そよ風のベッド
私は春のそよ風。
今日もゆっくり気の向くまま、あちらの山を眺めたり、こちらの川で水遊びをしながら、旅をしています。
私は、厳しい冬が終わったばかりの春の街が大好きです。といっても、私は春のそよ風ですから、春の場所にしかいられず、それ故に色々な街を渡り歩いているのですが……。
厚いオーバーコートを脱ぎ棄てて明るく薄い春の服装に取り替えようとしている人、うず高く積った雪の間から流れる水を見て雪融けの音に耳をそばだてる人、綺麗に咲いた花の周りに大勢集まって夜遅くまで話を弾ませる人々――。
そんな人たちの笑顔が見られることが、この季節の特に好きなところです。
でも、私は春風ですから、人間にとってはその存在すら良くわからないものなのでしょうね。ちょっと残念ですけど――。
つい先日も、こんなことがありました。
山に囲まれたある美しい街に、立ち寄った私。ベージュ色のレンガでできたきれいな建物、透きとおった小川のせせらぎ、道端に咲き競う色とりどりの花――。この街のすべてが、私のお気に入りになったのです。
中でも気に入ったのは、街外れの一面が青々とした芝でいっぱいの丘でした。この丘の上をそよそよと歩くと、芝の葉の先が私のおなかのあたりにさやさやと触れて、何ともいえない不思議な気持ち良さがあったのです。私は、しばらくこの丘の上で楽しい時間を過ごしていました。
そんな時、中学生らしき少年が一人、その丘に近づいて来ました。表情は暗く、とぼとぼと重い足どり。私は丘の隅っこに身を潜め、彼の様子をしばらく見つめていました。
少年は丘の上までたどり着くと、ふて寝をするように、パタンとあお向けに倒れました。それから、きっと口を結び、何かを必死に我慢しているような感じで、じっと目の前に広がった青い空を見つめました。
ふと、少年のことをもっと知りたくなった私は、そろりそろりと彼に近づいていきました。
私がずいぶんと近づいても、少年は相変らず空を見つめているばかりでした。そよ風の私がすぐ傍にいることに、全く気づいていないようなのです。
私は、少年が今、泣きたい気持であることが、すぐに分かりました。
(悲しいことがあったら、素直に泣いてしまえばいいんだ)
そう思った私は、少年の耳もとで、風の世界の言葉を使って呟きました。
「私はそよ風。私は涙を運びます」
その言葉は、少年の胸に届いたようでした。彼が目を閉じた瞬間に、まぶたの先からあふれる涙。その涙は頬を伝い、丘の芝生の上にこぼれ落ちていきました。私は風の世界に伝わる魔法で、少年の心の中を覗いてみました。
やはり、少年の心の中は、海よりも深い悲しみでいっぱいでした。それというのも、大好きだったお母さんを、最近亡くしたからなのでした。彼は歯をくいしばって耐えていたのに、私がそのことを思い出させてしまったようなのです。
私は、少年に悪いことをしてしまった、と思いました。そして、何だか暗い気持ちになりました。
私は、暗い気持ちを振り払い、少年をなんとか励ましたいと思いました。それでまた、風の言葉で呟いてみたのです。
「私はそよ風。私は笑顔を運びます」
少し自信はなかったのですが、この言葉も何とか少年の胸に響いたようでした。彼は目をつぶったまま、ちょっとはにかむようにして笑い出したのです。私は、また風の魔法で彼の心の中を覗いてみました。
少年の心は、お母さんとの楽しい思い出でいっぱいでした。彼のお誕生日にお母さんが作ってくれたご馳走の数々、小さい頃にお母さんの背中で聞いた美しい声の子守唄――。覗き見している私までもが、何だか楽しい気分になってしまったほどです。
私は、少しほっとしました。
でも、これだけでは、少年のためになりません。
次に私は、少年に「生きる力」を養って欲しいと思いました。そこで私は、もう一度彼の耳もとで呟いてみました。
「私はそよ風。私は夢を運びます」
けれど、どうも今度ばかりは私の言葉が彼の胸に木霊しなかったようなのです。彼は相変らず、にたにたと思い出に浸っているばかり。私は、焦る気持ちを抑え、彼の心の中を再び覗いてみました。
思ったとおりでした。少年の心の中は、お母さんとの思い出で、いっぱい。しかもその上、思い出はこうしている間にもどんどん増えていって、少年の心が益々膨らむ一方なのでした。私は、困ったことになったと思いました。
(このままでは、少年は思い出に溺れてしまう!)
私は、少年の心の中の「夢」を捜しました。すると、一粒ほどの小さな小さな夢が、心の奥底に見つかりました。お母さんの思い出に押しつぶされそうになっていましたが、確かにあったのです。しめた、と思いました。
私は、風の魔法で少年の体をふわりと持ち上げると、春の暖かさで彼の体を包み込みました。
「なんて優しくて暖かい、ベッドのようなそよ風なんだ。まるでお母さんが傍にいるみたい」
目をつぶったまま、そっと少年が漏らした独り言。彼の表情は、穏やかですが、凛々しいものに変わっていきました。
どうやら少年は、心の片隅にあった一粒ほどの夢に気付いたようです。春の暖かさで暖めれば暖めるほど、彼の夢が大きくなっていくのを感じます。
いつしか、少年の心の中は夢で溢れんばかりに膨らんでいました。けれど、お母さんとの思い出もちゃんと片隅に置かれていて、私は、ほっとしました。
(もう、これで大丈夫)
私が少年を元の芝生の上にそっと降ろしてあげると、彼は、ぱちりと目を開けて、握りこぶしに、ぎゅっと力を込めたのです。
「お母さん、ありがとう。お母さんなんでしょう、ぼくに生きる力をくれたのは――。これからは、前を向いて歩いて行けそうだよ」
少年はすっくと立ち上がり、確かな足取りで、あの美しい街並に向かって歩き出しました。
(本当は、この私なんだけどなあ)
少年が気付いてくれないので、私は少しがっかりしました。でも、そんなことはすぐにどうでも良くなりました。
何故って? 元気になった少年の後姿を見送っているうちに、実は私も彼から元気を貰ったことに気付き、それをうれしく思ったからです。
(さあて、そろそろまた旅に出ますか)
少年の後姿が私の視界から消えたとき、私はまた別の美しい街に出会うため、この街を離れる決心をしました。
穏やかな日の光に照らされ、眩しいほどの光の束となった芝草たちと、もう少し遊んでいたい気もしましたが、最近春が訪れたばかりの、北の街に向かって旅立ったのです。
私は、ちょっとおせっかいな春のそよ風。
今日もゆっくりと気の向くまま、あちらの山をながめたり、こちらの川で水遊びしたり、そして、傷ついた人の心も暖めながら、旅をしています。