あと少し
あと少しだ
あと少しで 帰りつく
彼はもう、ずっと、歩き続けていた。
朝も、昼も、夜も、雨が降っていても、風が吹いていても、太陽が照りつけていても。
彼は止まることなく、歩き続けていた。
浮かぶのは、妻の顔。
まだ幼い、娘の顔。
「あなたは──」
呼び止められ、顔を上げた。
一人の男が、立っていた。
「どこへ、行くのですか」
男は、問いを口にした。彼は眩しそうに瞳を細め、男を見る。
そして答えた。
「故郷へ」
男は、首を左右に振った。
「そこはきっと、とてつもなく遠い」
彼は笑う。
「知っているよ」
「それでも」
「それでも、帰る。帰らなければ、ならない」
「──帰らなければならない?」
彼は、一度顔を伏せ、少し首を傾けるように笑ってみせた。
「いや。帰りたいんだ」
「何も、わからなくても?」
彼はうなずいた。
そしてまた、歩きだした。
景色が見えた。
一本の、長い道。
来たときは、もっと複雑に、曲がりくねっていたと思ったけれど。
どこまでも続く道には、人の姿はない。
彼はたったひとりで、歩き続けた。
やがて見える、大きな木。
今までも、この道の脇に、あったのかもしれない。
しかし彼は、今初めて、その存在に気づいた。
木の陰に、また、男が立っていた。
「どこへ、行くのですか」
まったく同じ問いだった。しかしそれは、答えないことを許さない声だった。
彼は振り返る。
「故郷へ」
男は、小さく息を吐き出した。
「まだ、遠い」
「知っているよ」
「辿り着けないかもしれない」
「……知っているよ」
「知っていても?」
尋ねられ、彼はほほえんだ。
「もちろん」
男は無言で、少しだけ寂しそうに、笑った。
彼はまた、歩きだした。
帰りつけるかもしれないと、彼は思った。
自分がばかだった。
何もわかっていなかった。
大切なのは、あの日常だったのに。
あの頃の自分は、果たして何を求めていたのだろう。
何が足りなかったというのだろう。
道が途切れた。
「どこへ、行くのですか」
声が聞こえた。
男が立っていた。
「故郷へ」
答える。男ははっきりと、首を振った。
「そこは、とても、とても遠い」
「知っている」
「いや、あなたは知らない」
男が動いた。
そして、彼の正面に立ち、彼を見据えた。
「あなたは、あなたが知っていることを、知らない」
「そこをどいておくれ」
「いつまで問いを繰り返す?」
男の顔を、やっと、彼は見た。
ああ、と呻く。
気づいてはいけないのに。
「ここは──」
男は両の手を持ち上げ、ゆっくりと広げた。
「──どこ?」
背後に広がる景色。
彼は答えない。
「あなたは、本当は、たどり着いていた」
彼は答えない。
「そして、何度も通り過ぎた」
彼は答えない。
男は、彼の頬に触れた。
男は、正面から、彼を見た。
彼は、正面から、男を見た。
同じ目。同じ頬。同じ鼻、口、身体……何もかもが。
同一でなくてはあり得ない。
もう一度、彼はうめいた。
認めてはいけないことだった。
認めてしまった。
繰り返し、問いを投げる自分。
とっくにたどり着いていたはずの、荒野。
かつては、自分の故郷であったはずの、荒れ果てた地。
「……ただいまと、いってはいけないのだろう」
小さく、懺悔のようにつぶやく。
とびだした町。あのころは、自分こそが正しいと思っていた。
「何を求めていた?」
男が尋ねた。
すべてを、と彼は答える。なにか、輝くものを。
「何を見つけた?」
男が尋ねた。
彼は答える──自分の、愚かさを。
「いま……何を、求める?」
「皆とともに──」
彼は顔を上げた。
すべてを、その目で、見た。
「ただ、皆とともに、ありたい」
男が笑ったように見えた。そのまま、彼の中に溶けていった。
やっと見ることのできたすべてが、役目を終えたかのように、薄れていく。
「やっと、終わる」
彼は、はみかむように笑った。
そして、告げた。
「ただいま」
すべてが消えたはずのその場所に、しかしまた、彼は立っていた。
彼は戸惑うように視線を彷徨わせ、やがてそれを見つけ、歩き出した。
「どこへ、行くのですか」
誰かに問われたが、その姿は見なかった。
ただ、輝く瞳で、前だけを見て、彼は答えた。
「素晴らしい世界へ!」
幾度となく求め、
幾度となく悔い、
幾度となく忘れ、
そうして、また、繰り返す。
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