18
一八
「何があった?」と祐二。
いちばん聞いて欲しくないこと。
あなたは黙って私を抱いていてくれればいい。
「何もないわよ」
「いいや。お前から俺を呼び出すなんて、何かあったんだ」
「あったけど、言わない」
抱いていた手が肩に置かれ、突き放される。
「いきなり何よ!」
「お前にとって、俺は、何だ?」
「何だって、何よ?」
「俺の何が欲しいんだ?」
「欲しいって、何なのその言い方は!」
私もつい激してしまう。
「欲しいんだろ! 俺の体だけが! 違うのか?」
その通り、と気づき、愕然とする。でも、
「そんないやらしい言い方はないじゃない! あなただって、そうじゃないの、私を抱きたいんでしょ!」
「違う! 違うんだ。もっと違うつながり方をしたいのに、お前はいつも突き放す」
「突き放してなんか、ないわよ」
「だったら、もっと話してくれよ、いろんなことを」
「これ以上、話すことなんか、ないよ」
「俺には、か?」
「ううん。誰にも」
「だからお前はひとりなんだ」
「何?」
「ひとりだったろう、これまで」
「友達くらい、いたわよ」
「でも、心を許したはずはない。違うか?」
「そんなこと、今は関係ないでしょう」
と言いながら、何か悲しいものがこみ上げてくる。
その通り。
ひとりだった。
誰にも心を許したことはない。
許されたこともない。
表面だけ。
仮面だけ。
突き刺されたこともない。
突き刺したこともない。
冷ややかに眺めていた。
通り過ぎただけ。
行き過ぎただけ。
彩花でさえ、遠い人になりかけている。
「今は関係ないでしょう」と私はやっと繰り返した。
「関係あるさ! これまでこんな言い合いをしたことあるか? 本気で言い合いをしたことがあったか? どこかで余裕をもって、表面をなでさすってただけだろう。違うか」
「そうよ」と言い返した。「それのどこが悪いの」
「お前にとっては悪くはないさ。ただ、お前に本気で触れた連中、みんなが傷つくって言ってるんだ。彩花は自分が傷ついてしまうタイプだけど、お前はみんなを傷つける。見て見ろ、回りを、みんな傷ついてるだろ」
「そんな言い方、しなくてもいいでしょう」
その通りだから。
もう私は負けを認めているんだから。
もう許して。
黙って抱いてよ。
「何があったんだ?」
「清一さんが、消えたのよ」
「どこに?」
「知るわけないでしょう!」
「清一さんと……」
「何もないわよ。話してて楽しかっただけ」
「あの人は……」
「危ないって言うんでしょ。わかってる。でもね、私の前ではそんなじゃなかった。何でも話せたのよ。あの人の前でなら」
「俺は」と祐二は静かに、悲しみそのもののような声で言った。「あの人の代用品か?」
「違うわよ。何を言ってるの?」
「じゃあ、なんだ」
「あなたはあなたよ」
「お前にとって、俺はなんだ」
「いったい、こういう言い合い、どれくらい繰り返したらいいの?」
「答えが出るまでだろ!」
「じゃあ……」ともう訳がわからなくなる。「じゃあ言う。あなたはただの体よ。黙って私を抱いていてくれればいいのよ。それだけよ。それ以上何も望まない。黙ってて! 何も聞かないで! 私を問いつめないで! 黙ってそのまま抱いていてくれたらいいの。そうよ。私が求めてるのはあなたの体よ。それだけよ。それだけよそれだけよ。悪い?」
「じゃあ、俺も、お前の体だけを求めていいのか。それで平気なのか?」
「平気よ。どうぞ。そのほうが気が楽だわ」
「どういうことか、わかってるのか?」
「バカにしないで。どう? これからX通りのホテルにでも行く? 私はかまわないわよ」
「そんなとこ、行ったことあるのか?」
「入ったことはない。さっき前を通ったの。二時間いくらって書いてたわ。二人合わせたら、お金、そのくらいあるでしょう。行こうよ、さあ」
「本気か?」
「本気よ。それとも出来ないの? 私だってあなたが初めてなのよ。怖いの?」
「怖いんじゃない」
「だったら、何?」
「感情的になってるんだったら……」
「感情的になれって言ったのは、誰?」
「そういう言い方はしてないだろ」
「どうだっていいわ。行くの? よすの?」
「じゃあ行こう」と祐二は力なく言った。
生理はおととい終わったから……と感情的な言い合いの裏で冷たい計算を始めている自分に気づく。
*
これほど悪趣味な部屋は、見たことがない。
ピンク、赤、緑で埋め尽くされた壁。
毒々しいくらい。
座り心地最悪の椅子。
座るな、と言わんばかり。
タバコで焦げたテーブル。
ものを置くな、といいたげに。
それに、ベッドの回りになぜこんなに鏡が多いのか。
シャワーを浴びようにも、着替えの部屋がない。
トイレでホテルのロブに着替えようとする。
トイレに鍵がない。
洗面所に着替えを置き、髪を上げ、シャワーを浴びる。
排水口に様々な色の髪の毛が溜まっている。
気分はもう、最悪。
でも、いいかもしれない。
こういう場所で汚されるのも。
そうだ、私は捨てられたのだから。
あの男に。
そう思うと何か気分が楽になった。
私は捨てられた女。
ここで少しでも汚れ、あの女の子に近くなれば、あの男がまた帰ってくるような気さえする。
ここであのつまらぬ男に汚されれば、私はあの女の子に会いに行ける。
対等に口がきける。
と、そんな気もする。
彩花が汚そうとして汚せなかった細部を丁寧に清める。
今日は汚れますように、と、おまじないのように。
*
祐二がシャワーを浴びている。
天井の鏡に写った自分の顔を眺めながら、だんだんと浮ついた気持ちになってくる。
怖い。本当に怖い。
でも、楽しみ。
何が起こるのか楽しみ。
罪悪感、恐怖、嫌悪さえ、今は、甘美。
*
祐二が照明を一つづつ消すと、真っ暗になった。
ピンをはずし、髪を下ろした。
*
抱かれ、キスされる。
暗闇の中。
すべて「……される」と言える、徹底的な受動。
体だけが、感覚だけがある。
これほど陶酔するとは思わなかった。
どこも醒めてない。
すべてが火照り、触れられるのを待っている。
汚れるどころじゃない。
触れられたところが一つづつ目覚めていく。
そう。
目覚める。
知らなかった感覚。
感じる。
思い切り声を上げる。
彩花、タオルを噛ませてかわいそうだったな。
……あなたのはただの性欲よ……
彩花はそう言った。
……あなただってそうじゃない……
今ならそう言い返すだろう。
ただ、ただ、感覚に気持ちを集中した。
祐二が終わったのに気づかなかった。
「すまん」と祐二はばつが悪そうに言った。
「何が?」
「満足できなかったろ」
「ううん。すごく満足したよ。あなたは?」
「うん」
「よかった。私だけ感じてたんじゃないかって、心配したの。ねえ、しばらく抱いてて。いいでしょ?」
満ち足りた気持ちでキスをねだった。
返ってきたのは硬いキスだった。
「私のこと、好き?」
「嫌いなら、こんなところにこない」
いつか私が言った科白だった。
それがこれほど冷たく響く言葉だったとは。
初めて気づいた。
「ごめんなさい」
「何が?」
「意地悪なことばかり言って」
「うん」
「これからも、抱いてくれる?」
返事はない。
「ねえ」
「抱くよ」
もう一度、キスを交わした。
やっぱり硬かった。
*
電気をつけると、シーツは、毎月の血とは違う鮮血にまだらに染められていた。
そっと鏡の中の自分を見た。
顔も胸も血まみれだった。
見れば、もう、全身が血まみれなのだった。
祐二もそれに気づき、血まみれの口元で笑んで見せた。
まるで地獄の鬼のように。
*
気絶しそうなほどの恐怖。
気絶さえ許されない嫌悪。
叫びながら裸のまま、すべてから逃げて走り出したかった。
あの地獄絵の亡者のように。
本当に罰が当たった。
私はノコギリで裂かれた。
裂いたのは誰と、誰?
*
「見ないで!」とシーツを引き剥がし、それを持ってバスルームへと走った。
*
私のあとでシャワーを浴び、服を着た祐二を見て、強烈な後悔が湧いてきた。
こんな男だったのか。
こんな男にすべてを任せ、血まみれになりながら感じていたのか。
そして思った。
自分は誰に抱かれているつもりだったのか?
あの男?
ちがう。
「あなたのはただの性欲よ」
愕然とした。
声も出ない。
汚れた。
血だけではなく、汚れた。
*
祐二も同じように後悔しているのかも知れなかった。
だからあれほどキスが硬かったのだ。
*
シーツを洗っていたら、二時間料金を一時間も超過していた。
もう祐二とは二度とないだろうと思った。
(続く) |