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別れの曲を君に
作者:水樹ゆう
 二月――。
 春の訪れはまだ遠く、落ち始めた夕日の空が、夜のとばりにいだかれるのは驚くほど早い。
 凍えるような空気が肌を刺し、過ぎ行く今日を惜しむかのような太陽の残照が、闇に呑み込まれようとしている人気の無い校舎を朱に染め上げる、そんな中。
 コツコツコツ。
 コツコツコツン――。
 灯りの落ちた暗い校舎の二階の廊下に、頼りなげな足音が響き渡った。
 コートを着ていても尚背筋を這い上がってくる冷気に、足音の主、あやは身を震わせて足を止めた。
「ああ、もうこんな時間っ……。うわぁ、外、真っ暗じゃない」
 チラリと腕時計を確認した後、窓の外にすがめた視線を巡らせる。
 広がる空は、明るい青から群青へ、紺碧へ、やがては漆黒へと変化を遂げていく。その全てを、狂ったように彩る黄昏の朱。
 闇に浸食される間際の夕暮れの空は、刹那的でとても美しい。だがそれは、何処か禍々しく綾の目には映った。
「……綺麗だけど、ちょっと、苦手な色だなぁ」
 なんだか綺麗すぎて、怖い。
 綾は、ため息混じりの呟きを漏らすと、己の内に巣くう恐怖を振り払うように、学生鞄をギュッと胸に抱え込んだ。
 人ならざる『魔』と人間とが、相いまみえるそんな時刻。闇に蠢く異界のモノたちが、こちらへおいでと、生者を手招く。
『逢う魔が時』
 ――こういう、昼と夜の狭間の時間帯を、昔の人はそう呼び恐れたのだという。
「ううっ……、変なこと思い出しちゃった」
 アイツの影響だ。ホラーが大好きな、親友の美智みち
 怖いモノは大の苦手なのに、知らず知らずのうちに、美智から色々な情報がインプットされてしまう。そして、一人になった時に思い出して、怖くなるのだ。
 ぶるる。
 再び、身を震わせると、綾はそそくさと歩き出した。


 いつもなら二人一組でやる図書委員の貸し出し当番が、もう一人が病欠で、今日は一人でやる羽目になってしまった。そんな時に限って、整理する本が多かったり、いつもは手伝ってくれる友達に用事があったりするのだ。
「美智め、薄情なやつだ。女の友情より、男を取るなんて……」
 思わず、愚痴が口を突いて出る。
 いつもなら美智が、『どうせ一緒に帰るんだから』と、図書当番を手伝ってくれていた。でも、今日は違ったのだ。
「ゴメンっ綾っ! 今日は、先帰るねっ!」
 両手を合わせて、上目使いに謝る美智の表情は妙に明るかった。綾は、すぐに『ぴーん』と来た。
「……男だな?」
「えへっ」
 綾のジト目に、美智はペロリと舌を出す。目にはハートが飛んでいて、綾は思わず苦笑してしまう。
「やっぱりね」
 わざとらしく眉をしかめた綾は、声をワントーン落として美智の肩を引き寄せた。
「それで、相手はやっぱり、二年の坂崎先輩なわけ?」
 綾は更に声のトーンを落として、サッカー部キャプテンの名前を囁く。その名を聞いた途端、美智のラブラブオーラは全開になり、周囲をはばかって声をひそめた綾の気遣いは無用のものだったようで、とうの本人は気にする風もなくはしゃいでいる。
「そうなのよ〜。今日は練習が無いから、一緒に帰ろうって誘われちゃってさぁ。なんだか、嘘みたい? って本当なんだなこれが!」
「本当に? すごいじゃないっ!」
 素直な感想が、綾の口からこぼれ落ちる。
 かの先輩は、爽やかスポーツマンタイプ。サッカーなんて花形部のキャプテンなこともあって、女子にも人気があるし、競争率も半端なく劇高だ。そのハートを射止めたのなら、これはかなり凄いことなのだ。
 興味もないサッカーの応援に付き合わされたり、先輩の誕生日プレゼントを選ぶのを、延々と付き合わされたりした甲斐があるというもの。ウキウキモードの美智に触発されて、綾も何だか嬉しくなる。
 恋のエネルギーというのは、恋する本人も、その周りの人間も元気にする力があるようだ。
「ほんと、今日はごめんねっ。今度おごるからさ」
「はいはい。せいぜい美味しいモノをおごって頂きましょう」
 頑張れ、美智!
 綾は、ウキウキスキップを踏みそうな勢いで帰っていく美智に、ガッツ・ポーズと共に、心からのエールを贈った。
 でもその一方で、『今日は一人で帰るのか……』と、ちょっと淋しさが胸を過ぎったのも確かだ。


「あーあ。今頃美智は、何してるのかなー」
 ――そりゃぁ、親友の恋が実るのは嬉しい。応援しちゃう。でも、それとこれとは別問題よ。私、お化けって信じてるし、怖いし、こういうシチュエーションって、いかにも何かが出そうで、一番嫌いなんだからっ。
 綾は、心でひたすら愚痴る。そうしていれば、少しは恐怖が薄らぐような気がした。
「こう言う時に限って、良平は、いないんだからぁ」
 ん、もうっ! と頬を膨らます。
 幼なじみで、ご近所さん。
 同じクラスの矢部良平とは、友達以上恋人未満の微妙な、それでいて心地良い関係だった。
『気が置けない男友達』
 それが、一番当たっているかも知れない。
 いつもならこんな時頼りにするのだが、今日は『ピアノの日』で、やはり定時で早々と帰ってしまっていた。
 スラリとした長身で、一見スポーツマン。実際に運動もそこそここなすくせに、ピアノの腕前も、「何とかコンクール」で入賞するくらい凄いと言う、変なヤツなのだ。
 実は、良平にも話したい事があったのだが、これも空振りに終わってしまった。
「はぁ……。今日は厄日よ、きっと」
 綾は、我知らず早足になる。こんな日はさっさと家に帰って、ゆっくりとお風呂にでも入るに限る。
 校舎の東。突き当たりの階段を下りれば、すぐ昇降口だ。
「あれ?」
 階段まであと八メートルと言う所で、ふと、綾の足が止まった。
 今、何か聞こえたような気がしたのだ。
 ぽろん。
 ぽろん、ぽろん。
 ぽろん――。
「ピアノの、音……?」
 それは、廊下の突き当たりの音楽室から聞こえた。
 ぽろん。ぽろん。ぽろん――。
 空耳では、ない。
 確かにピアノの音だ。
 ごくりと、つばを飲み込む。
 誰かが居残ってピアノの練習をしているにしては、奇妙だ。
 もう既に校舎の中は、かなり暗くなっている。なのに、音楽室は真っ暗のままだ。誰が弾いているにしても、電気を付けないで居る理由が分からない――。
 美智から教えられた『学校の七不思議』の一つ。『夜更けに、一人で鳴り出すグランドピアの怪』のことが、脳裏に浮かんでは消える。
「ま、まさか、マジに学校の怪談……とかじゃないわよね」
 や、やめてよね〜〜!!
 綾は、縁起でもない想像を否定するように、ブルブルと頭を振った。


 薄闇に目を凝らしてみると、音楽室の引き戸が、半分開いているのが見えた。
 綾の位置からほんの七、八メートルで階段がある。でも音楽室の前を横切らねば、階段にはたどり着かない。このまま突っ切るか、それとも反対の西階段まで行くか迷っていると、つま弾き程度だったピアノの音が突如、綺麗なメロディを奏で出した。
「あれ? この曲……」
 聞き覚えのある曲だった。
 良平が、好きだと言って良く弾いて聞かせてくれる、確か――ショパンの『別れの曲』
 美しい、切ないメロディが、夜のとばりに包まれた校舎に響き渡る。
 綾は、ふらふらと、何かに引かれるように音楽室へと入って行く。
 暗い音楽室。
 窓際に置かれている、黒いグランドピアノ。その前に、男が座っていた。ピアノを弾いているのは、彼だ。たぶん、高校生じゃない、もっと大人の男性――。
 月の淡い光に照らし出されて微かに浮かび上がるシルエット。なめらかに踊るように鍵盤の上を滑って行く、繊細で長い指。
 ああ、良平の指に似ているなぁ。
 とても、綺麗。
 部屋の入り口に佇む綾の気配に気付いたのだろうか、男が、ふっと顔を上げた。
 重なる視線――。
 驚きに見開かれる、男の黒い瞳。
 男の手が止まり、ぴたりと、ピアノの音が止む。
「き……みは?」
 男の発した声を聞いて、綾は驚いた。
 やだ、声まで良平に似てる――。
 少し低めの、ハスキーボイス。
 もっと低くて深みのある声だけど、良平が大人になったら、こんな声になるのかも知れない。
「あ、邪魔してしまって、ごめんなさいっ!」
 綾は、ピアノの演奏を中断させてしまったことに微かな罪悪感を覚えて、思わずぺこりと頭を下げた。
「……いや、良いんだよ」
 答える男の声が、微妙に揺れる。感情を無理に抑えているような、そんな声音だ。
「あの、電気、付けましょうか?」
 これでは、真っ暗で譜面も見えないだろう。綾が努めて明るく声を掛けると、男は『否』と、ゆっくり頭を振った。
「……このままにしておいて貰えるかい?」
 穏やかな声は、やはり揺れている。
「あ、はい」
 音楽室に沈黙が落ちた。
 静かな、痛いほどの時の流れ。それは、決して不快ではないが、なんだか居たたまれない。
「あの、私はもう、帰らないと……」
 黄昏の空は、もうすっかり夜の闇に飲み込まれてしまっていた。煌々とした満月だけが、目に見える全てのものに淡い光を投げかけている。いくら何でももう帰らないと、家で心配するだろう。
「それじゃぁ、お邪魔しました」
『さようなら』と小さく呟いて綾が部屋を出て行こうとすると、男が声を掛けて来た。
「ずいぶん遅くなったようだけど、どうしたんだい?」
 やはり、無理に感情を抑えているような、揺れる声音。
 何だろう。
 この人、泣きそうなんじゃないかな?
 悲しいことでもあったのかな?
 そんな気がした。
「あ、今日は図書委員の貸し出し当番で……。いつもは友達が手伝ってくれるんですけど、今日は用事があって、先に帰ってしまって……」
「……そうだったの」
 しどろもどろになりながらの綾の説明に、答える男の声には、微かに笑いの微粒子が含まれている。
 なんだかよく分からないが、自分の言葉がこの男性ひとの気持ちをを少しでも上向きにしたのなら、ちょっと嬉しい。そう感じる一方、綾の心にふと疑問がわいた。
 ――この人は、いったい誰なんだろう?
「あの……新しく来た先生ですか?」
 綾は唯一思いついた、男性の素性を口にしてみた。
「ええ。そんな所です……」
 ああ、やっぱり。
 綾は、納得した。
 どう見ても生徒には見えないし、教職員の中にも見覚えはなかった。残る選択肢は、新任の教師くらいだ。きっと、産休か病欠の先生の代わりにでも呼ばれた、臨時の教師なのだろう。
「音楽の先生……なんですか?」
「はい。他に能がなくて」
 男が、静かに笑った。
 少し、自嘲気味に。
 そして、悲しげに――。


 音楽というと、榊先生の変わりかな?
 確か、持病の胃潰瘍がどうとか言っていた気がする。
 榊先生には気の毒だけど、どうせ教わるならおじいちゃん先生より、若いこの先生の方が嬉しい。
 明日早速、美智に教えてあげなくっちゃ。
 この高校、若い男の先生率がもの凄く低いから、女子の間では結構不評だ。
 若くて、良い声で、顔は見えないけどピアノが上手な音楽の先生。きっとモテるに違いない。
「今の曲、ショパンの『別れの曲』ですよね?」
「そう。別れの曲。……良く分かるね。好きかい?」
 男の言葉に、綾はコクンと頷いた。
「はい。ちょっと切ない、優しい曲ですよね」
「今日は素敵な観客さんが出来たから、ちょっと真面目に弾いてみようかな。一曲、付き合って貰えるかな?」
 男が、首を傾げて問う。その声音はとても穏やかで、綾の耳に心地よく響いた。
 ――もう少しなら、まぁ、良いか。この先生のピアノも、聞いてみたいし。
「はい。一曲ですね。良いですよ」
 窓の外から差し込む淡い月の光を浴びながら、綾は、鞄を胸に抱えたまま、ピアノに近い席にちょこんと座った。
「それでは、君の好きな『別れの曲』を――」


 それは、まるで洪水の様な、音の奔流。
 何度も何度も繰り返される、切なく優しいリフレインに、心の奥が震える。
 ピアノの音と共に、ざわめき出す、心の奥の『何か』。
 ぽろり、ぽろりと、綾の頬を、涙の滴が伝いこぼれ落ちていく。
「あれ……なんで?」
 止めどなく溢れ出す涙に、綾は驚いた。
 悲しい訳じゃない。なのに、後から、後から溢れ出す涙。
 この、込み上げる想いは、何?
 何故、こんなに切ないの?
 何故、こんなに、恋しいの?
『恋しい?』
 綾の脳裏に、何故か良平の顔が浮かんだ。
「綾……」
 良平の声が綾の耳に届く。
 違う。
 良平じゃない。
 ピアノを弾きながら、語り掛けているは『先生』だ。
「綾、やっと君に会えたよ――」
 再び自分の名前を呼ばれて、綾は少なからず驚いた。
 どうして、この人は、私の名前を知っているのだろう?
 綾は、彼に名前を教えてはいない。それに、『やっと会えた』と、彼は言った。
 やっとって?
「君に、ずっと伝えたい事があったんだ……」
 揺れる声音――。
『先生』の瞳に光るものを見つけて、綾は、息を呑んだ。
 なぜ、泣くの?
「綾……」
 名前を呼ばれるたび、心の奥にビクリと震えが走る。
 何?
 何を、言おうとしているの?
 その言葉を聞きたいような、聞きたくないような、恐怖に似た感覚が綾を包んだ。
「綾、君が好きだよ。誰よりも、大好きだった……。なのに、守ってあげられなくて、ごめんな……」
 ピアノの旋律に乗って聞こえてくる、苦渋に満ちた絞り出すような『先生』の声を、綾は呆然と聞いていた。
 先生の頬を月明かりに照らされた涙が、きらきらと伝い落ちるのを、じっと見詰める。
 シャープな頬の輪郭。
 彫りの深い顔立ち。
 見詰める黒い瞳。
 大人びてはいる。
 でも、この人は、良平に『似ている』んじゃない。
 この人は、良平だ。
 そう思った瞬間、綾の脳裏にフラッシュバックする、強烈な記憶――。


 あの日、綾は図書当番で手間取り、一人で、夕闇に包まれた学校を出た。
 急いでいた。
 早く家に帰りたかった。
 点滅を始めた、学校前の信号機。綾は、渡ってしまおうと駆け出した。
 右折してきた大きなトラックと、視界一杯に広がる眩しいライト。
 そして、身体に突き抜けた衝撃――。
 後は、何も感じなくなった。
 ふと気が付くと、誰かのお葬式で泣き崩れる自分の両親の姿が見えた。
 涙をぼろぼろこばして、しゃくり上げている美智。
 唇を噛んで、ただ黙って涙を流している、良平。
 私は。
 私は、あの時――。


「ごめん。ごめんな、綾……」
 ピアノの音が止んで、良平の声だけが悲しく響いた。そして最後に残されたのは、シンと静まり返った音楽室に響く、低い嗚咽。
 綾は何故自分がここに来たのか、初めて理解した。
 幼い頃から少しずつ育まれてきた、一つの想い。
 心の奥の一番柔らかい場所に息づいていたこの想いを、『伝えたい』から。
 あなたに、『伝えたかった』から――。
「ありがとう、良平……」
 待っていてくれたんだね。
 ここで、ずっと私を待っていてくれたんだね。
 私。
 あなたと、一緒に居たかった。
 手を繋ぎ。
 キスをして。
 そして、いつか結ばれる。
 そんな幸せな未来を夢に見ていた。
 ちょっと照れ屋な所も、ぶっきらぼうな所も、優しい所も、ピアノを弾く綺麗な指も、全部。
「私、あなたが、大好きだったよ」
 それは、告白。
 時を超えた、決して叶うことのない、哀しい愛の告白。
「綾……」
 良平。
 泣かないで。
 泣かないで。
 綾は、肩を振るわせ涙を流す良平を、抱き締めようと腕をそっと伸ばした。
 だが、その手は良平の身体をすり抜けて、虚しく空を抱く。
 生けるモノと死せるモノ。
 違うことわりの中に住む二人は、もう触れあうことは許されない――。
「良平……」
 伝える温もりは、私にはもう無いけど。
 この声さえも、いつまで届くのか分からないけれど。
 でも、どうか泣かないで。
 私は、あなたに出会えて幸せだったのだから。
 例え、実ることのない想いでも。
 それでも、あなたに出会えて、幸せだった。
「良平」
 綾は、そっと、包み込むように良平を抱きしめる。
 良平は、その時、一瞬だけ綾の体温を感じた気がした。


 ぱちん。
 不意に、スイッチを入れる乾いた音が上がり、世界が光に包まれる。
 我に返った良平は、ハッと顔を上げた。
「あれぇ、矢部先生?」
 名を呼ばれた良平は、まぶしさに目をすがめながら、ゆっくりと声の主に視線を向ける。
「こんな真っ暗の中で、ピアノの練習ですか? いつも熱心ですねぇ」
 ドアの所に佇み、笑顔で声を掛けてきたのは、顔見知りの巡回のガードマンだ。
「……ええ、熱中しすぎて、日が暮れたのに気が付きませんでした」
 良平は、苦笑を形作って言葉を続ける。
「今日はバレンタインなので、一人で感傷に浸っていたんですよ……。もう少ししたら、帰ります」
「良いですよ、思う存分練習して下さい」
「はい。ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて、もう少しだけ」
 あの日。
 八年前のバレンタインの日。
 たった一人で、学校前の交差点で事故死した綾。
 良平にとって彼女は、誰よりも大切で、誰よりも守りたい女の子だった。
 トラックに巻き込まれ潰された鞄の中に在った、良平宛のチョコレート。
 そのカードの中に書かれていたのは、「あなたが、好きです――」
 伝えられなかった想い。
 近くに在りすぎて、無くしてみるまで気付けなかった、想い。
 もう、ピアノなんて止めてしまおうと思った。
 あの時、自分がピアノの練習に行かなければ、綾は事故に遭わなかったかも知れない。一緒に居れば、助けられたんじゃないのか。後悔の念ばかりが募った。
 でも結局、ピアノを止める事も出来ず、良平は音楽教師になり、そして、この母校に赴任が決まった。その時良平が感じたのは、思い出深いこの母校で教鞭を執れることの喜びと、それを上回る恐怖。
 ここは、良平にとって、一番最良で最悪の場所でもあったから――。
 学校に赴任してすぐに耳にした、『バレンタインの少女の霊』の話。
 二月十四日。
 毎年、この日に現れ、学校の中を彷徨い歩くという女生徒の霊。
 すぐに、綾だと直感した。
 でも、良平には霊感など皆無だった。
 だから毎年、こうして音楽室であの頃綾に良く聞かせていた『別れの曲』を弾きながら、ずっ と願っていたのだ。
 どうか、どうか自分の前に現れてくれ、と。
 そして今日、彼女は現れた。あの頃のままの、愛しい姿で――。
 良平は、静かに目を閉じる。
 綾の姿を、その瞼に焼き付けるように。
 その声を、言葉を、心に刻み付けるように。
『ありがとう、良平……。私、あなたが、大好きだったよ』
「俺も……、綾が、大好きだったよ」
 良平の呟きに答える少女は、もうここには居ない。
 君は、迷わず、天国に行けたのだろうか。
「綾、別れの曲を君に――」
 淡い月明かりの中、人気の無い音楽室から聞こえる、優しいリフレイン。
 それは、天空へと登って行く少女の魂に、確かに届いていた――。


―了―

数年前に、曲から作品を書こうと言う企画参加用に書いた初めての短編を、若干加筆しました。
ホラーテイストですが、テーマは愛です。(笑)
少しでも楽しんで頂けたなら幸いです。
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