紙一重
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重いまぶたの外には、くすんだ天井があった。
濃縮された室内の空気が、肺の動きを鈍らせる。締め切られた灰色のカーテンや、時を刻むのを放棄した時計、自殺のニュースを告げる古びた新聞、カビが生えたタオルに、ひび割れたケーブルテレビ、落ちて割れた写真立て、はがれたままの壁紙……どれも絶命したように黒を帯び、物言わずほこりをかぶっている。
俺は腐って真っ黒になった畳から体を起こす。畳に手をついた瞬間、指の間をぞわりとしたものが駆け上がった気がした。あわてて手のついた方向を見やると、数え切れないほどの足を持った生物がいる。それは俺の中指からはい上がろうとし、無数の足を蠕動させていた。
一瞬のうちに、俺は覚醒する。
俺はムカデが俺に触れるか触れないかというところで、素早く手を引く。
「なんだよ……!」
飛び起きてムカデの進行方向から飛び退くと、ムカデはまるで俺を恐れる様子も見せずに、物陰に身を隠した。
「どこだよ、ここは!」
頭痛と、もよおす吐き気に思考を遮られる。それでも、俺は目を見開き、脳をフル回転させ、現状を把握しようと努める。
「……ったく! 何だって俺はこんなところにいるんだ?」
いらだちは、ほこりさえも吹き飛ばすようだった。長年にわたって居住者から見放されたような六畳一間の室内。貧乏学生が住むような質素な木造建築。首をつったように天井から垂れ下がっている裸電球。
「落ち着け……落ち着くんだ……」
俺は自分の体を確かめる。顔、腕、足、胴体と、素人目で触診していくが、別段以上はない。肉体的には問題なしとみていいようだ。だが、体調はというと快調には遠く及ばない。頭痛、そして吐き気が頭を激しく揺らすせいで、視界が二重三重になっている。
「誘拐、それとも監禁? どちらにせよ、これは変なものを飲まされたな……」
胃に入って俺を苦しめる得体の知れない毒物に毒づいてみる。
「それにしても老朽化が激しいな、ここは……異様に寒いし」
自分の腕を抱きながら、すきま風を探す。カーテンの隙間か、あるいは床下か、あるいは玄関の方から。一見では確認できないが、この幽霊屋敷ならば、それがどこにあっても不思議ではないだろう。
「いや、今はそんなことより、逃げることだろ」
孤独というのは独り言を助長するものだと知る。
ぶつぶつと自分の置かれた環境に悪態をつきながら、鉛のように重い体を引きずって玄関に向かう。
「気持ち悪い……」
湿気を含んだ畳が、ぐちゃり、という音を立てた気がした。まるで底なしの沼に足をつっこむかのよう。倒れているゴミ箱からは、コンビニ弁当の容器がはみ出していた。黒光りし、触手を揺らす親指大の虫も一緒に見える。一匹ではない。群れだ。やがて俺の気配を察知したのか、四方八方に高速で這い回る。あるいは羽を小刻みに揺らし、俺の首元をかすめていく。
心臓が止まるかと思った。
群生し、我先にと貪るこの醜悪な存在。
もし、俺がこのままここに閉じこめられたら。一生出られずに餓死することになったら……。
その先に刹那でも想像してしまった自分の死体。
死体にはウジが無数にわき、ゴキブリに物色され、全身体毛の固まりのような得体の知れない微生物に覆われている。眼窩からは、眼球がゼリーのように流れ落ち、骨には乾燥した血液がこびりつく。肉体は腐食し、ただれ、悪臭を放つ。
それは最悪の肉塊だ。
「そんなのあってたまるかよ!」
たどり着いた玄関のノブを握りしめる。チェーンロックはかかっていない。外側からの鍵もない。かろうじて内側の鍵はかかっているが、南京錠があるわけでもない。
――簡単に逃げ出せる。
小躍りするよう気分だった。
一体どれほど間抜けな誘拐犯だろうか。拘束もしないで人質を放置するとは、よほど質のいい睡眠薬を飲ませたつもりなのだろうか。だとしたら、この俺をむしばむ得体の知れない吐き気や、偏頭痛にも説明がつく。だが、俺は犯人の誤算を招いた。俺の体は案外丈夫だったようだ。
俺は安堵に胸をなで下ろし、早速、解放へのノブを回そうとする。
……しかし、俺は出るのをためらわざるをえなかった。
外から泣き声がする。それも、女のすすり泣く声だ。
冷たく背筋をはい上がる細い女の声。ドアの隙間から入り込んで、俺の心臓を凍らせる。握りしめたノブが、俺の冷や汗でべとついていく気がした。
俺はとっさに息をするのをやめた。
それは泣きやむどころか、この場所を去るどころか、ますます近づいてくるではないか。
口内にたまった唾液を飲み込む。
痰でも絡むように、それはなかなかのどの奥に消えてはくれない。それどころか、気管を刺激して咳払いすらしたくなる。熱く痛むのどを押さえながら、俺は息を殺す。気配を殺す。
――ヤクソク……シタノニ……。
耳元だった。
俺は金縛りにあったようにその場を動けない。耳元で聞こえたと言っても、あくまでそれはこのドアの向こう。たった、数センチ外で女は泣いているのだ。
どうしてこんな腐りかけの家で。
俺の目の前で。
この女は泣いているのだ。
俺に語りかけているのだ。
疑問が恐怖に変わるのは、造作のないことだった。
口を開きっぱなしにしているのは、歯がかち合う音が聞こえてしまうから。ノブを手放せないのは、手放したときに音をたててしまうような気がしたから。
どんな微細な音も立ててはいけない。
気配を殺せ。動くな。勘づかれるな。
俺の頭がサイレンを鳴らす。
――ドウシテ……ヤブッタノ……。
足の長い蜘蛛がノブを握る俺の手をはい上がろうとする。節のある黒い足をごそごそと蠢動させて、俺の首元に向かおうとする。
悪寒が上ってくる。嫌悪感が上ってくる。
目は蜘蛛の姿を細部までとらえてはなさない。
耳は女の泣く声を傾聴し続ける。
蜘蛛が手との距離を縮める度。女のすすり泣く声が聞こえる度。
俺は発狂しそうになる。我慢をすればするほど、俺の心臓が熱暴走を起こす。ふくれあがっていく。気が狂う。
毒を食わば皿まで。
俺は半ばやけになって覗き穴に目を近づけていく。
――女は長い前髪で顔を隠していた。
真っ赤な服を着て、服より鮮やかな口紅をひいて。
覗き穴越しに見える女の姿は歪んでいた。この世のものとは思えない奇抜な姿、場違いな格好、奇怪な行動。
すすり泣く吐息は、まるで絶対零度。身も心も凍らせるように、冷気は扉からノブへ、ノブから手へ、手から心臓へ。
思考を巡らす俺の頭が警鐘を鳴らす。
見るな、考えるな、とでも言うかのように、頭痛の波を増大させる。
――ヤクソク……シタノニ……。
瞬間、女と目があった気がして、俺は素早く覗き穴からから体を引く。
視線がぶつかったとき、俺は思考をやめたはずの自分の死体のイメージを、再び植え付けられた気がした。覗き穴越しでも、俺は見つめられたような気がしたのだ。
殺される。
直感した俺は、音を立てないように後ずさっていく。
直感が当てにならないものだと言うことは理解しているつもりだった。だが、俺の体は告げている。あばら骨を内側から破って飛び出すように、俺に痛みと、幻覚を持ってはっきり示そうとしている。
――この部屋から出てはならない。
出たら、きっと俺は無惨にも存在を消し去られてしまうような予感がする。
間違いない。この目の前にいる女は、俺を取り殺そうとしている。
音もなくノブから手を離すことができた俺は、今度は足下に細心の注意を払い、少しずつドアから距離を置いていく。やがて狭い六畳間に行き着くと、カーテンに閉ざされた窓を発見する。
「……玄関でさえ出ようと思えば出られたんだ。窓だけ頑丈ってのは理屈に合わないだろ……」
独り言は自分を安心させるためだということを知る。
畳の上に散らばるさまざまなゴミの隙間を、抜き足差し足。戦国時代に暗躍した忍者を思わせる動き。空中に浮かんでいるのかと錯覚させるような、見事な足の運び。俺にそんな特技があったとは意外だった。
……ノブの回る音が、カーテンに触れようとする俺の手を停止させた。チェーンロックは腐食していたのか、もろくも引きちぎれ、挙句の果てには、鍵はあってないようなものだった。押せば容易に開くほど、摩擦ですり減ってしまっていて、存在自体が無意味。
俺はカーテンに手を触れることができない。
玄関の扉がゆっくりと、ゆっくりと気持ちの悪い擦過音を立てて押し開かれていく。
女の雪のように白い手。
暗闇の中にじわりじわりと押し入ってくる。
女の血のように赤い服。
暗闇を浸食するように俺の目に焼き付いていく。
女の狂おしいうめき声。
暗闇をまといながら俺の鼓膜を引き裂いていく。
赤い体を狭い扉の中に無理矢理押し込み、やがて女はバランスを崩したのか、キッチンの前で倒れ込む。生まれたばかりの子鹿のように、歩くことすらままならない女は、それでも赤い服をどす黒く汚しながら、這ったまま俺の方に向かってくる。
ずるり、ずるり。
ムカデや、ゴキブリに悲鳴を上げるような女ではなかった。
長い前髪と、室内を流れる濃厚な暗闇。その二つが女の表情を隠す。それが余計に女の存在を、恐怖の対象として確信に近づけていく。
想像を絶する恐怖に直面したとき、人は叫び声すらも上げられない。ただ、目にした情報を赤ん坊のように受け止めるだけ。それだけが、今の俺に許された最後の行為。
――ヤクソク……ヤクソク……。
静かな、それでいて凄惨な声音。それは静かに俺の力を奪っていった。逃げ出すことを忘れ、床にだらしなく尻餅をつく。目の前には長い髪の毛に覆われた女の顔。
一縷の望みにすがるように、俺はあわてて周囲を見回す。
手の届く範囲にあるのは、ゴミばかり。丸められた紙くず、ムカデの入ったカップ容器、伏せられた写真立て、新聞紙。武器になるようなものなどない。
「……あ……あ」
女の手が俺に触れたような気がした。
俺は死ぬ。きっと取り殺される。全身に激痛が走ってのたうち回るのか。穴という穴から血が噴き出して死ぬのだろうか。
何度も脳裏にフラッシュバックしたあの死の光景。
きっと、それが俺の最期。
不可避の運命。
死。
「…………あ?」
断末魔は本当に間抜けだった。
……女は俺を取り殺すことなどせずに、俺の股間近くに転がっている写真立てを持ち上げた。そして、それを愛おしそうに抱きしめ、再び大声で泣き出したのだ。
――約束したのに……。
女の涙が、腐った畳に染みこんでいく。
――どうして自殺なんか……。
女は俺など眼中にないかのように、俺の目の前で泣き濡れる。真っ赤な血涙でも流すのかと思いきや、それは単なる人の涙だ。思い人を失い悲嘆に暮れる、哀れな女でしかなかった。
幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。
「……はは」
自嘲にも力がない。気が抜けてしまって失禁でもしてしまいそうだった。
「驚かすなよ」
俺はせめてもの復讐心で女の肩をこづく。
「てっきり俺は――」
言いながら、俺は前のめりになって転がってしまった。無様な前転。女をすり抜けたように感じたのは俺の気のせいだろうか。
刹那、俺の目に飛び込んできた一枚の新聞紙。
――自殺なんてしたって、なにも解決しないよ……。
自殺大国日本。何千人、何万人という自殺者のたった一人の記事。
大学生。男。睡眠薬を大量に服用。自殺。
記事の内容が俺の脳内を踊る。
何かが、分かりかけた気がした。
とても大切な何か。
俺はゆっくりと立ち上がって、泣き濡れる女の背後に立つ。女の髪の毛は透き通るように綺麗で、文字通りそれは触れることすらかなわない。
心臓の鼓動が、ひときわ高く俺の体を突き抜けた。
女が抱きしめた写真立てを背後からのぞき見ると、そこには真っ赤な服を着た女に寄り添う、どこか物憂げな男が写っている。
どこか遠いところを眺め、死んだ魚のような目をした男。
そんな男を逃がすまいと、細腕に力を入れる笑顔の女。
――ずっと愛していたのに……。
恐怖の叫びに聞こえた女の声が、今はどことなく優しく聞こえる。
不思議だった。
目が覚めてからずっと。
曖昧な記憶をたぐり寄せても、俺は何一つ現実に干渉していないことに気がつく。干渉できないことに気がつく。
俺の脳裏に植え付けられた死のイメージ。あれは俺そのものではないのか。
……いや、考えることすら今はもう無意味だ。
――私を一人にしないで欲しかった……。
「俺も一人だ。ずっとこの場所で地縛霊のように一人……」
俺は聞こえないと分かっていながらも、物憂げにつぶやく。
女の涙は、なおもこんこんと流れる。
俺は涙をぬぐってやれない。
古ぼけた黒い新聞紙。
自殺のニュース。
昔の写真。
男と女。
別れ。
死。
……俺は重いまぶたを閉じる。
興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。久しぶりにホラーっぽいものを書いてみました。ありがちな物語でしたが、意外に書いていて難しいことに気がつきました。いろいろと挑戦をした小説ではありますが、やはり自縛(自爆)していますね。反省点、多いです。
それでは、これからもテーマ小説をよろしくお願いします。
評価、感想、栄養になります。