六花、舞い落ちなくなり
「お前なんか、死んじゃえばいいんだ!」
「葵、あんたって娘は親にむかって何て事言うの!」
これがあの晩、私たち親子が最後に交わした会話だった。
今は本当に後悔してる、少なくとも女手一つで十五年間も私を育ててくれた人へ向ける言葉じゃなかった。
――ごめんなさい、お母さん。
◇ ◇ ◇
昨日の晩から降り続いていた雪はだいぶ勢いをなくし、雲の隙間からはうっすらと優しい日差しが白銀の衣装をまとった街を照らしていた。
私はここから見下ろす景色がとても好きだ。
無邪気で楽しそうな声が聞こえてくる。声のする方へ視線を移すと子供達が公園へと繰り出し、雪合戦を始めていた。
私はその光景に懐かしさを感じた。幼き日の純粋な心、あの降り積もった雪のように真っ白でまだ何色にも染まっていなかった幸せな時間を思い出す。
そんな私の目の前を六花がチラチラと舞い落ちていく。いつかは解けてしまう運命など知る由もない、子供のように無邪気な六花が……
◇ ◇ ◇
昨日の晩の事だ、私達親子は私の携帯電話の使用料金を巡って喧嘩をした。子供のくせに使い過ぎだとか、誰の稼いだお金だと思ってるのとか、五月蝿くて堪らなかった。そして最悪な事に母は私の携帯を取り上げたのだ、頭にきた私は部屋着姿のまま家を飛び出した。
恥ずかしい話だけど親子喧嘩の末、私が家を飛び出すのは珍しい事ではなかったりする。
それから二時間ほど街をさ迷った私は空腹と寒さからくる息苦しさ、そして明日の用事が気になり帰宅を決意した。私のつま先は何事も無かったように家へと向かう。
こんな感じだから最近の母は私が家を飛び出しても捜そうともしてくれない。
底冷えする街をフラフラと歩いていると、視界に何か白い物がチラついた。
「雪だ……」
寒さに唇を震わせながら私は呟く。
雪を見た私は、昔の母の言葉を思い出す。だけど、さっきの母の怒った顔が頭を過ぎり、母の言葉をすぐに記憶の奥底へとしまい込んだ。
こうして私は突き刺さるような寒さに息苦しさを覚えながら家路へと急いだのだった。
そして今朝、私は友人と買い物へ行く為に平日よりも一時間ほど早く起床した。
私は喧嘩をした気まずさから居間の扉をそっと開け室内へ侵入する。すると、母はもう起きていて何か探し物をしているようだった。
私が黙って母の後ろ姿を見つめ声を掛けるタイミングを見計らっていると、失礼な事に私の気配に気付いた母は振り向きビックリした表情で、我が子へお化けを見るような眼差しをむけてきたのだった。
確かに学校へ行くのにもギリギリに起きる私が休日のこんな早い時間に姿を現したのだから驚くのは無理もないが、そのあとに呟いた一言が酷かった。
「ビックリした……今日は珍しく雪が積もるし色々な事がある日ね」
母は昨夜の喧嘩をまだ根に持ってるのだろうか?
だって買い物へ行く予定の私へ雪が積もっているなんて意地悪な嘘をつくのは母らしくない。
ちなみに嘘だと思ったのにはそれなりの理由がある、私の住む街は滅多に雪など降らないし、降ったとしても積もる事などまず無いのだ。私の十五年間の人生で雪だるまを一度しか作った記憶がないのが何よりの証拠だ。
まったく信じる気にはならなかったけど、何かに導かれるように私は堅く閉ざしていたカーテンに手を掛け外を確認する。
やはり外はいつもの見慣れた光景――ではなかった。
まだ自然の光を疎ましく感じていた私の意識は一瞬で覚醒した。白銀の世界とはこんな景色を言うのだろう、魂は別世界に飛ばされ意味も無く心が踊る。
けれど薄い部屋着姿の私の魂はあまりの寒さにこちらの世界へ引き戻され、足早に暖かい場所へと退散した。
居間へと戻った私はテレビに映し出されたアナウンサーに意識を集中した。どうやら記録的な積雪量で交通機関が麻痺しているらしい、買い物までの道のりが遠く険しいものになる事は安易に想像できた。その光景が目に浮かび私は深い溜め息をつく。
早起きは三文の徳なんてことわざがあるけど損をした気分だ。マイナス一文で私の早起きは二文の徳にスケールダウンしちゃったに違いない。
それにしても今朝は母の様子がおかしい、目から生気が感じられないっていうか、まるで死人のようだ。
やっぱり昨日、死んでしまえなんて言った事がいけなかったんだろうか? 確かに言い過ぎたとは思ってはいる。
でも、いつもの母なら一晩経てばまた優しく私を迎えてくれるはずだった。私も母も似たような性格だからいくら喧嘩をしても、まだ親子という関係を保っているんだと私は信じていたのだ。
私がそんな事を考えながら母を見つめていると、母もこちらを見つめてきた。私が意を決して昨晩の事を謝ろうとした瞬間、私の決意を踏みにじる雑音が居間に鳴り響いた、家の電話が鳴ったのだ。
母は私から視線を外し受話器を取った、そして応対する母の声が聞こえてきた。
「いいのよ、楓ちゃん。今日はこんなに雪が積もっているんだから無理しなくて。葵の携帯に連絡がつかなかった? そうね昨日の夜は色々あったから――楓ちゃん、そんなに泣かないで」
私は驚きのあまり言葉を失った。
今日、楓と私はクラスメートの誕生日プレゼントを買いに行く予定だったのだ、その予定を勝手にキャンセルしようとする母。しかも携帯の使い過ぎの原因が楓との長電話だからって、それを注意して楓を泣かせたに違いない。
やっぱり、こんな母親は最低だ。どこまで私のプライベートに介入するつもりなんだ。
頭にきた私は母から電話を取り上げようと思ったけど、口を利くのも嫌だったので自分の部屋へ携帯電話を取りにいった。
けど携帯は部屋の何処を探しても見つからなかった。興奮し過ぎた私は忘れていたのだ、昨日の夜、携帯をあのにっくき鬼母に取り上げられていた事を。
頭に血が上っていた私は怒りを込めて怒鳴ってやった。
「お母さん、携帯返してよ!」
いつもの様に張りのある母の返事は聞こえてこない。
……沈黙が流れる。
「ねえ、お母さんってば! 聞いてるの?」
やっぱり、いくら待っても返事はない。不思議に思った私が居間へ戻ると母の姿はそこになかった。
私は母を探した、狭い家なのですぐに見つかると思ったけど、母の姿は見当たらなかった。
いくら喧嘩をしていても私を無視して居なくなるような人ではない、母の事は私が一番よく知っている。
様子がおかしかった母の姿が脳裏を過ぎる。
昨晩の喧嘩、今朝の母の様子、そして居なくなった母。色々な事を思い出し、私の頭に上っていた血は一気に引いていった。
もう母に会えなくなる気がした。
不安になった私は気が付くと外へと駆けだし必死に母の姿を探していた、昨日の夜あれほど冷たく感じていた雪の冷たさはもう感じない。
どのぐらい時間が経ったのだろうか……ふと空を見上げると、さっきまで止んでいたはずの雪がまた降り出していた。
私は思わず立ち止まり、ゆっくりと手を差し出す。
雪を見た私は昔の事を思い出した。
私がまだ小学校にあがる前、母は夜の仕事をしていた。そんな母のいない夜、私は心細くなってよく泣いていたのを覚えている。
そして今日のように雪が降り積もった日、母が突然仕事を止めて昼間働き出すと言い出したのだ。
幼かった私は単純に心底喜び、そんな私の笑顔を見た母は私を抱きしめてきた。でもあの時、母は私を抱きしめながら泣いていたと思う。不思議に思った私は、どこか痛いのか? と尋ねたが母はただ
「大丈夫よ、ゴメンね」
と呟くだけだった。幼かった私には意味が理解できなかったが、母の温もりに何か安心したのだった。
それから母と一緒に外へ出て、雪だるまを作った。その時に母は優しい笑顔でこう教えてくれたのだ。
「雪の結晶は六角形の綺麗な、お花のような形をしてるのよ。だから私は雪の事を六花って呼ぶの」
私は小さい手のひらを差し出して舞い落ちてきた雪を見てみたが、すぐに消えてしまい母の言っていた綺麗な六角形の結晶は見えなかった。
昔を思い出しながら六花を目で追っていると、道路を横断しようとしているのか、歩道に佇む母の後ろ姿が視界に入った。母を見つけた私は嬉しさと安心感で母に駆け寄る。
私は心の中で誓ったんだ。昨日、死んでしまえなんて言った事を謝ろう、そしていつもの優しくて明るいお母さんに戻ってもらおうと。
私が母に声を掛けれる距離まで近づくと、母は突然フラフラと道路へと歩み出した、その後ろ姿はまるで何かに取り憑かれているようだった。
そして母へむかって道路を直進してきたトラックが襲いかかる、いきなり現れた人影に驚いたトラックは雪にハンドルを取られたらしく、糸の切れた凧のように母へ向かって進んでいった。
「お母さん、待って!」
私の叫びに母が一瞬振り向いた気がする。気が付くと私は母を突き飛ばそうとしていた、そして糸の切れた凧は私へと標的を変え通過していく。
「ああ、そういう事か……」
降り積もる雪の中、母の様子が朝からおかしかった理由が分かり、私の頬を涙がつたった。
◇ ◇ ◇
私が葵を生んでから十五年間、あの子は生まれつき体が弱くて生活は大変だったけど、その苦しみ以上に楽しい事が沢山ありました。
葵は本当に優しくて明るい子でした。幼い頃から私が仕事に追われ、あまり構ってあげれなくても私の前では文句も言わず、泣き言もいわなかった。
でも私は知っていたんですよ、あの子は本当は寂しかったんだって。ある日、いつもより仕事が早く終わって帰宅すると暗い部屋の片隅であの子は泣いたんです。
その日、私は自分がどれだけ愚かだったのか思い知らされました。
それから私は少しでも長くあの子と一緒に過ごせるようにと、仕事を替えました。その事を伝えた時のあの子の笑顔は一生忘れられないと思います。
葵が大きくなるにつれ、よく喧嘩はしたけど私は不安を覚えた事はありませんでした、だって葵を一番理解しているのは私だし、多分私を一番理解してくれてる人も葵だったから。
そして、あの日がやってきました。
私達はまた喧嘩をしてしまい、葵は家を飛び出しました。あの時の私はその出来事を毎日付けている日記の一ページのような、よくある事だと思っていたんです。
でも私は間違っていました、何時まで経っても葵は帰ってこなかった……。
その晩、葵の代わりやって来たのはあの子が雪の中に倒れ、亡くなっていたとの知らせでした。
私達親子の日記はあの日が最後の一ページになってしまいました……。
ただ次の日、不思議な事がありました。葵の遺体を確認して必要な物を取りに一旦家に帰った時です、私の願望が幻を見せていただけかもしれませんが、何か葵が側に居るような、そんな気がしたんです。
それから私が葵のもとへ戻る時、トラックにひかれそうになりました、原因は私の不注意です。
あの時の私は葵のいる世界へ行きたいと願っていたのかもしれません。
でも私は助かりました。あの時、はっきりとあの子の声が聞こえたんです、あれだけは間違いありません。
だってあの子の……葵の声を私が聞き間違える事は絶対にないから。
葵、ごめんね。私が母親じゃなかったら、あなたはもっと幸せに、もっと素晴らしい人生を歩めたのかもしれないね……。
でもね葵、私はあなたが大好きでした。
◇ ◇ ◇
ここからは私の住んでいた家と母の姿がよく見える、私はここから見下ろす景色がとても好きだ。
私の目の前を無邪気な六花がチラチラと舞い落ちていく。
お母さん、雪の結晶はとても綺麗だよ。