに地上軍を派遣してガリポリの戦いでトルコ軍と交戦したのを皮切りに2個師団の兵力が南部戦線に投入した。
 こうして欧州戦線で多大な貢献を果たしパリ講和会議でも二十一か条要求は認められたが、これを認めない国もあった。当事国である中華民国と中国市場への更なる進出を目指すアメリカである。
 アメリカは日本を太平洋での大きな脅威であると見なし、ハーディング大統領は1921年のワシントン会議で日本に二十一ヶ条要求の放棄と日英同盟の放棄を求めてきたのである。日英同盟はイギリスと同盟破棄による日本の脅威増大を苦慮するオーストラリア・ニュージーランドの反対による存続されたが、二十一ヶ条要求は九カ国条約により破棄され、ドイツの中国利権は中国に返還されたのである。
 その後も日本は中国への進出を狙ったものの戦時にアメリカから借りた戦費の返済を迫るアメリカの妨害に阻まれ、結局は蒋介石政府を支援するアメリカと歩調を合わせることとなった。
 そのようにいくらかの問題を抱えたものの、1920年代は国際協調が叫ばれ平和な時代が続いた。日本も世界平和を守る為に組織された国際機関、国際連盟の常任理事国となり表向きは平和を謳歌し、国内では政党政治が始まり男子普通選挙が実現するなど民主化が進展し、大正デモクラシーとも言われた。
 だが平和な時代は長くは続かなかったのである。

 1929年、ニューヨークの株式の中心地であるウォール街で発生した株価大暴落は、瞬く間に資本主義諸国に広がり世界的大不況となった。世界恐慌である。
 広大な植民地を持つ英仏は植民地との間に排他的なブロック経済圏を築き、アメリカはニューディール政策でなんとか危機を脱した。
 日本は濱口内閣の失策もあり世界恐慌で大きな損失を出すことになった。それに続く若槻内閣も有効な対処策を行えず、事態の収束は次の犬飼内閣を待たなくてはならない。犬飼内閣の蔵相、高橋是清はデフレ対策のために積極財政を行い、巧みな経済政策で日本経済を救った。高橋是清は後に世に知らしられるケインズ経済理論を当のケインズが発表する4年も前に実践して見せたのである。欧米のブロック経済化により日本経済は失速するものの内需拡大政策によりなんとか持ち直した。海軍の青年将校による政治テロ事件である5・15事件の発生など政治的な混乱は生じた(注1)ものの、なんとか前へ進んでいた。
 しかし独伊などの「持たざる国」はいつまでも不況から抜け出す事が出来ずにいた。社会不安は右傾化に繋がりファシズム政権の出現を招いた。ドイツやイタリアなどのファシズム政権は協力して、対外膨張を進めた。1935年にイタリアがアフリカの数少ない独立国であったエチオピア帝国を第2次エチオピア戦争で占領し、東アフリカ帝国を築いたり、ナチスドイツがオーストラリアを併合しチェコスロヴァキアの解体を強行したりしたのが具体例である。
 これらの行動に対する米英仏の動きは鈍かった。英仏はファシズム諸国の反共的性格に期待して宥和政策を採り、唯一恐慌の被害を受けず成長を続けていたソ連に対する防壁として活用しようと考えたのである。
 これに気を良くしたナチスドイツはさらにポーランドにも領土割譲を求めた。この頃には英仏も宥和政策の限界を認め、ポーランドへの安全保障とソ連との同盟構築に動いたのである。ポーランドはそれを受けドイツの要求を拒否したが、ソ連は英仏との同盟を拒否した。
 ソ連は英仏のナチスドイツに対する宥和政策に対して不信感を抱いていたのだ。なぜ下手にでるのかと。英仏はナチスドイツと手を結び、ソビエトを滅ぼそうとしているのではないかと。この同盟の申し出はソビエトを油断させる為の手ではないかと。ならばドイツが彼らと手を結ぶ前にこちらの陣営に引き込み、英仏に対する防壁とすべきではないか?ソ連がナチスドイツとの提携に転じた瞬間だった。
 1939年の独ソ不可侵条約の締結は世界を驚かせた。お互いを敵視しているもの同士が手を結んだのだ。そして両国が間に挟まるポーランドに牙を向けたのは締結の僅か1週間後だった。

 1939年9月1日、第2次世界大戦が始まった。それを告げたのはドイツの急降下爆撃機のサイレン音だった。英仏の援軍がすぐさま駆けつけることを想定して防衛ラインを展開したポーランド軍だったが、英仏の動きはチェコスロヴァキア解体時と同様に鈍かった。一方のドイツの動きは迅速だった。強力な装甲部隊を用いてポーランド軍部隊を次々と撃破し、防衛線は後退を重ねた。そして17日の「ポーランドのベラルーシ系及びウクライナ系住人の保護」を名目にしたソ連軍の侵入がポーランドに止めを刺した。ポーランド軍は中立国に脱出し、ポーランドという国家は消滅した。
 その間に英仏はドイツに対して宣戦したものの、何ら手を打つことはできなかった。

 この時点で日本は参戦していなかった。まだ誰もこの戦争が世界規模の戦争に発展するとは考えておらず、すぐに講和が成立すると考えられていたからだ。日本もすぐ終結するだろう戦争に首を突っ込み掻き乱して欧州諸国の顰蹙を買うよりも目の前で繰り広げられている中国の内戦に力を注ぐべきだと考えたのだ。
 実際、西欧では半年ほど大規模な戦いが起こらず「まやかし戦争」とも呼ばれる平穏な日々が続き、世間の目はソ連とドイツの侵攻を受けていた北欧に注がれていた。
 平穏が崩れたのは1940年5月、ドイツはベルギー、オランダ、そしてフランスに牙を向けた時だ。ベルギー、オランダを瞬く間に占領し、フランス軍が自信を持って構築した長大な要塞「マジノ線」も突破したドイツ軍だったが、質量において優る連合国戦車部隊の前に思わぬ苦戦を強いられる事になった。日本がドイツに対して宣戦布告したのもこの時期だ。
 連合国はドイツの燃料供給を断つべく、油田地帯であるバクーに爆撃を行なったものの、ソ連の対英仏日宣戦布告を招いただけで、なんら効果は無く、イギリス軍の主力部隊は着の身着のままダンケルクからイギリス本国に脱出し、パリはまもなく陥落した。時に1940年8月21日のことである。
 フランスを破ったドイツはイギリス本土上陸作戦の準備を開始した。しかし、前哨戦たるイギリス軍の航空戦力撲滅を目的としたイギリス本土攻撃は、イギリス空軍の必死の抵抗を前に思うように戦果を上げることができなかった。
 一方でフランス陥落直前に枢軸側に立って参戦したイタリアは、ローマ帝国の再建を目指しバルカンへ、そしてアフリカへと戦線を広げた。しかしバルカンでは思わぬ抵抗の前に戦線は停滞し、アフリカではイギリス領エジプトへ兵を進めたものの反撃に遭い、挙句の果てにイタリア領リビアへと押し返されてしまった。結局、イタリアはドイツに援軍を要請することとなった。
 ドイツはこれに応じた。エジプトを抑えることでイギリスと植民地(特にインド)との連絡を断つ狙いもあった。ドイツは名将エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団を派遣し、イギリス軍や日本軍を相手に勝利を重ねた。
 1941年になるとソ連もバクー空爆の報復として、カフカスからイランへの侵攻を開始し、さらに極東でも満州へと南下を始めた。こうして、イラン戦線と極東戦線が形成され、戦争は世界大戦になった。
 ドイツ・アフリカ軍団はアレクサンドリア、次いでカイロを占領し、スエズに迫った。イラン戦線では、ソ連軍は連合軍が防衛線を敷いた山脈地帯を避けて南下しホルムズ海峡に達した。ドイツ空軍が進出し、ペルシア湾や紅海で通商破壊を開始した。極東ではソ連軍は満州一帯を占領し、ついに朝鮮半島・大韓帝国へ侵入した。

 追い詰められた連合国軍であったが、満州の在留米国人がソ連軍によって虐殺されたこと(注2)を理由に1941年12月にアメリカも枢軸国に宣戦、連合国軍側に立って参戦したことで状況は一変した。圧倒的な物量を持つ米軍の援護を受け連合国軍の反撃が始まったのだ。その始まりの地はイラン戦線であった。
 連合国はイラン上空においては優勢である空軍力を生かして、枢軸国軍の補給線を空中から叩き、弱ったソ連軍をケルマーン一帯で破ると北上を開始した。1942年7月のことである。翌年6月には戦線はカフカス山脈に到達し膠着状態となった。
 またアフリカでもスエズの戦いで連合国軍がドイツ・アフリカ軍団を破り、翌年5月には枢軸国は北アフリカから撤退した。そして、連合国軍は遂に枢軸国の領域に踏み込んだのであった。

 1943年7月に日米英を主力とする連合国軍はシチリア島上陸参戦を敢行し、8月には完全に占領するに至った。それ故にイタリア本国ではファシスト党が勢力を失いムッソリーニは失脚し、9月に連合国軍がイタリア本土に上陸すると新政府はすぐさま連合国に降服したのである。しかしドイツはそれを許さず幽閉されていたムッソリーニを救出すると、イタリア北部で親独的イタリア軍部隊とともに防衛戦を展開し、激戦の中で欧州は1944年を迎えた。

 連合国では戦死者が増えつづけていることで厭戦気分が高まっており、一刻も早い終戦が望まれた。特に日本は兵站上の負担が大きく、朝鮮でソ連が進撃していることもあり、兵力をそこへ集中したかった。1944年5月の時点で、朝鮮半島において連合国側の勢力圏は、釜山を中心とする半径100km弱程度の領域、俗に言う釜山円陣を残すのみとなっていたのである(注3)。

 連合国軍は早期に西欧を枢軸国軍から奪還すべく、北フランスへの上陸作戦を決行することとなった。上陸地点としてノルマンディー海岸が選定され、極東戦線における反撃作戦と同時に実行することとなった。6月に実施されたノルマンディー上陸作戦は、ドイツ南部や旧オーストリアに主力を配備していたドイツ軍の隙を突くことになり成功に終わり、8月にはパリを解放した。
 一方、極東戦線でも連合国はソウル近郊の仁川への上陸作戦を実行し、こちらも成功してソ連軍は朝鮮半島の最狭部である平壌-元山ラインまで一気に押し戻された。
 イタリア戦線でも山地に築かれた頑固な陣地に苦戦しながらも連合国軍は進撃を続けた。特に白兵戦における日本兵の活躍は特筆に価するものであり、他の連合国将兵の人種観に大きな影響を与えた。1944年6月にはローマを占領し1945年の4月末にはムッソリーニをパルチザンが捕らえ処刑し、5月2日に遂にイタリアのドイツ軍が降服した。

 西欧戦線ではドイツ軍が戦力を建て直し、2月にベルギーで反攻に転じた。後にバルジの戦いとして知られるこの戦いにはドイツは出せる限りの総力を結集した。しかし連合国軍の進撃に遅れは発生したが、止まる事はなかった。制空権が連合国側に優勢である状況ではできる事に限りがあったのだ。連合国軍は5月にはライン川に達し、遂にドイツ本国へと侵入した。これによりソ連は西の防備を固めるために極東戦線から部隊を引き上げざるえなかった。極東戦線において連合国は1945年6月までに鴨緑(アムノク)江に達しったのである。
 ドイツ軍が頑固に抵抗するものの1945年11月には戦線は遂にエルベ川に到達したが、そこに極東から転出したソ連軍が加わり、戦線は膠着状態になった。
 連合国軍は枢軸国に圧力を加える為に未だに枢軸国支配下のギリシャやノルウェー、デンマークの奪還作戦を行った。これらの作戦は枢軸国軍の抵抗は軽微で簡単に成功した(注4)が、主戦線は動かなかった。

 限界だった。もはや枢軸国は国力の限界に達していて、特に国土の半分を失っていたドイツにはこれ以上の戦争遂行は不可能だった。連合国側でも死者ばかりが悪戯に増える状況に厭戦気分が高まっていた。両者が停戦交渉を開始したのは当然の成り行きだった。
 一方、極東戦線は苦しい状況が続いていた。ソ連軍の兵力はだいぶ減ったが、それでも相当の戦力を残しており、中国共産党のゲリラ戦術も苛烈であった。

 1946年8月15日、停戦協定が結ばれ、戦争は終わった。だが、それは新たな戦いの始まりでもあった。大国同士が直接、戦火を交えることなく進む冷たい戦争、東西冷戦の始まりである。

注釈
注1:その参加者、首謀者は厳重に処罰され、事件は軍部の引き締めに利用された。
注2:枢軸側、特にソ連は当時から現在に到るまで「事件は日米の陰謀である」と主張している。連合国側の資料には不審な点があるのも事実で、現在でも事件の真相を巡る論争が続いている
注3:特に大邱正面、多富洞(タブドン)陣地における当時韓国陸軍少佐の(ペク)某の活躍は有名である。戦前まで形式的な皇帝護衛部隊に過ぎず国防を日本に頼っていた韓国軍は1942年に日本の命令で軍備増強を開始したものの、不十分な状況でソ連軍を迎え撃たなくてはならず、各地で苦戦をしたものの、国土防衛のために全力を尽くし、壮絶な死闘を演じた。
注4:連合国のギリシャ上陸後、ドイツはチトーと停戦し、ユーゴスラビアの中立化を条件に撤退した。これにより、ドイツは南部方面の防備を固めることに成功し、また連合国軍はユーゴスラビアを通過して、枢軸領域へ侵攻することはできなかった。また、周辺国が連合国化した為に、それまで中立を保ってきたトルコは連合国側に立って参戦した。












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