Reliever
小さい街の夜は真っ暗だった。
どの家も静かな眠りにつき、辺りには街の中心を流れる川の音が優しく街を包んでいた。
その川に架かる石畳のアーチ橋に青年と少女がいた。
青年は橋の欄干に座り、少女は欄干に手を掛け、寄りかかるようにして立っていた。
青年が手の平を開くと、そこから淡い光を放つ球体が現れた。
「ジャック。たったひとつの魂に何時間かけているわけ?」
「煩いぞ。アリス」
「こんな小さい街。大きな街へ行けば仕事だってたくさんある。あたし、暇すぎておかしくなりそう」
ジャックは声を上げて笑った。
アリスは更に文句を言おうと顔を上げた。
「ねぇ、ジャック。人がいる」
「珍しいな。こんな時間に」
ジャックはアリスの視線の先に目を向けた。
長い茶髪の少女が、この橋を渡ろうとしていた。
「こっちを見ている。もしかして、あたしたちのこと見えている?」
「まさか。俺たちが人間に見えるわけがないさ」
ジャックは気にせずに川へと視線を戻した。
「あなたのそれ、とても綺麗ね」
「俺が見えるのか?」
「変なことを聞く人ね。そこにいるじゃない」
おかしそうに高い声で笑う少女にジャックは驚きを隠せなかった。
少女はジャックの方へゆっくりと歩み寄る。
アリスはそれを拒むようにジャックの前に立った。
金の緩くウェーブのかかった髪の先が黒く変色し始める。
「アリス。大丈夫だ。さがれ」
アリスはジャックの後ろに隠れた。
髪の色も元の綺麗な金髪に戻った。
夜の暗闇のせいか、少女には気がつかれなかったようだ。
「なんだ? 眠れないのか?」
「そんなところ。夜の街って不思議ね。恐いけど、安心する」
「おかしなことを言うんだな」
「あなたたちはここで何をしているの?」
「お前と同じだよ」
少女はジャックの手を見た。
そこにはもう魂はなくなっていた。
「さっきのあれはなに?」
「さっきのあれとはなんだ?」
少女は不思議そうにジャックの顔を見た。
「確かに見たわ。光っていた」
「あんたね。誰だか知らないけど、ジャックに気安く話しかけないで」
ジャックの背後に隠れていたアリスが、少女を威嚇する。
「まぁ。可愛らしい子。あなたの妹?」
「そんなところだ」
「あなたは私に、何も教えてくれないのね」
ジャックはにっこりと微笑んだ。
少女は諦めたように息を吐いた。
「名前は教えてくれる? 私はベアトリスよ」
「俺はジャック。この子はアリス」
「ジャック。こんな子に名前を教えちゃだめだよ」
ジャックは怒りを露わにするアリスを見て笑った。
ベアトリスはアリスを気にすることなくジャックに話しかける。
「明日も来る?」
「さぁな」
「明日も来てね。私も来るから」
アリスはベアトリスの言葉に不意を突かれた。
しばらくしてから、去っていくベアトリスに向かって叫ぶ。
「もう来るなー!」
息を切らすほどの大きな声で叫んだアリスをジャックは笑った。
「笑い事じゃないよ」
「人間と話すなんて初めてだ。楽しかったよ」
アリスは更に怒りを募らせる。
そして、ふわりと宙に浮かぶとカラスの姿になった。
黒い嘴でジャックのぼさぼさした黒髪を突っついた。
「痛いよ。アリス」
「あんたはもっと死神だという自覚を持ちなさいよね」
「分かった。分かったから。元に戻れよ」
アリスは人間の姿に変化した。
「あたしの本当の姿はカラスだよ。あんたがあたしを使い魔にして人間の姿を与えたんじゃない。そんなことも忘れたの?」
「お前が人の頭を突っつくからだよ」
「人のせいにするな!」
怒りのあまり顔を真っ赤にさせるアリスにジャックは笑いながら謝った。
「さて、仕事でもするかな」
手の平に魂を出現させる。
「安らかに……」
ジャックは魂を天に向けて軽く押し上げた。
魂は天に向かってふわふわと上がっていき、少しずつ消えて行った。
「ひとつの魂を天界へ送るだけでこれだけの時間がかかるんじゃ、大きな街に戻るのはだいぶ先だね。嫌になっちゃう」
アリスはむくれた顔で言った。
ジャックはアリスの頭を撫でる。
「もうしばらく付き合ってくれよ。アリス」
アリスはため息を吐いた。
そして、心地よさそうに瞳を細めた。
それから、ジャックとベアトリスは夜の橋で会う日々を繰り返した。
相変わらずベアトリスが質問をし、ジャックはその質問を軽く受け流す。
アリスは怒ったりむくれたりと忙しかった。
あるとき、アリスが聞いた。
「どうしてこの橋に来るの? 来なければあの子もその内に来なくなるのに」
「俺はこの橋が気に入っているんだよ」
その答えにアリスは呆れた。
「あんたがそれでいいなら、あたしはいいけど」
ある暖かな昼頃。
ジャックは屋根の上で昼寝をしていた。
その傍らには寄り添うようにして眠る、カラスの姿をしたアリスもいる。
「何の用だ?」
「よう。相変わらず鋭いやつだな」
横になっているジャックのすぐ傍に金髪の背の高い青年が現れた。
ジャックは体を起して座った。
「ベンジャミンが来るってことはなにかあったんだろ?」
「なんだ。やっぱり知らないのか」
ベンジャミンはジャックの横に腰かける。
「南の街で堕天使だと。天使どもがうじゃうじゃとこちらに流れてきている」
「それでやけに天使がうろついているのか」
ジャックはまたその場に寝転んだ。
「おい。それだけか? つまらないやつだな」
「そいつが堕天した理由は?」
「人間の男を殺したらしい。確かアダレードのバッガスってやつだ」
「……へぇ」
ベンジャミンはジャックの方へ身を乗り出す。
青い瞳が輝いていた。
「捕まえれば昇格もんだぜ。お前も大きな街に戻れるかもしれねぇ」
「残念だが、この街にはいないぞ。小さい街だ。よそ者が居ればすぐに分かる」
「そんなことは分かっている。恐らくもっと北へ逃げているんだ。小さい街だから2、3日いなくても問題ないだろ」
ジャックは目の前の家を指差した。
「あの家のじいさんがそろそろだ。俺は行かない。お前だけ行けばいい」
ベンジャミンは癖のある金髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
「ジャック。どうしたんだ? 最近、様子がおかしいぞ。前の街からここに移ってからだ。なにかあったのか?」
「別に。この街が気に入っているんだよ」
ベンジャミンは立ち上がり、ジャックを見下ろす。
「そうかよ。俺は行くからな。いいんだな?」
ジャックは寝返りを打ってベンジャミンに背を向けた。
そして、早く行けと言わんばかりに手を振った。
ジャックの様子に苛立ったベンジャミンは、舌打ちをしてその場から消えた。
「あんたは本当に変わった」
「アリス。起きていたのか」
アリスは人間の姿に変化した。
そして、ジャックの傍らに座り、ボサボサな黒髪を撫でた。
「あの街、アダレードを離れてからだ。あのことをまだ気にしているの?」
アリスに背を向けているジャックは何も答えなかった。
その日の夜もジャックは橋へ来ていた。
いつものように欄干に座り、ベアトリスを待っていた。
「アリスは来ていないの?」
ジャックは振り返り、橋の欄干から降りてベアトリスの前に立った。
ベアトリスは驚いたがすぐに笑顔に戻る。
「今日は置いてきたよ。あんたとちゃんと話したかったから」
その言葉にベアトリスの顔から笑顔が消えた。
「どうしていつもあんたが夜にしか現れないのか、ようやく分かったよ」
ベアトリスは何も答えずに一歩後退りをした。
「あんたは堕天使だろ?」
ベアトリスはジャックを睨みつけたが、ジャックの黒い瞳を見て観念したように息を吐いた。
「どうして分かったの?」
「その前に、どうしてあんたが堕天したのか聞こう」
「……私はアダレードにいたの。そこで女の子に出会った」
女の子に出会ったのは半年前だった。
「お姉ちゃんには羽があるのね」
その言葉に私は息を飲んだ。
「私が見えるの?」
「うん。あなたは天使様ね。初めて見たわ。本当にいたんだ」
そう嬉しそうに笑った女の子は、キャロルという名前だった。十二歳の女の子だった。
私とキャロルはすぐに仲良くなった。
キャロルは暑い南の街なのにいつも長袖を着ていた。
そのことを私は不思議に思いながらもキャロルに聞くことはなかった。
キャロルの腕のあざに気がつくまでは。
「キャロル。そのあざはどうしたの?」
「……ぶつけたの。大丈夫。すぐに治るよ」
笑顔で答えたキャロルに違和感を覚え、私はキャロルの家まで行ってみた。
キャロルは幼い頃に母親を亡くし、一年前まで母親の両親の家で暮らしていた。
そして、私と出会う少し前に父親と暮らし始めたと言っていた。
そんなことを思い出しながら家の窓から部屋の中を覗くと、そこにはあの男がいた。
気絶しているキャロルに目もくれず殴るあの男を見て、私は怒りに我を忘れた。
気がついたらあの男は、血を流して死んでいた。
「そういうことか」
ベアトリスは羽を広げた。
白い羽に斑点のように黒い羽が混じっている。
「羽は毎日少しずつ黒くなっていく。私はこのまま悪魔になるの」
「俺の傍にいたのはお前の気配を隠すためだな。天使に見つからないように」
ベアトリスは茶色い瞳を閉じて頷いた。
「ベアトリス。天使と悪魔の違いは分かるか?」
「悪魔は『天使の成れの果て』」
「そうだ。では、天使と死神の違いは?」
「救う対象が『生者』か『死者』か」
「それもあるが、正解は『自分が何者であるかを知っているか』だ」
ベアトリスはどういうことか分からず、ジャックの言葉の続きを待つ。
「死神は生前の自分を知っている。俺の名が『ジャック・アッカーソン』というように」
「そうか。私たちにはファミリーネームがない。生前の記憶は封印されている」
ジャックは頷く。
そして、少し躊躇うようにして続きを話し出した。
「お前を救う方法がひとつだけある」
「なに? 教えて」
「ベアトリス。『お前が何者であるか』を知ればいい」
「そうしたら、私は救われる? 悪魔にならなくていいの?」
ベアトリスはジャックに縋りついた。
そんなベアトリスにジャックは憐みの瞳を向けた。
「ああ。だが、それがお前の『救い』になるかは分からない。生前の記憶の全てが蘇る」
「それでもいい。悪魔にはなりたくないの」
ベアトリスの瞳から涙が溢れた。
ジャックはベアトリスの肩にそっと手を掛けた。
「天使は生前の記憶を持たないが無意識にあるその街、そこの人たちへの愛着が天使の『救いたい』という想いに繋がる。
だから、天使は生前の思い出深い街へ派遣される。お前はアダレードの出身だ」
ジャックの服を掴むベアトリスの手から力が抜けた。
そして、茶色の瞳が虚ろにジャックを映す。
「お前が助けた『キャロル』という娘は、お前の娘だ。お前は『ベアトリス・オーブリー』だ」
ベアトリスの羽が弾けるように辺りを舞った。
そして、ジャックの服から手を離し、ふらつく足で数歩後退りをした。
「……そうだ。全てを思い出した」
ベアトリスの虚ろだった瞳に光が戻った。
しっかりとジャックを見つめて問う。
「どうしてあなたは私のことを知っていたの?」
「お前の魂を天界へ送ったのはこの俺だ」
ベアトリスは茶色い瞳を丸くして驚いた。
「今でも忘れない。あのときの魂の叫びを」
ジャックは黒い瞳を閉じる。
『あの子を一人には出来ない。あんな人には任せられない。お願い。まだあの子から私を離さないで』
それは悲痛な叫びだった。
「それでもあのときの俺は、魂を天界へ送ることが『救い』だと思っていた」
ジャックはうつむきがちに続ける。
「だが、あれからお前の声が頭から離れない。そして、俺は自分に問うようになった。『魂を天界へ送ることだけが、全てなのか』と」
ベアトリスはそっとジャックの手を取った。
「いいえ。あなたは間違えていなかった。魂が天界へ行かずにこの世を漂えば、いずれは悪魔に捕食されてしまう。……私は二度もあなたに救われたのね」
ジャックは苦笑した。
「それはどうかな。ベアトリス。お前は死神になったんだ。これからは……」
「それでもいい。あの子を……、キャロルを助けることが出来たの。それで、もう満足だわ」
微笑んだベアトリスに自然とジャックも笑顔を向けた。
その笑顔を見てベアトリスは瞳に湛えた涙を溢した。
「俺もなんだか救われた気分だ。さて、行こうか」
「どこへ?」
ベアトリスが不思議そうに問うと、ジャックは今までで一番の笑顔をベアトリスへ向けた。
「俺たちの『世界』にだ。こい。アリス」
遠くからカラスの姿をしたアリスが飛んできた。
そして、ジャックの目の前まで来ると人間の姿に変化する。
その表情は驚きと怒りが入り混じるものだった。
地面に降り立った勢いのままジャックに詰め寄る。
「な、なんでこの子とジャックが一緒に居るのよ!」
ベアトリスを睨んだアリスの頭をジャックが撫でる。
「こいつは『ベアトリス・オーブリー』。俺たちの仲間だ」
「ちょっと、ちょっと。どういうこと? なんでこの子が死神になっているのよ」
「話しながら行こう。時間はたっぷりあるんだ」
ジャックはアリスに笑顔を向ける。
久しぶりに見た影のない笑みにアリスは驚き、嬉しそうにジャックに抱きついた。
そして、カラスの姿になり、ジャックの頭を突っつく。
「なんだよ、アリス。やめろよ」
「やめないわよ。……あんたの傍を離れる気なんてないんだからね」
「なにを言っているんだよ」
「どこまでだって付き合ってあげるって言っているのよ」
ジャックはアリスに手を伸ばす。
「来いよ。どこまでだって連れて行ってやるさ」
アリスは人間の姿になり、ジャックの手を取った。
朝日が静かに昇る。
三人の姿は朝日に消えた。
これからも魂を救うために。