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サファイア

作者: 藤原 祐一

 僕の家はお金持ちだった。家の物は豪華だったし、僕や僕の家族が欲しいと思ったものを我慢しなければならないことはなかった。これはつまり幸せに暮らしているということなのだと思う。

 けれどそんな家を、僕はときどき抜け出すことがある。抜け出した後いくらかしたら帰りその度に怒られるのに、これが中々やめられないのだ。大抵は家の周りを少し探検しただけで終わるのだが、何日かかけて遠いところを目指すと、たまにびっくりするようなところにたどり着くこともある。



 今、僕はそんなところにいた。タブ村という名前の村らしい。僕は旅人として歓迎を受けていた。

「こんなところにめずらしい。ようこそ、旅人さん。私が村長です」

 若くて体の大きい男の村長さんが僕を案内してくれた。タブ村は田舎っぽい昔風の村だった。藁の屋根を頭に載せた木造の低い家に、土と草だらけの道や畑、村の人たちは汚れた白か茶色の布きれのような服を着て、男たちはみなたくましい体つきをしていた。

「旅人さん、お名前は何と言うのですか?」

村長さんがにっこりと笑いながら聞いてくる。

「ライト、と言います」

「ではライトさん。お疲れでしょうから、私の家でおくつろぎになってください」

「ありがとうございます。でも、いいのですか?」

「もちろん。必要ならしばらく泊まっていかれても構いませんよ。なにせこの村に客人が来るのは珍しいですから」


 村長さんの家は村長と言うだけあって大きかった。中は和風の畳張り。僕はその内の一室をまるまる貸してもらえることになったのだった。

 部屋で一息つき、リュックサックの中身を点検する。使い切ってしまった道具もなく数日分の食糧もあり、数日間この村を観光しても大丈夫だと判断すると僕は早速村を見て回ることにした。


 タブ村はそれなりに広かった。村長さんの家を中心に、三十ほどの家が散らばっていてそれぞれ田んぼか畑か動物を飼う土地を持っていた。村の外との交流はなさそうで、自給自足で成り立っている村のようだった。

 つい聞きたいことがあって、道を歩いている人を捕まえてみた。

「あの、すみません」

「おや、旅人さん。何でしょう?」

「村の外に出たことはありますか?」

「いえ、ありませんねぇ。出てみたいと思ったこともありません」

「それはなぜでしょうか?」

「私たちはここで満足していますから」

「そうですか。変なことを聞いてすみません」

「いえいえ、お気になさらずに」

 それでは、とその人は去って行ってしまった。答えてくれた村人は終始にこにこしていた。彼だけではない。村の誰もが笑顔で生活しているのだ。彼らはいかにも幸せそうだった。



 その日の晩、僕は村長さんの家で晩御飯を御馳走されていた。

「ライトさんのお口に合えば幸いです。さぁどうぞ」

 米に野菜に肉、全て村で採れたものを料理されたものだった。見たことのない料理ばかりでも豪勢に振る舞われたのだと分かる見栄えで、どれもとても美味しかった。

「すごく美味しいです」

「それは良かった。安心しましたよ」

 はっは、と人の良さそうな笑い声を上げて村長さんも自分の料理を食べ始めた。

 しばらくすると部屋の扉が開き、村長さんの部下らしき人が入ってきた。彼は僕に軽く一礼をして村長さんに耳打ちをすると、また礼をして帰っていった。村長さんは少し険しい顔をしながら口を開いた。

「ライトさん、明日はお持て成しできないかもしれません」

 村長さんは、この村で一番高齢のお婆さんが亡くなってしまったこと、そのため明日は葬式を行わなければならないことを話してくれた。

「僕は旅人の身ですから、お構いなく」

「そう言ってもらえると助かります」

 村長さんはまたにっこりと笑った。



 次の日、村長さんの家の前の広場で葬式が行われた。村人は皆真っ白な服を着て沈痛な面持ちをしていて、僕は遠慮してその一番後ろから葬式を見ていた。村長さんの声も遠く、葬儀が進むにつれて、僕は不謹慎ながら少し飽き気味でいた。立っているのも辛くなってきてどこか休める場所がないか探そうとしたところで

「そこを通していただけますか」

 いかつい顔つきをした村人に声をかけられた。

「すみません」

 さっと身を引いた。どうやら広場中央への通り道になっているようだった。目の前をいかつい村人を先頭にした行列が通り過ぎていく。


 その列に一人、背の低い女の子がいた。前後を護られながら歩いていくその女の子の目はとてもきれいな青い目をしていた。


 女の子は広場の真ん中に着くと、亡くなったお婆さんにお祈りをするような動作をして、最後に花を添えた。そして唐突にしくしくと泣きだした。

 女の子の泣く姿は、遠目から見てもとても痛ましかった。あんなに深い悲しみはこの世界の他にないのではないかと思うほどで、広場には悲しみだけが存在しているようだった。先ほどまで聞こえていた小鳥のさえずりや木の葉のこすれる音は全く耳に入らなくなり、彼女の泣く声がここまで聞こえてくるようだった。


 目の青いきれいな女の子は泣いた後、また元来た道を引き返し帰って行った。泣きはらした顔は真っ赤になっていたものの、目はとても澄んだ青のままだった。僕はその目に惹かれるまま後を追おうと思ったが、女の子が広場を後にしたとき驚くべきことが起きた。

 村人が騒ぎ出したのだ。女の子がいたとき、いる前には皆悲しみの奥底にあるかのような様子だったのに、今は笑いながら騒ぎ続けている。

 そして注意深く聞いてみると、亡くなったお婆さんの話をしているようだった。お婆さんの思い出を語り合っていたのだった。不思議な光景に僕は唖然とする他なく、女の子を追いかけるどころではなかった。



「私たちは葬儀が終わったら、必ず笑うようにしているんですよ」

 その晩、村長さんにたずねてみた。

「外から来た方は変に思われるかもしれません。しかし死んだ人にしても、自分が死んだせいで生前親しかった人がいつまでも悲しんでしまうのは嫌でしょう。私たちはそう考えるのです」

「なるほど」

 いつまでも悲しみを引きずらないことがこの村の人々が笑顔である秘訣なのかもしれない、と思った。それは悲しみから目を反らしているわけではなく、むしろ避けられない悲しみへここの村が編み出した対処法なのだ。

「もう一つお聞きしたいことが……」

「青い目の女のことでしょうか?」

「そうです」

「あれは悲哀女ひあいめです。私たちの村でなくてはならない役目を負っています」

 悲哀女は村の悲しみを一身に背負うのが役目の人間らしい。村で何か悪いことが起きると彼女が呼ばれ、その悲しみを負う。悲哀女が代わりに悲しむことで、村人はその悲しみから解放される、と言う。

「悲哀女は代々継がれていまして、当代はまだ年若いのです」

「その、できればお目にかかることなどは……?」

「申し訳ありませんが、あまり人に会わせることはできませんので」

 村長さんの目が少し鋭くなる。

「そうですか」

「無理もありません。外からの方はみな興味を持たれますから。ただ、村の者でも会わせないようにしているのです。ご容赦を」



 村長さんからは何も聞き出せなかったけれど、僕だって無能ではない。次の日、僕は村で聞き込みをして青い目の少女――悲哀女の居場所を突き止めた。

 聞き込みと言ってももちろん愚直に尋ねて回って教えてもらえるとは考えにくい。こういうときは子供を使うのだ。僕は自分の好みで焼き菓子を持ち歩いていた。それを子供に少し譲り、その対価として。もちろん足が付くから多用もできないし危険はある。

 悲哀女の住まう場所とは、果たして大きめの屋敷だった。村長さんの家が村の中央にあるのに対して悲哀目の屋敷は村の端にある。村の外側に広がる森に背を向けるようにして、村の方に出入り口を開けている。出入り口には見張りが二人。許可が下りなければ通してもらえないのだろう。悲哀女に会いたければ、目を盗んで忍び込むしかない。



 その日の晩、村長さんの家から抜け出した。貸し与えられた部屋は庭に繋がる出口があり、消灯後、そこから外に出ることができた。外に出られる部屋を貸してもらえたのは、自分が信用されているのか、それとも何もできないだろうと見くびられているのか、どちらにせよ好都合だった。

 暗闇の中、月明かりに目を凝らしながら悲哀女の屋敷へ行く。昼と変わらず見張りが仁王立ちしているため屋敷の裏から忍び込むことにした。

 三軒分屋敷の遠くから村の外に当たる木々の中へ分け入っていき、屋敷の裏手へ。一階には見張りがいる可能性が高い。哨戒はしておらずとも万が一他の人員が控えていれば見つかってしまう。僕は木を器用に登って二階の開き戸を片手で開ける。慣れたものだった。

 するりと部屋の中へ降り立つと中に人影があった。木々が月明かりを遮っているせいでほとんど光が差し込んでいなかったのだ。だが、その人影が目当ての少女だと気づくのに時間はかからなかった。

「こんばんは」

 こちらを向いた少女の目はとても澄んだ青で。暗闇に浮かぶそれは、まるで宝石のように輝いて見えた。



「こんばんは」

 後ろ手に戸を閉めポケットから手のひらサイズの懐中電灯を取り出す。地面を照らして周りを見ると、布団、炬燵、箪笥と生活感のある物たちが畳の上に鎮座している。どうやらここが彼女の生活している部屋らしい。

 肝心の彼女はと言うと、巫女装束のような服装をしていた。おそらく神聖な意味が込められた装束なのだろうが、全身真っ白なため幽霊のように見える。

「驚かないのですか?」

 まずは最初に湧いた疑問をぶつけてみた。彼女にとっては夜中に突然面識のない者が部屋に入ってきたのだ。驚くのが普通だろう。

「あなたのこと、驚いてはいますが、あなたが屋敷に近づいたあたりでもう、気づいていましたので」

「気付いていた……?」

「あれ、ご存知ないのでしょうか? 私は耳が良いのです」

 歌うような独特のテンポで話す彼女は神秘的な、謎めいた雰囲気を醸し出していた。今の異質な状況もそう感じさせるのを手伝っているのかもしれない。しかし彼女は動じていないと言う。

「この村の人のどれでもない音、気配でした。この村に訪れた旅人がいると聞いています。あなたのことでしょう?」

「……なるほど、とてもお耳が良いようで。その通りです」

「そうしましたら、単刀直入にお聞きしますが。ご用件は何でしょうか?」

「用件ですか」

 そういえば、と。今さらになって考えた。こうしてあっけなく悲哀女に会えた。そして、この後どうするつもりだったっけ。

「あの、特にありません」

「え?」

「何も考えていませんでした」

「おやおや。まぁまぁ」

 今度は驚いたようだった。さすがに無理はないか、と自分で苦笑する。

「でしたら……、旅人さんは私に興味があっていらっしゃったのでしょうから、私のことについてお話しましょうか」

 促されて向かい合うように座る。ただし、行儀が悪いのは承知で片膝を立てた座り方だ。悲哀女に襲ってくる意思がなさそうだとは言え、いつでも動けるようにしなくてはならない。

 彼女は気にしていない風で話し始めた。


「まず私の名前は、イアと言います」

 彼女――イアは耳がとても良い他に、目が見えないらしい。そして、そのおかげで歴代の悲哀女よりも特別視されているとも。少しだけ豪華な生活が出来ているのだと嬉しそうに語ってくれた。

「私は、生まれつきこの悲哀女という役目を負っています。ずっとこのお屋敷にいて、お仕事の時だけ外に出るのです」

 悲哀女の役目は『村の人々の代わりに悲しむこと』だ。村の人々が終始笑顔でいられるのは彼女のおかげらしく、それはこの閉鎖的なタブ村が安定して続いていくために必要なことだと言う。

「専ら悲哀女として仕事をしているつもりですが、退屈な時間も多いですから、ここの見張りの人と良くおしゃべりもしています。他のみなさんには秘密ですけどね」

「普段から良く話すタイプだ、と」

「それは失礼でしょう……、とまぁ当たっていますよ」

 くすくす、とイアは笑った。つられて僕も笑ってしまう。僕たちは意図せずに短い時間で打ち解けてしまっていた。

「旅人さん、あなたのことも教えてください。難でしたらお名前だけでも」

「そういえば、未だ教えていませんでしたね。僕の名前はライトと言います」

 自分の身の上を、思いつくまま話していった。自分の家のこと、普段の生活のこと、たまにこうして家を抜け出していること。

「外に良くお出でになるのですか?」

「そうですね、家での生活が退屈になると」

「それは羨ましいですね」

「おや、そうですか。意外でした。村の人たちは『外に出たいとは思わない』と言っていましたから」

 タブ村でずっと抱えていた違和感。誰も外に出ようとしないことが僕には不思議でならなかった。けれどイアは違う。イアとはところどころ気が合うというか、考えが似ているようでそれが素直に嬉しかった。

「村の者は今の生活で満ち足りていますから。しかし、それは私が悲哀女として役目を果たしているからなのです」

「ふむ……」

「私自身は満足しているわけではありません。だから、羨ましいと感じます」

「それなら、外に出ようと思いませんか?」

 外はまだ暗い。開き戸から出て森を抜けて村の外へ。それは名案で、限りなく魅力的に思えた。村を出たら自分の家へ呼べばいい。なんだかんだ言って家の人は僕に甘いし一人くらい生活するだけの……

「それは出来ません」

 はっとする。今までのイアらしからぬ、きっぱりした口調だった。

「私は悲哀女です。その役目を放棄するわけにはいかないのです」

「でも、それじゃイアさんが報われないのではないでしょうか?」

「それでも、です。確かに私が悲哀女であることに満足してはいません。好き好んで悲哀女になったわけでもありません。それでも、私は悲哀女なのです」

「そうですか……」


 正直、イアがなぜそんなに悲哀女に固執するのかわからなかった。生まれつきの役目がなんだ。そんなものは犬に食わせてしまえ、自由に生きろ、というのが本音だった。人生は一度きりだ。自分のやりたいことをやって生きるべきだと僕は思う。

 けれど、と自分に歯止めをかける。このタブ村では僕は一人の来訪者に過ぎないし価値観を理解できているはずもない。その僕が生き様などというものを押し付けることは、してはならないことだと分かっている。

「ライトさんが羨ましいですね」

「え?」

「お話が丁寧で、頭も良くて。きっとよく愛されてよく教育されたのでしょう。その上一人で旅に出られる勇気と自由もあります」

「ははぁ。教育、ですか」

 確かに僕は有体に言って――この表現は嫌いなのだが――金持ちの家のお坊ちゃまだ。家には教育専用の係の人がいたし、そういう家は稀だとも教わっていて、自分がそういう存在だということも自覚している。ただ、

「愛されていた、とは思いません。多少の感謝はしていますが。何せ僕の両親は人間を飼っていたのですから」

「人間を飼う、ですか。外の世界は私の想像よりも突飛なようですね」

 それは厳密には僕の勘違いだったのだけれど、僕の心にはまだ大きな傷として残っていた。ちゃんとした事情がそこにはあったし両親は直接の原因ではなかった。けれど僕が両親を嫌いになるには十分なだけのものだった。

「そういえば、イアさんの親御さんはどんな方なのですか?」

「どんな、ですか」

 遠慮が多分に入った聞き方に、ふっと笑われしまった。

「母がいます。代々継ぎますから母は前代の悲哀女でした。勘違いなさっているかもしれませんが、存命ですよ」

「この村に?」

「もちろんそうです。まぁ、もう会うことはできない決まりなのですが……」

 初めてイアの顔に影が差すのを僕は見逃さなかった。

「会ってみませんか? お母さんに」

「しかし決まりが……」

「自分の親に会うことくらいは良いのではないでしょうか」

「……」


 イアは決めあぐねているようだった。僕はイアに少しでも何かしてあげたかった。この村にはこの村のルールがあるし、イアがそれを破る後押しをすることは悪いことかもしれない。それでも少しでも自由を感じさせてあげられたら、と思う。

 ふと、屋敷に忍び込んでから大分時間が経ってしまっていることに気づいた。空が明るくなってから帰るようでは遅い。

「また明日の夜に来ます」

 イアの返答を待たず、そう言い残して外に出た。引き留める声はなかった。



 ほぼ同じ時間の同じ場所で、昨日の子供に会うことができた。群れて遊んでいる中から呼び出してその手に焼き菓子を握らせる。

「あのさ、悲哀女のお母さんがどこに住んでいるか知らない?」

「ん、知ってるよ!」

「どこ!?」

「あそこ!」

 子供が指を指したのは子供たちがはしゃぎまわっているすぐそばの屋敷だった。確かに周りの家よりも大きく、如何にも要人が住んでいそうだが、まさかこんな近くとは。けれどそれより……、

「それ、本当なのかい?」

「そうだよ! 僕たち見たことあるもん!」

 子供の声につられて、離れて遊んでいた子供たちが駆け寄ってくる。あ、まずい。

「あぁー! またお菓子もらってる! 僕にもちょうだい!」

「僕にも!」

「私にも!」

 子供たちが有らん限りの声を上げてねだってくる。傍を通る村人たちからの視線を浴びる。幸い怪しまれているようではなく、子供の相手をしてあげている程度にしか思われていないようだったが、あまり目立ちたくはない。

「仕方ないなぁ……」

 手持ちの焼き菓子を子供たちにばら撒いて退散した。立ち去り際に子供の言う屋敷を確認する。塀で囲った門の内側に見張りが立っているのがわかる。こんな近くで騒いでいたのではバレバレだろう。それに子供たちは良くも悪くも口が軽い。自分が悲哀女について聞き出していたこともすぐに知られてしまう。この村にはもう長くは居られないだろう。



 この日の夜も村長さんの家で御馳走になった。毎晩違う料理はもてなされているのか、それとも献立がそう決まっているのかわからなかったが、もう確かめようがない。

「ライトさん」

 いつものように朗らかに話しかけてくる村長さんの声に、けれどこの時は険の含みがあった。

「この村で何か不自由なことなど、ありませんか?」

 とても遠回しな表現。それでも僕を戦慄させるのに十分だった。さすがは村の長だ。

「いえ、楽しく過ごさせていただいています」

「でしたら良いのですが。何分、小さく閉鎖的な村ですから、色々と細かいルールがありまして。堅苦しく思われるかもしれませんがこれも私たちが自分たちを守るためなのです」

「はい」

「ご容赦を」

 口調は柔らかで表情はタブ村の誰もが浮かべている笑顔だったが、目は笑っていなかった。そう長くは居られないと言ったが撤回せざるを得ない。もう今日が限界だろうと結論付けた。となれば後は、僕は僕のしたいことをするだけだ。



「母に会いたいです」

 開口一番、イアはそう言ってくれた。

「わかりました」

 言葉少なに彼女の手を引こうとする。行くなら早い方が良い。

「行く前に、お聞きしても良いでしょうか」

「何でしょう?」

「あなたにとって、自由とは何ですか?」


 それはどういう意味で、とか、なぜいきなりそんな質問を、という疑問を飲み込む。彼女はいたずらに無意味な質問をする人ではない。きっと重要なことなのだろう。

「自由とは縛られず、自分の好きなように生きることです。そして僕にとってこの上なく大事なものです」

「なるほど。やはり、私にとって羨ましいものです」

 彼女は落ち着いた様子で続ける。

「それでは、あなたにとって好きなように生きること。好きなこととは何ですか?」

「それは……」

 即答するつもりで口を開いたけれど、そのまま詰まってしまった。考えたこともなかった。好きなように……、それは一体どんな風に?

「質問を変えます。私は悲哀女として生きています。そういう役目を負って生きています。あなたはどんな役目を負っていますか?」

 役目。僕は家が嫌で飛び出してきた。けれど、家にいる間僕は何か役目があっただろうか? お金持ちのお坊ちゃまとは立場ではあっても役目ではない。

「……僕にはそのような役目はありません」

「私にとって悲哀女とは、私自身であり、役目であり、そして生きる意味でもあります。あなたにとっての生きる意味とは何でしょうか?」

「……わかりません。あるのかないのさえ、わかりません」

「思うに、私は」

 イアは息をすぅっと吸い込んで話し続ける。見えないはずの青い目をしっかり開いて、少し頬を上気させて、それほど必死に僕に聞きたいことが、伝えたいことがあったのだと思う。

「あなたは自由と、そう自分を称しながら、自分にとっての役目を探しているのではないでしょうか?  自分の生きる意味を探しているのではないでしょうか? 自分が何者なのかを探しているのではないでしょうか?」

 悲哀女の澄んだ青い目が僕を射抜く。まるで僕の正体を暴こうとするかのように。

「あなたは何者ですか?」

「僕は……」

 イアは何者だと聞かれたら、彼女はタブ村の悲哀女だ。それは揺るぎない事実であり、彼女は縛られながらもその役目を果たしながら生きてきた。これからもそのつもりだろう。対して、僕はどうだろう?

 僕は何者だろうか。自由を望んで縛られたくなくて生きてきた。自分の境遇が嫌で、家を抜け出したくて、今そうしている。けれど、自由になって何をするつもりでもなかった。

 僕は何者で、何がしたくて、何のために生きているのだろう?

 こんな僕がイアと対等に話して、ルールを破り連れ出すことが許されるのだろうか。



「すみません、変なことを聞いてしまって」

「……いえ」

「何だか初めてこんなにお話できる相手ができて舞い上がってしまったみたいです」

 先の剣呑とした響きではなく、楽器のようなとても綺麗な声で、どこか懐かしく感じた。

「生きる意味だなんて。私だってまだ十七歳なのに」

「僕も、十七歳ですよ」

「あら、同い年でしたか」

 ふふっとイアの上品な笑い方が雰囲気を和ませた。そうだ、あまり時間をかけるわけにはいかないのだった。

「行きましょうか」

「はい」

 僕はイアの手を取って外へ向かう。


 イアの母親のお屋敷には難なく忍び込むことができた。裏手から少し高い塀によじ登るだけ。きしむ廊下を渡り、最奥の部屋へ。

 引き戸を開けるとイアの母親が待っていた。

「お母さん!」

 イアが顔を輝かせる。

「イア、久しぶりですね」

 イアの母親も嬉しそうだ。ほっそりした体系のイアを丸くしてそのまま年をとったような風貌はほとんど瓜二つだった。

「旅人さんですか、イアを連れてきてくださったのは」

「はい、ライトと言います。あの、驚かせてしまったのでは……?」

「全くそんなことありませんよ。この子ほどではありませんが、私も耳が良いので」

 わかっていた、ということなのだろうか。親子揃って先読みされて舌を巻いた。

 僕たちはここまで来た経緯について話した。それとイアと話した内容も少し。

「外に出てみるのも良いのではないのですか、イア」

「お母さん!? 何をおっしゃっているのですか!?」

「だって、出てみたいと思ったのでしょう?」

「それは、少しは」

「でしょう? なら私は否定はしませんよ」

 イアの母親の意見は、僕にとっても意外だった。にべもなく否定されると思っていた。

「でも私が、悲哀女がいなくなったら村は……?」

「混乱するでしょうね。だとしても持ち直せるでしょう。村の大人たちを馬鹿にしてはいけません」

「私は……」

「行きなさいな。ほら、彼の気が変わってしまうかもしれませんよ」

「そんなことはありませんよ」

 完全に子供扱いされているイアの様子に少し笑いが漏れた。

「あなたたちはまだ若いのですから、一度自由になって色々探してみるのが良いのですよ」

 僕とイアは驚いて顔を上げる。さっきの会話は教えていないはずだった。

 意味ありげな目配せをもらいながら、けれどそこまで耳が良いわけがない、イアの屋敷とここは遠く離れているんだぞ、と思い直す。この人には多分一生かかっても敵わないな、とも思った。

「それでは、娘をよろしくお願いします」

「はい。行きましょう」

再びイアの手を取って。外へ向かう。



「ご老体、誰かいるのですか?」

 戸を開けようとしたまさにその時、外から声をかけられた。話し声が大きすぎたようだ。どうやら優雅に脱出、とはいかないらしい。

「イアさん、ついてきてくださいね」

 こくり、とイアがうなずく。つばを飲み込む音が聞こえてくるようだった。

 引き戸を思いっきり開ける。大きな音を出してひるませるためだった。

「何者だ! ……!?」

 懐中電灯を付け、光を見張りの顔に向ける。咄嗟に仰け反ったその体の横をかがんですり抜け様、足を引っ掛けて倒す。

 どったーん! と大きな音が立つ。それに反応して屋敷の外から見張りの入ってくる気配。大分賑やかになってしまった。


挿絵(By みてみん)


 イアの手を引きながら来た道順を引き返していく。警鐘が響き渡って緊張で体中に力が入っていく。イアの手の平が汗ばんでいるのも感じた。けれどこの調子なら逃げ切れる。屋敷の入口から追いかけてきたならば、裏口から出てしまえばそのまま振り払えるはずだ……。


 その時。


 ぐしゃ!


 イアの手が止まり、それに引っ張られるように僕も走りを止める。後ろを見やるとイアが廊下の木の板を踏み抜いてしまったようだった。来た時は静かに歩いていたために気づかなかったが、古い木の板が腐っていたらしい。体を引っ張り上げみてもイアが呻くばかりで抜け出せない。足がはまっただけでなく、木の板が刺さってしまっているらしかった。

 甲高く響く警鐘が近い。

「私……どうしよう……捕まっちゃうの……?」

 震えるイアの口から言葉の断片が漏れる。

イアの青い目も震えていた。少し涙ぐんでいたのかもしれない。僕は状況も忘れてその目に見入ってしまった。


 ――僕の頭は静かに冷静に、冷酷に働いていた。昔も似たような状況があった。二人で逃げて、危機に陥って。その時、僕はどうしたっけ?


 はまってしまった足を引っ張り上げることは不可能だ。よしんば引っ張り上げたとしてもその足では走ることはできないだろう。追手は近くもう余裕はない。それならば。


 ――あの子は自分を犠牲にして僕を助けてくれた。それで僕は助かったのだ。今回もそうするしかない。彼女ならきっと、そう助言してくれただろう。


 僕は繋いでいた手を離した。固く握っていたはずの手はあっさりと離れた。息を呑む音がした。

 一歩、二歩と歩を進める。みしみしとなる廊下の音が僕を現実から引き離していく……。


「行かないで……!」

 振り向くとイアが精いっぱい手を伸ばしていた。村の命運を背負った悲哀女だなんて微塵も感じさせない、年相応の少女の表情。涙を浮かべて、とても澄んだ青い目を見開いて。人間らしい目。

僕は我に返った。イアは彼女じゃない!


「お願い……」

 もう一度、助けようと手を伸ばした瞬間、視界の先、曲がり角から二人のいかつい男が現れた。もう助け出す時間はなかった。

どうする? 戦うか? しかし大の男二人を相手に勝算なんてものはない。しかもこの二人を何とかした後に手負いのイアを庇いながら逃げなくてはならないのだ。

 では、降参して事情を正直に話すか? イアの母親のように村の大人たちももしかしたら理解があるのかもしれない……。

 と、脳裏に村長さんの顔が過ぎる。最後に話をしたとき、村長さんの目は笑っていなかった。タブ村に僕がいることを僕の家族は誰も知らない。守ってもらえない。


 ついに恐怖が勝ってしまった。僕はイアを置いて、一目散に走り出す。

 廊下を駆け抜け、塀を遮二無二登り、真っ暗闇を土まみれになりながら村の外へ。村を囲んでいる森を抜け、見覚えのある場所まで出てやっと立ち止まる。

 肩で息をしながら傍に流れる川から水をすくって飲んだ。



 今ごろイアはどうしているだろうか? やはり、罰せられるのだろうか。

 僕はイアを連れ出そうと、良いことをしようとしてあげたつもりだった。けれど実際にしたことはルールを破る助長をした上に見捨てた。


 森を強引に抜けてきたおかげで体は生傷だらけだった。バックパックは置いてきてしまって非常食として持ってきたポケットの焼き菓子も一つもない。一度家に帰るほかないようだ。

 焼き菓子を入れてきたのともう片方のポケットを探る。手の先に冷たい感触を二つ感じて安心した。


 取り出して月明かりにかざすと、青い綺麗な宝石が煌びやかに輝いた。まるで「大丈夫ですよ」と慰めてくれているようだった。


拙著『アイオライト』(http://ncode.syosetu.com/novelview/infotop/ncode/n7242bn/)の続編になります。

『アイオライト』を読んでいないと全く分からない、というわけではありませんが、『アイオライト』はあまり長くない作品なので是非読んでみてください。



せっかく考えたので名前の由来をまとめときました。

読み終わって興味ある人は見てみてください。

→http://tarekune.blog105.fc2.com/blog-entry-731.html

(外部の僕のブログです)

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