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死と乙女
作:伊佐山詩織






 乾きたての髪が、サラサラと肌に気持ちいい。
 *
 ふと、思い出す。
 母と、祖父と祖母と。
 四人で河原の道を歩いていた。
 ポスターのような青空の下、緑の草の上、線路が通っていた。
 土手の上から父が叫んでいた。
 母が手を振って答えた。
 父の手には、お菓子が握られていた。
 私は叫んだ。
「おとうさーん、おとうさーん」
 父は大きく手を振り、私の名を呼んだ。
 幸せだった。何も欠けていなかった。
 あれはいつ頃だったのだろう。
 そしてこんな大事な幸せの記憶を、どうして今のいままで忘れていたのだろう。
 私たちはあのとき家族だった。
 何も欠けるところのない、家族だった。
 そしてなぜ、今のいま、思い出すのだろう。
 父。
 いつから父がいなくなったのか、正確にはわからない。
 わからないけれど、父が私だけの父ではないことにはなんとなく気づいていた。
 気づいていたから、聞かなかった。
 家が家でないような感じがしていた。
 だって、家には私だけの父がいない。
 *
 何かを探り当てようとする指や舌は徒労に終わるような気がした。彩花には結局、私を汚すことはできないのかもしれない。
 *
 正月。
 お餅つき。
 昔の小作の人たちが集まってくる。
 屈強な、私たちとは種類の違うような男たち。
 餅をつく。あっという間につき上がる。
 皺だらけの、これもまた私たちとは種類の違うような女たちが受け取る。
 次の回。
 父が参加する、という。
 足手まといなのは明らか。
 それでも参加する、という。
「坊ちゃんには、無理でしょう」と誰かが言う。
 屈強な一群に穏やかな笑いの輪が広がる。
 父は一緒に笑ったのか、それとも怒ったのか、わからない。
「やらせてあげてくださいな」と祖母。
 屈強な男は杵を父に渡す。
 その重さで、父はもうよろける。
「チッ」
 舌打ちする母。
 顔色を見る。
 後で荒れるぞ、と思う。
 父が家にいた最後の記憶。
 *
 もういい、やめて、と体をかわす。結局何も起こらなかった。悲しそうな彩花の目。
 *
 また思い出す。
 祖母が泣いていた。
 私は見つめていた。
「なんでもないのよ」
 なんでもなくはないと思った。
 父が消えたのに。
 *
 同じことを、こんどは私が彩花に返す。
 彩花の体がビクン、と震える。
 面白い、と思う。
 *
「お父さんは?」
「知らない」と、母。
 以上、終わり。
 もう聞かない。
 聞いてはならない。
 いつか、いなくなる人だった。
 わかっていた。
 だから、もう聞かない。
 *
 彩花の体。
 声を漏らさないように口に巻いたタオルを噛みしめ、全身を泥と化していく。
 こんなふうに汚して欲しかったのだ、私は。
 こんなふうに、情け容赦なく、徹底的に、無惨に。
 これは懲罰。
 無能な彩花に。
 *
 小学校の入学式。
 次の日。
 通学路に父が立っていた。
 泣きながら駆け寄った。
 父も泣いているようだった。
 帰ってきて。
 とは言えない。
 しゃがみ込んだ父と抱き合い、泣く。
 名前入りの鉛筆を一ダース、もらう。
「おべんきょう、しろよ」
 *
 私は今、何をしているのだろう。
 女相手に。
 こんなことを。
『おべんきょう、しろよ』
 父の声。
『おべんきょう、しろよ』
 父の声。
 彩花の激しい硬直が私の指で崩れ落ちる。
 どうして父を思いだしたんだろう。
 こんなときに。
 *
「男と女だったら」と私は言った。「あとで手とか、洗うの?」
「シャワー、浴びるんじゃない?」
「そうか」
「浴びる?」
「そうね。けっこう汗かいたからね」
 シャワーを一人づつ浴び、並んで寝た。
 もう抱き合わなかった。
 キスもしなかった。
 話も、もちろん。
 ただ純粋に気まずかった。
 夕べの睡眠不足もあって、すぐに寝入った。
(続く)












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