#2 脱出!
主人は死んでいた。後頭部をあの時計で何度も殴られたのか、俯せに倒れた頭の周りに血が広がり周囲にも飛び散っている。
俺は近付き、時計に鼻を寄せた。
血の臭いに紛れ判り難かったが、微かに誰か違う人間のニオイが混じっている。この男が、ここにある物を別の者に触らせるようなタイプではないことは脳に刻まれる程理解している。こいつが殺された可能性は、かなり高い。
†
突如、悲鳴が響き渡る。
振り向くと、ここで働く人間の女が震えながら立っている。俺が殺した、と思い込んでいるのはその様子を見れば間違えようがない。
自分は何もしていない、と言いかけ俺は言葉を止めた。かなり恐怖に怯えたこの女に何か話したところで、信じるとは到底思えない。釈明など、最早無意味。それより、この状況では――どんな都合の良い解釈をされ、その濡れ衣を着せられるのか? いまの自分にとっては、そちらの方が遥かに気掛かりだった。
「誰か! 早く来て! 獣人が……奴隷の獣人がご主人さまをッ!」
女は大声で叫びながら、部屋の外へ出て行った。
予想以上に早く、懸念は解消されてしまった。それも、その流れは俺にとって非常に不味い方向へと続いている。
どうする? これでは、このまま大人しく捕らえられたとしても――どうせ処分の名目で消されるだけだ。もしかすると、即座に息の根を止められてしまうかもしれない。斯くなる上は……。
俺は窓へ目を遣る。
雲間に隠れた太陽が沈もうとしていた。素早く駆け寄り、地面を眺める。ここが何階かは判らないが、飛び降りられない高さではない。だが、もし着地に失敗すれば――恐らく、もっとひどい怪我をすることになるだろう。その前に死ぬかもしれないが。
しかし、もしここへ誰か人間が駆け付ければ……どちらにせよ殺される。決断する時は、いましかない!
俺は窓とは逆の、部屋の隅へ走った。一度主人の死体を見、目を閉じると呼吸を整え身体を低く構える。
立てた耳へ、走ってくる人間たちの足音と喚き声が入ってきたのと同時に――俺は目を開け、窓へ向かって一気に走る。手前でジャンプし、右肩から突っ込む。割れたガラス、壊れた枠と共に俺は下へ落ちてゆく。次の瞬間、枝の折れる音がして葉に包まれ背中に衝撃と痛みを感じた。どうやら、さっき下を確認した時には見えなかったが木が窓の外にあったようだ。しばらく緑の空間で泳いだ後、底が抜けるように再び下へ落ちたが……もうそこは地面で、俺は土の上へ無様に着地する。全身葉っぱだらけ、泥だらけになったが何とか脱出することができたらしい。
出口はどっちだ?
俺は庭の隅々に視線を飛ばす。そうこうしている内に、建物の中や庭の一方から人間たちが現れる気配がする。空と一緒に、周囲も暗くなり始めてきた。尤も、自分にはこの方が見易いのだが。
取り敢えず、俺は気配の少ない側へ走った。しかし正面から数人、人間が駆けてくる音が聞こえたので急いで進む方角を変える。至る所にある庭の植物や人工的な壁を使い、追って来る人間たちを撒いてゆく。ある程度、静かになったところで陰に隠れたまま邸の様子を確認してみた。ランプや何等かの武器を手にしている人間たちが、大きな声で俺を捜しているのが分かる。ここも安心はできない……。
俺は立ち上がると、そっと足音を立てないように動き出す。
†
まったく何て、広い敷地だ!
走っても走っても、あの主人の庭は続いていた。幸い人間に遭遇することはなかったが、もう息が切れ喉も酷く渇いている。足も棒のようだ。それどころか、いまになってあの窓に飛び込んだ際に負った傷が痛み出してきた。必死に逃げ続けたせいで気付かなかったが、出血も少なくない。ガラスに因るものか、それとも木の枝で?
いや、いまはそんなことを調べている場合じゃない。
俺は一層ボロボロになった服を破き、それを肩や腕などへ巻き止血を図る。あまり効果はないかもしれないが、何もしないよりはマシだろう。
粗方、応急処置を終えたところで俺は蹌踉めきながら立ち上がる。
結局、服の上半身を殆ど使ってしまい――いま着ているのは腰から膝の辺りを覆っているボロ布のようなもの一枚だけだが、毛皮があるため寒さは感じない。それより気になるのは、ここが何処なのかということの方だ。
周囲を見回すと、俺のいる位置から右側に展望台のような場所がある。近付いて確かめてみると、まるで崖からバルコニーが突き出たような形になっている。何で、こんなものが絶壁に造られているんだ? 何かをここから見るため、だろうか。人間の、それも金持ちが考えることは解らねぇ。
落ちやしないか、という不安はあったが一応そこから何が見えるかを探ってみる。
もうすっかり夜となり、遠くの景色も下に広がる風景もあまり見えない。だが耳を澄ましても波音が聞こえていない点を考えれば、この下は海というわけではなさそうだ。手摺を握り、もっとよく底を覗いてみようとした――その時だった。
左肩に鈍器がぶつかったような衝撃があり、危うく転落しかけた。何とか姿勢を戻した直後、鋭い痛みが襲い掛かり俺は吠えるような叫び声を上げる。振り返りざま、意識が一瞬途切れ……すぐさま己を取り戻した時には、もう膝を突いていて俺の意思とは関係なく前のめりに倒れてゆく。
衝撃のあまり、俯せに倒れたまま身動きができない。
辛うじて、頭を僅かに動かし目を左肩へ向ける。視界が翳んでぼやけてはいたが、そこにはボウガンの矢らしき短い棒が突き刺さっていた。近くに誰かいた気配は感じなかったのに、どうして……!
「後ろは断崖絶壁、正に袋の鼠ですね? おっと失礼、犬の間違いでしょうか」
放たれた矢のような声が、不意に俺の耳へ飛び込んできた。