9
九
乾きたての髪が、サラサラと肌に気持ちいい。
*
ふと、思い出す。
母と、祖父と祖母と。
四人で河原の道を歩いていた。
ポスターのような青空の下、緑の草の上、線路が通っていた。
土手の上から父が叫んでいた。
母が手を振って答えた。
父の手には、お菓子が握られていた。
私は叫んだ。
「おとうさーん、おとうさーん」
父は大きく手を振り、私の名を呼んだ。
幸せだった。何も欠けていなかった。
あれはいつ頃だったのだろう。
そしてこんな大事な幸せの記憶を、どうして今のいままで忘れていたのだろう。
私たちはあのとき家族だった。
何も欠けるところのない、家族だった。
そしてなぜ、今のいま、思い出すのだろう。
父。
いつから父がいなくなったのか、正確にはわからない。
わからないけれど、父が私だけの父ではないことにはなんとなく気づいていた。
気づいていたから、聞かなかった。
家が家でないような感じがしていた。
だって、家には私だけの父がいない。
*
何かを探り当てようとする指や舌は徒労に終わるような気がした。彩花には結局、私を汚すことはできないのかもしれない。
*
正月。
お餅つき。
昔の小作の人たちが集まってくる。
屈強な、私たちとは種類の違うような男たち。
餅をつく。あっという間につき上がる。
皺だらけの、これもまた私たちとは種類の違うような女たちが受け取る。
次の回。
父が参加する、という。
足手まといなのは明らか。
それでも参加する、という。
「坊ちゃんには、無理でしょう」と誰かが言う。
屈強な一群に穏やかな笑いの輪が広がる。
父は一緒に笑ったのか、それとも怒ったのか、わからない。
「やらせてあげてくださいな」と祖母。
屈強な男は杵を父に渡す。
その重さで、父はもうよろける。
「チッ」
舌打ちする母。
顔色を見る。
後で荒れるぞ、と思う。
父が家にいた最後の記憶。
*
もういい、やめて、と体をかわす。結局何も起こらなかった。悲しそうな彩花の目。
*
また思い出す。
祖母が泣いていた。
私は見つめていた。
「なんでもないのよ」
なんでもなくはないと思った。
父が消えたのに。
*
同じことを、こんどは私が彩花に返す。
彩花の体がビクン、と震える。
面白い、と思う。
*
「お父さんは?」
「知らない」と、母。
以上、終わり。
もう聞かない。
聞いてはならない。
いつか、いなくなる人だった。
わかっていた。
だから、もう聞かない。
*
彩花の体。
声を漏らさないように口に巻いたタオルを噛みしめ、全身を泥と化していく。
こんなふうに汚して欲しかったのだ、私は。
こんなふうに、情け容赦なく、徹底的に、無惨に。
これは懲罰。
無能な彩花に。
*
小学校の入学式。
次の日。
通学路に父が立っていた。
泣きながら駆け寄った。
父も泣いているようだった。
帰ってきて。
とは言えない。
しゃがみ込んだ父と抱き合い、泣く。
名前入りの鉛筆を一ダース、もらう。
「おべんきょう、しろよ」
*
私は今、何をしているのだろう。
女相手に。
こんなことを。
『おべんきょう、しろよ』
父の声。
『おべんきょう、しろよ』
父の声。
彩花の激しい硬直が私の指で崩れ落ちる。
どうして父を思いだしたんだろう。
こんなときに。
*
「男と女だったら」と私は言った。「あとで手とか、洗うの?」
「シャワー、浴びるんじゃない?」
「そうか」
「浴びる?」
「そうね。けっこう汗かいたからね」
シャワーを一人づつ浴び、並んで寝た。
もう抱き合わなかった。
キスもしなかった。
話も、もちろん。
ただ純粋に気まずかった。
夕べの睡眠不足もあって、すぐに寝入った。
(続く)
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