岩壁にふれた背や尻から、じんわり、冷気が這い登ってくる。
それを感じて、ユウはようやく顔を上げた。
洞窟に入ったことを悟られないよう、数人の若者と山頂近くまで足跡をつけるところから始まり、まるで山越えをしたかのように偽装した後は、薪になりそうな枝を探しつつ降りる。
帰ってみれば再びN・Sの羽根をむしり、ハサンの押し開けた、例の扉役の岩を元の場所へ戻す仕事まで仰せつかり……。
ごとん、と、それをはめ終えた頃には体力も限界。それが一連の動作であるように、そのまま地べたへ座りこんでしまっていたのである。
「はあ……」
許されるなら、このまま寝てしまいたい。
しかし、そうもいかない。
かじかむ指先に吐息を当てて、強く太ももとふくらはぎをこすると、氷のように冷たかった足が、わずかにぬくもりを取り戻す。
この機を逃すまいと勢いつけて立ち上がったユウは、遠く通路の先に見える明かりと暖気に向かい、のろのろと一歩を踏み出した。
「ユウ?」
「ああ、今、行く」
いつまでも戻ってこないユウを心配したのだろう。アレサンドロが顔を見せた。
逆光に浮かんだその姿は、昨日と同様、裸の下半身に羽根の繊維を揉みほぐしたものを巻きつけている。
「大丈夫か?」
「ああ……来なくていい。歩ける」
「そういうわけにはいかねえだろ、相棒」
アレサンドロは肌寒さに肩をさすりながら足早に近づき、ユウを抱きかかえるようにして、その脇へ腕を通した。
ユウは、アレサンドロの口から出た相棒という言葉が妙に嬉しく、むずがゆかった。
「……こうしてると、あのときに戻ったみてえだな」
「あのとき?」
「忘れちまったか?俺たちが会った、あのときだ」
「ああ」
思い出した。
「今とは、逆だった」
「そうだったな。俺も服を着てた」
「ハハ」
……もう、数十年も昔のことのようだ。
オオカミの砦へ日ごとに忍びこみ、ユウは金を稼ぐために、アレサンドロはかつての仲間たちが残した品々を回収するために生きていた、あの頃が。
あの日のユウは、何故だったか普段行かない場所へ足を伸ばしてみようと思い立ち、そこで、ぬかるみに足を取られて動けなくなっているアレサンドロと出会ったのだ。
盗掘者同士はライバルでもあるが、ユウは、慈悲の心を重んじるメイサの神徒でもある。
当然、町まで肩を貸し、そこからつき合いが始まった。
「ここは、あの砦によく似てるぜ。見た目やそういうもんじゃなく……空気がな」
顔の大半に濃い影を落としたアレサンドロの目も、心なしか、あの当時の拒絶感を宿しているように見える。
「ここにはきっと、思いを残して死んだ奴がゴロゴロしてるに違いねえ。まるで、墓場だ」
ユウは、壁に残されたノミの彫跡が、一瞬、恨めしげに叫ぶ人々の顔に見え、思わず背筋が寒くなった。
「……ハ。なあ、ユウ。お前は、ここがどんな場所か知らねえのか?」
「ああ。ハサンはなんて?」
「いや、聞いてねえ。聞いても、答えねえんじゃねえかと思ってな」
「そうか……」
それはそうかもしれない。
だが、ユウはその言葉の裏に、アレサンドロの恐怖も透けて見えた気がした。
ハサンは、転んでもただでは起きない。こちらが一枚秘密のベールを剥ごうとすれば、十枚剥ごうとする。
それが恐ろしいのだ。
「でも……きっと、アレサンドロは大丈夫だ」
「うん?」
「ハサンは、もうアレサンドロを傷つけない。からかうことはあっても、望まないことはしない。わかるんだ。ふたりの間でなにがあったかはわからないけれど、トラマルから……いや、もしかしたらずっと前から、ハサンはアレサンドロを特別な目で見てる」
「……」
「だから、少し、うらやましい」
言った途端に、アレサンドロの驚いたような視線が降りかかってきた。
「いや、違うんだ。俺がそう見られたいんじゃない。でも、あの人は……ずっと俺に背中を見せて、前を走ってた」
追いかけても、追いかけても遠かった背中。
決して立ち止まってはくれなかった背中。
「だから……だから……ハハ、なんだろう」
ユウは、にわかに目頭が熱くなった。
これは、きっと嫉妬だ。
弟か妹ができ、親を取られたと思う、そんな感覚だ。
しかしだからといって、弟や妹を責められるか?
責められるわけがない。
「わかってる」
そう言うように、脇腹へまわされたアレサンドロの腕に、ぐ、と力がこめられた。
「……ハサンには」
ユウはさりげなく鼻をすすった。
「ハサンには、変に言葉を繕うよりも、真正面から当たった方がいい」
「ああ……そうだろうな。後で聞いてみるぜ」
「ん……」
「今は、お前の身体をあっためるのが先だ」
ふわ、と春の暖かさが、ユウの頬を包んだ。
天井の低い、メイサ大神殿の管轄する『ガイネッケンの洞窟聖堂』を彷彿とさせるその空間では、人の手による幾本もの石柱の間にロープが通され、かけられた衣服が数百枚と雫を落としている。
その下。岩盤を荒く削り出した地面には思い思いの形で羽毛をまとった人々が座り、いくつかのグループに分かれて焚き火を囲んでいた。
絶え間なく起こる笑い声。明るい未来を展望する言葉。巨大な羽根を手に跳ねまわる子どもたち。
すぐそばにある闇も、アレサンドロの言った墓場の空気もすべてなりをひそめ、そこには、幸せだけがあった。
「……う」
また頭痛だ。
そして、また嫉妬だ。
「どうした?」
「なんでもない。少し、思い出した」
「なにを」
「……家族を」
アレサンドロはなにも言わず、ひと際高く燃え盛る中央の焚き火近くへと、ユウを引いていった。
「脱げるか?」
「ああ」
かじかむ指でどうにか服を脱ぎ、アレサンドロ同様に腰を覆ったユウの手から、パッと服が取り去られる。
「あ……すまない」
「いや」
アレサンドロはそれをロープの物干しへ、やや乱雑に吊るし並べた。
さらに続けて、
「そら」
「あ、いい、できる」
「いいから、そっち向け」
凍えたユウはされるがままに、アレサンドロの大きく暖かい手で背中をこすられた。
すかさず、ブルーノの妻ディディから雪を沸かした白湯を手渡され、
「至れり尽くせりだ」
「ハ、たまには、ゲスト扱いもいいだろうぜ」
「もったいないな」
ユウは太股から足先までを、自力でこすり、温めた。
そうして、しばし無心になって肌を温めていると、不意に、アレサンドロが言い出したことがある。
兄弟についてだ。
「お前、いた、って言ってたか?」
「え……?」
「いや、親父さんのことは聞いたがよ、兄弟までは、どうだったか忘れちまった。言いたくねえならいいぜ、無理に聞こうとは思わねえ」
ユウは、何故このときにと思いながらも、姉と兄がいたと告げた。
もうここまでくれば、隠し立てすることはなにもない。望まれるなら、すべてを失ったあの日のことを語っても構わないのだ。
だがアレサンドロは、そこまで深く聞こうとはしなかった。
「そうか」
と、ひと言つぶやいたきり、なにか言い出しかねる様子で沈黙した。
「アレサンドロ?」
「……俺にも、弟がいてな」
「え?」
「もしかすると、お前と俺とは、そういう惹かれ方をしてるのかもしれねえ」
「……」
「こんな家族も、悪くねえよな」
「……ああ」
止まっていたアレサンドロの手が、かすかな笑いと共に、再び動き出した。
と、そこへ。
「あ、戻ってきた!」
眠りこけるモチを興味深げに眺め、くすぐったり、羽根を少し抜いてみたりなどしていた、いたずらっ子たちの一団が声を上げた。
目をやると、四方の壁にいくつも開いた通路のひとつから、光石灯を下げたハサンとクジャクが顔を出したところである。アレサンドロが言うには、この先の様子を確かめにいっていたのだそうだ。
ふたりはまとわりついてくる子どもらの頭を適当になでてやりながら、ユウとアレサンドロのいる中央の焚き火へと近づいてきた。
「やれやれ」
「よう、どんな具合だ?」
「まず問題あるまい。おお、少年たち、帝都なら五万フォンスはするマントだぞ。水っぱなをかむには少々高すぎる鼻紙だな」
「あ……!」
そこでユウが思い出したのは、ポーチにしまいこんだ例の布袋。テリーがつかませてくれた、あのオレンジゼリーである。
「これを、みんなで分けるといい。テリーが、そう言って置いていったんだ」
「へえ……おい、あのL・Jの兄ちゃんがくれたってよ。よかったな」
「うおー!」
中を見た子どもたちは雄たけびを上げた。金塊を見つけたように飛び跳ねて喜び、手足を振りまわしながら、皆で手を叩き合った。
「喧嘩すんなよ!」
「すげー!」
「おい、返事は!」
「はーい」
なおざりな返事を残して駆けていった子どもたちは、来いよ来いよと全員を呼び集め、たちまち広場には、ひとつ、ふたつ、と、にぎやかに数を数える声が響き始めた。
「……さあ、話してもらおうか」
「そう焦るな、クジャク君。まずは脱ぐ。そして温め合おうではないか」
言いながらハサンは、隻腕とは思えない速さで服を脱ぎ、当然のように、それをユウへと押しつけた。
「なにを話すって?」
アレサンドロが尋ねると、クジャクは、この洞窟のことだ、と言う。
「この男は、お前の前でなければ話せんらしい」
「フフン、それは少々悪意があるな。私は二度手間が嫌だと言ったつもりだった」
「同じことだ」
クジャクの目が、非難の光を帯びてハサンを見た。
そして、こちらも同様に身につけているものを脱いだのだが、クジャクはそれを、自ら干しに立った。
ゆらゆらと揺らめく、艶然とした炎に照らされた褐色の裸身。その、神々の祝福を受けた究極の造形。
誰もがそこに最上の美を見い出し、熱いため息をはいた。
「ん、まあ、そう、もめてくれるな。今の口ぶりじゃあ、話したくねえってわけでもなさそうだ」
「ンン、いかにもな」
「なら聞かせてくれ。この洞窟はなんだ?どうしてあんたは、こうなるまでここのことを黙ってた?」
ハサンはフンと鼻を鳴らし、身体を、幾層にも積み重ねられた羽根の隙間へと滑りこませた。
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