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二人の悠 春野天使編

作者: 春野天使

同じ設定、同じ登場人物の企画小説「グループ小説」第七弾です! 「グループ小説」で検索すると、他の先生方の作品も読むことが出来ます。

 ダイニングキッチンのテーブルの上には、ハムエッグの乗った白い皿とクロワッサンが数個入った籠が出されていた。その横のガラスのコップの下には、メモ用紙が置かれている。

『父さんは接待ゴルフ、母さんは同窓会に行って来ます。二人とも夕方には戻ります。お昼は適当に食べておいてね』

 悠一郎ゆういちろうは、コップをずらしてメモ書きを読んだ後、冷蔵庫からオレンジジュースを取りだしてコップについだ。

──母さん、中学の時の同窓会って言ってたっけ? 二十五年ぶりとかで、随分張り切ってたよなぁ。

 悠一郎は軽く欠伸をすると、コップのジュースをグィと飲み干した。

 今日は晴れた日曜日。太陽は既に高く昇っている。遅めの朝食の後、悠一郎はぶらりと家を出ていった。



 透き通るように高い、雲一つない青い空。穏やかな秋の風が気持ち良い。日曜日の公園は、空気までやわらぎ、いつもより時間がゆっくりと流れていくようだ。小さな子供たちの笑い声。犬を連れて通りかかる人々。絵に描いたような幸せな風景が広がる。

 悠一郎は大きく伸びをすると、白いベンチにドサッと腰を下ろした。家の近所のこの公園は、幼い頃からよく来ている。あまり広い公園ではないが、妙に落ち着けた。ただ何も考えずぼんやりと過ごすのが、悠一郎は好きだ。

──悠はまだ中学生なのに、妙にオヤジっぽいところがあるわね。最近、お父さんそっくりになった感じよ。

 母親の早苗さなえは、よく悠一郎に愚痴をこぼす。確かに年より上に見られることが多いし、趣味も将棋に切手収集と、今時珍しい古風な趣味なのだ。父親の年代やそれより上の人達と話しが合うことも多い。お洒落で活動的、若く見られる早苗とは対照的な性格をしている。

──いいじゃないか、別に。人それぞれなんだよ。俺はぼーとしてるのが好きなんだ。

 悠一郎は心地よい日の光を体いっぱいに浴びながら、ふぁ〜と欠伸をする。ベンチでうたた寝することも好きだ。この前は隣りに杖を持ったお年寄りが腰掛け、一緒にウトウトしていたこともある……それは、ちょっと老けすぎかなぁ? と思ったりする悠一郎だった。

 また今日も、昼間から夢の世界に入りかけた悠一郎の元に、一匹の野良猫が近づいてきた。少し薄汚れた白い毛の猫は、ススッと悠一郎の方に近づき立ち止まると、チラリと悠一郎を見上げた。

──ん? 猫か……。

 悠一郎は白猫に手を伸ばす。

──昔、家でも猫を飼ってたよな? 白猫じゃなかったけど。名前なんだったっけ?

 幼い頃の記憶を呼び起こそうとしてみるが、悠一郎は思い出せなかった。公園に住み着いている猫は、人間から何かもらおうとして大抵人なつっこい。悠一郎にもよくすり寄ってきた。だが、白猫はプイと悠一郎から視線を外すと、またススッと数歩移動した。

──あれ? 今日は無視かよ。

 ぼんやりと猫を見ていた悠一郎がそう思った時、白猫は急にニャーと甘えた声を出すと悠一郎が座っているベンチの端の方へ駈け寄って行った。猫はしきりに何もない上の方を見つめている。

──こいつどこ見てんだろ?……。

 悠一郎が不思議に思って首を傾げていると、小型犬を連れた高校生くらいの男子が、ベンチの側を歩いてきた。散歩途中らしい男子と小犬は、悠一郎のベンチの前で立ち止まる。小犬がキャンキャンと鳴いて、しっぽを振っている。白猫が気になるのかな? と悠一郎は思ったが、小犬の視線の先は白猫に向けられてはなかった。もっと上、ちょうどベンチに人が腰掛けているくらいの高さだ。

──何だよ? こいつら。何かあるのか?

 悠一郎は自分の隣りを見るが、そこには猫や犬の餌になるようなものは何もない。

「あっ……」

 小犬の飼い主までもが、何もない空間を見つめているのに気付き、悠一郎は思わず声をあげた。

「……」

 高校生風の少年は、悠一郎に気付いて顔を向ける。彼は悠一郎と視線が合うと、軽く咳払いし小犬のリードを引っ張った。

「マロン、行くぞ」

 彼は小犬を呼ぶと、慌てて立ち去って行く。小犬は名残惜しげに振り返りつつ、吠えながらチョコチョコと駆けて行った。

「?……」

 悠一郎は口をポカンと開けて、まだ白猫が見ている隣りのベンチを見つめた。

──変なの……透明人間でもいるのかも?

 悠一郎は心の中で考え、自嘲気味に笑った。

──それより、腹減ったな。ファミレスにでも行くか。

 お腹のムシの声を聞いた悠一郎は、まだ甘えた声で鳴き続けている白猫を置いて、ベンチから立ち上がった。太陽はもう真上近くまで上っている。



 公園近くのファミレスも、悠一郎のお気に入りの場所だ。ちょっとしたメニューと飲み放題のドリンクバーで、何時間でも過ごせる。

 今日は日曜日のお昼近くとあって、いつもより混み合っていた。家族連れの一団の後に続いて入って行くと、満面笑顔のウェイトレスが声をかけてきた。

「禁煙席で宜しいでしょうか?」

「あ、はい」

「こちらのお席にどうぞ」

 いつものやりとりだが、どこかいつもと違うような感じを悠一郎は受けた。笑顔のウェイトレスは悠一郎を見た後、彼の斜め後方に目をやっている。しょっちゅう来ているから、ウェイトレスの中には悠一郎の顔を知っている者もいる。何か意味ありげな笑顔が、そのウェイトレスに浮かんでいた。悠一郎は後を振り返ってみたが、そこには誰もいない。

 変に思いながらも、悠一郎はウェイトレスに案内されるまま席についた。ゆったりと椅子に腰掛けて、何気なく正面を見る。

──ん?

 もちろん、悠一郎の正面には誰もいない。が、何か違和感のような居心地の悪さを悠一郎は感じた。周りを見回すと、家族連れやら友達同士やらカップルやら、それぞれ話しや食べることに夢中で、誰も悠一郎の方は見ていない。だが、何故か悠一郎は、人の気配のような視線のようなものを感じていた。

 しばらくして、ウェイトレスがメニュー表とおしぼりと水を運んできた。

「ご注文がお決まりなりましたら、ブザーを押してお呼び下さい」

 さっきと同じウェイトレスの、弾けるような笑顔。彼女は、てきぱきとメニュー表、おしぼり、水の入ったグラスをテーブルに置いていく。

「?……」

 悠一郎はその様子を呆気にとられて見つめていた。メニュー表もおしぼりもグラスも、みんな二つずつ置かれている。誰もいないはずの悠一郎の向かいの席に、ウェイトレスは置いていく。

「あの、ちょっと──」

「失礼します」

 悠一郎が質問する前に、ウェイトレスは頭を下げて忙しげに別のテーブルに移っていった。

「何で二人分なんだよ?」

 ウェイトレスは当然というように、二人分の品々を置いていった。悠一郎は、狐につままれたような顔をして、テーブルの上を眺めた。

『本当に見えないの?』

 突然、悠一郎の耳に聞き慣れない女の子の声が聞こえてきた。悠一郎はギョッとして、顔を上げる。だが、正面には誰も座っていない。すると、今度はクスクスと笑う声が聞こえてきた。

「だっ、誰!?……」

 恐怖にひきつった顔をして、悠一郎はあたりを見渡した。

『私、悠菜』

 クスクス笑いがおさまった後、可憐な声が聞こえた。

『公園のベンチでもあなたの隣りに座っていたんだけど、あなたには私が見えないみたいね、悠一郎君』

「……悠一郎君? 何で俺の名前知ってるんだ?」

『うーん、その話は後で。それより、私の姿が見えない人物に初めて出会ったわ。私、何故か知らないけど、幽霊なのに姿が見えるらしいの。霊感のあるなしに関わらずね』

「ゆ、幽霊?……」

 悠一郎はゴクリと生唾を飲み込む。信じたくはないが、この状況からして幽霊と喋っているとしか思えない。

『普通の幽霊なら、霊感のある人や動物にしか姿は見えないんだけど、私は見えちゃうの。驚かれないのはいいんだけど、ちょっと不便なこともあるわね』

「……」

 悠一郎は黙ったまま、悠菜という少女が座っているらしい空間を見つめた。

「ゆ、幽霊が何でここに?……」

『悠一郎君、ちょっとこっちに来て』

 消え入りそうな声で呟く悠一郎に、悠菜の明るい声がした。

「こっちって?」

『ああ、あなたには見えないのよね。こっち、鏡のとこ』

 悠菜の声が移動する。悠一郎はキョロキョロしながら、店の入り口付近にある洗面所の鏡の方へと歩いて行った。


「ひっ……」

 悠一郎は、鏡を見つめたまま声にならない声を発してしまった。さっき鏡の前を通った時には気付かなかったが、鏡に映る悠一郎の隣りに、見知らぬ少女が立っている。紺色のセーラー服に白いリボン。セミロングの髪をおさげにして、黒いゴムでくくっている。あどけない顔の少女。

『やっぱりね』

 耳元で少女の声がして、悠一郎は横を向くが、そこには少女はいない。もう一度鏡を見ると、そこにはちゃんと悠菜が映っていた。

「な、なんでだ?」

 青ざめた顔の悠一郎を見ながら、鏡の中の悠菜はクスリと笑った。

『現実の私が見えないってことは、鏡には映って見えるんじゃないかと思ったの。普通の人はその反対で、鏡の中の私の姿は見えないのよ』

「……」

『心配しないで、私は悪霊じゃないから。あなたに悪い影響与えたりしないわ』

「幽霊……何で幽霊が俺に取り憑いたりするんだよ」

『それはね、あなたが悠一郎だから。私と同じ「悠」だからよ』

「は?」

 悠一郎は悠菜の言ってる意味が分からず、ポカンと口を開ける。

『本当はね、前からあの公園で時々あなたのこと見てたのよ。でも、あなたはちっとも私に気付いてないみたいだった』

「あ、当たり前だろ、幽霊なんだから……」

 鏡の中の悠菜は首を傾げ、考える。

『あなたに私が見えないのは、あなたが「悠」だからかな?』

「え?」

『ま、いいわ。とにかくお昼を食べて、その後私に付き合ってね。行きたい場所があるの』

 訳の分からないまま、悠一郎は取り敢えず悠菜の言うとおり、席に戻ると料理を注文した。悠菜はミルクティだけを注文したが、幽霊の悠菜は物を食べることが出来ないらしく、結局悠一郎が後で飲んだ。

『生きてる時、ミルクティが大好きだったの』

 と、悠菜は言った。幽霊になった今は、食事もトイレもお風呂も睡眠も、悠菜には必要ないという。

『幽霊になるなら、普通の見えない幽霊の方が良かった。人間のように振る舞うのって結構気を遣うのよ』

 悠菜は屈託なく笑う。お喋りで明るい悠菜は、ちっとも幽霊らしくない。恐怖感なんて全くない。ずっと喋り続ける悠菜を見ながら、悠一郎は何故悠菜が幽霊になったのか疑問に思った。



「なんで幽霊になったんだよ? 成仏しないの?」

 ファミレスを出た後、悠一郎は悠菜に聞いた。悠一郎には悠菜の姿が見えないので、悠菜の声だけが頼りだ。

『ちゃんとお葬式はあげてもらったみたいよ。私のお墓もちゃんとあるわ。私が突然死んで、自分でも死んだことに気付かなかったことに原因があるのかもね……』

 ちょっと考えるような悠菜の声がする。

『でも、幽霊の生活もなかなか楽しいわよ。家族や私のことを知ってる人に近づけないのは、つまらないけれど』

「死んだ人間が戻って来たらビックリするよな」

 幾分落ち着いてきた悠一郎は、口元を弛めた。

『そう、家に帰る時も気付かれないようこっそり帰らなきゃならないし』

 悠菜はクスクスと笑う。

『ま、私は幽霊だから、瞬間移動したりしてすぐに逃げられるけどね』

「いつまで幽霊でいるつもり?」

『分からない。この生活も割りに気に入ってるの。あ、次の角を右に曲がって』

 ファミレスから出て、通りを真っ直ぐ歩いていた悠一郎は、悠菜の声に従いゆっくりと右に曲がった。この先には、悠一郎の通っている中学がある。

『懐かしい……』

 校舎が見えた時、悠菜の声が聞こえた。悠一郎は立ち止まる。悠菜も立ち止まって、校舎の方を見つめているのだろう、と彼は思った。悠菜の言葉はしばらく聞こえてこなかった。日曜日だが、部活の練習で校庭には生徒達が集まっている。風に乗って、元気なかけ声が聞こえてくる。

「この辺に住んでいたの?」

 悠一郎は空間に向かって悠菜に話し掛ける。悠菜の声がしないと、悠菜がいるのかどうか悠一郎には分からなかった。

『うん、あそこが私の母校だから』

 悠菜の明るい声が響く。

「母校? 出身中学ってこと?」

 悠一郎は不思議に思う。鏡で見た悠菜の制服は、今の制服とは違う。悠菜はセーラー服だが、今はブレザーだ。それに、悠菜のスカートの丈は、かなり長かった。

「君の着てる制服って昔のだろ? 今はそんなんじゃないし」

『そう? 私がいたのは結構昔だからね』

「昔ってどれくらい?」

 悠菜が着ている制服は、初めて目にするが、どこかで以前見たような気もした。

『どれくらいかなぁ? 早く行ってみましょ。でも、この辺りは知り合いが多いから気をつけなきゃ』

 悠菜の声が前方に移動したのが分かり、悠一郎も慌ててついていった。


 校庭では、サッカー部とテニス部の男女が練習をしていた。

「中学の制服を着てるってことは、死んだのは中学生の時?」

 悠一郎は悠菜に声をかける。校庭までの道のり、悠菜はずっと黙ったままだった。姿の見えない悠菜がどんな表情をしているのか分からない。聞き難い質問だが、悠一郎は悠菜が何故死んでしまったのか知りたかった。

『そうよ。この中学で』

「え?」

 あまりに悠菜があっさりと答えたもので、悠一郎は一瞬意味が分からなかった。

「……まさか」

──学校で飛び降り自殺? 

 悠一郎は戸惑う。悠菜は、自殺などするようなタイプではない気がする。でも、自殺した人間は成仏出来ないって言うし。人は見かけとは違うものなのかもしれない。悠一郎は色々と考えを巡らせた。

『校舎に入りましょう』

 悠菜の声が言う。校庭を通って校舎に向かう時、部活の生徒達が悠一郎の方を見ていた。彼らには悠菜の姿が見えるはず。見慣れない制服を着た少女が悠一郎と歩いているのを不思議に思っているのだろう。

「どこに行くの? もしかして昔いた教室とか?」

 校舎に入り、廊下を歩きながら悠一郎は聞いた。

『教室? 私何組だったっけ? 同級生のことは覚えてるけど、教室がどこだったか覚えてないわ』

 悠菜はそっけなく答えた。

『私が行きたいのは屋上よ』

「屋上?……」

 悠一郎はふと不安になって口ごもる。だが、悠菜は変わらず明るい声で続けた。

『あっ、今でも階段の踊り場に鏡があるのね。見覚えがあるわ』

 悠一郎は屋上に続く階段を上り、鏡の前で立ち止まった。鏡の中にフッと悠菜の姿が映し出される。鏡の中の悠菜は、笑顔で悠一郎を見つめている。

『私が学校で飛び降り自殺したとでも思っているの?』

「えっ?……」

 心を読まれたかのような悠菜の質問に、悠一郎はドキリとした。不安げな悠一郎の困ったような顔が、鏡の中に映っている。

「いや……君は悩んで自殺するようには思えないんだけど」

『悠君は正直者ね』

 鏡の中で悠菜が声を立てて笑った。セーラー服姿の悠菜は、どう見ても悠一郎より年下にしか見えない。それなのに、全く子供扱いだ。

──あ、でも、悠菜が死んだのは昔だから、本当はずっと年上なんだよなぁ。

 複雑な気持ちになりながらも、悠一郎は納得する。

『行きましょうか』

 悠菜は鏡の中の悠一郎を見て言うと、鏡から離れた。目の前からまた悠菜の姿は消え、悠一郎は階段を上がって行く。



『わぁ……懐かしい風景!』

 悠一郎が屋上に出たとたん、悠菜は感嘆の声をあげた。きっと嬉しそうな顔しているんだろうな、と悠菜のはしゃいだ声を聞いて悠一郎は思う。

「今、どこにいる?」

 空間に向かって悠一郎は言う。

『ここよ。悠君には見えないと思うけど、屋上のはしっこ』

 悠一郎は悠菜の声のする方へ進む。屋上の柵から運動場が見渡せる。まわりに高いビルのない学校からの風景は、爽快だった。空が大きく近く見えて、遮る物のない風が気持ちよく吹き抜けていく。今まで、数えるほどしか屋上には来たことのない悠一郎は、しばしぼんやりと風景を眺めていた。ぼーとすることが好きな悠一郎には、お気に入りの場所となりそうだ。

『早苗は元気?』

「は?」

 ぼんやりとしていた悠一郎の耳に、悠菜の声がする。

「早苗って?……」

 頭の中を『早苗』という名前がかけめぐる。一番身近な名前のはずなのに、悠一郎が呼ぶことは決してない名前。

『やだ、母親の名前を忘れちゃったの?』

 悠菜の笑い声が響く。早苗は、悠一郎の母親。今日は中学の同窓会に出かけている。

──中学……!

 母親の早苗も悠一郎と同じ、この中学校の卒業生だ。

「なんで、母さんの名前知ってるんだよ」

『だって、早苗は私の親友だったんだもの』

「えっ?……」

 悠菜がクスクスと笑う。悠一郎の目が、みるみる点になっていく。

「早苗は大人しくて気が弱くて、いつも一人でぽつんといるような子だったの。私は放っておけなくて、いつも面倒みてあげてたわ」

「本当に?」

 明るくて外向的な今の早苗からは、想像もつかない悠一郎だった。

『ミケは元気に育ったかしら?』

「ミケ? 何それ? 猫の名前?」

『早苗が可愛がってた野良猫の赤ちゃんよ』

「あっ……」

 悠一郎は、さっき思い出せなかった猫のことを思い出す。確か三毛猫で、早苗が可愛がっていたような気がした。その頃はもうかなり年をとっていて、悠一郎が小学校に上がる前には死んだ。

『早苗は学校にも子猫を連れてきて、先生に怒られてたのよ』

 悠菜の声が悠一郎から離れる。運動場に目をやると、部活をしていた生徒達の何人かが屋上を見上げているのが見えた。悠一郎達の方を指さしたり、驚いたような顔をしている。

「悠菜、どこにいるの?」

 心配になり、悠一郎は声をあげる。初めて『悠菜』と名前で呼んでいた。

『ある日、ミケは屋上に上がってきて、柵の向こう側に入り込んでしまったの。そしたら身動きとれなくなって、ミャアミャア怖がって鳴いてたわ』

 少し遠くで悠菜の声がする。運動場の生徒達のざわめきが大きくなり、悲鳴をあげている者もいた。

「何してるんだよ」

『早苗は、屋上から落ちそうになってるミケを見て泣いてた。ほんの近くにいるのよ。柵を越えればすぐに手が届く位置にね。私は早苗に言ったわ。私がミケを助けてあげるって』

「……」

『嘘はつかなかった。ちゃんとミケを助けてあげられた。でも……』

「悠菜、戻って来いよ」

『私ってドジだから、ミケを早苗に手渡した拍子に安心しちゃってバランス崩して──』

「悠菜!」

 次の瞬間、キャー!! という女生徒達の悲鳴が聞こえ、運動場内はパニックになっていた。

 見えない悠菜が屋上から落下した! 悠一郎は、大慌てで屋上を出て下に走って行った。



──待て、落ち着け!……悠菜は幽霊なんだ。もう死んでいるんだから、死ぬ訳はない。 

 走りながら悠一郎は自分に言い聞かせる。第一悠一郎に悠菜の姿は見えないんだから、落ちたかどうかも分からない。それでも、群がる生徒達の怯えた様子を見ると、心配になってくる。

「さ、さっきセーラー服の女の子が落ちて来なかった?」

 変な問いかけだとは思いつつ、悠一郎は皆に聞く。運動場に落下したらしい悠菜の姿は悠一郎には見えない。

「見たわ、悠一郎と一緒に歩いてた子でしょ?」

 テニス部の女子が青ざめた顔をして言う。

「私も見た。屋上からふわっと落ちたの……」

「でもな……俺も見たけど、どこにも落ちてないんだよ」

「そうさ、下に落ちた瞬間姿が消えて……」

 サッカー部の男子達も気味悪そうな顔で答える。

「見えない? どこにも?」

 生徒達はうなづきあう。悠一郎は不思議に思った。悠菜の姿は悠一郎には見えないが、さっきまでは皆には見えていたはずだ。悠菜はどこに行ったのだろう?

 悠一郎はしばらくその場に立ちつくしていた。部活の生徒達は、不思議そうな顔をしながらも、また練習に戻って行った。そのうちまた悠菜の気配がして、悠一郎の耳元で声がするかもしれない、と悠一郎は思ったが、悠菜は現れなかった。

──悠菜、とうとう成仏したのかな?

 ホッとしたような、それでいて少し寂しいような気持ちがする。

──けど、悠菜が母さんの親友だったなんて……。

 幼い顔をした中学生の悠菜と自分の母親が同級生だとは、どう考えても想像がつかなかった。それだけの年月が流れたということ。だが、学校は今も昔と変わらず存在し、悠菜と悠一郎の時を繋いでいる。不思議な感覚だった。

──猫の身代わりになるなんて、本当ドジだよな……。

 悠一郎は、悠菜が誤って落下した屋上をもう一度だけ見上げた。



 母親の早苗から、悠菜の話は一度も聞いたことはなかった。悠菜の事件は早苗にとって衝撃的な出来事だったに違いない。

 その夜、早苗が同窓会から帰った後、悠一郎はそっと聞いてみた。

「母さんが中学の時の写真見せて」

「……いいわよ」

 少しためらいがちに早苗が差し出した古いアルバムには、三毛猫のミケと悠菜の写真がたくさん貼られていた。さっき会ったばかりの悠菜が、母親のアルバムの中に写っているのが不思議だ。写真の悠菜は、いつも元気に笑っている。

「この人、母さんの親友?」

 悠一郎は何気ない風に、悠菜の顔を差す。

「そうよ。中学の時、母さんのたった一人の親友だったの」

 早苗は目を伏せる。

「悠菜っていう名前。悠菜のお陰で、母さんも随分強くなれたわ……」

「ふーん」

 アルバムをめくっていくと、セーラー服姿の早苗と悠菜が並んで写っている写真もあった。

「悠一郎っていう名前ね、悠菜の悠をつけたのよ」

 写真の悠菜を見ながら、早苗はふと悠一郎に言った。

「悠菜の悠?」

「そう……悠菜は中学生の時事故で亡くなったの。すごくショックで悠菜が死んだことが信じられなかった……だから、もし将来自分に男の子が産まれたら、『悠』という字をつけようと決めたのよ」

 早苗は悠一郎を見て微笑んだ。

「そしたら、もう一度悠菜に会える気がしてね」

「悠……」

 悠一郎と悠菜、二人は同じ『悠』。時を経て、同じ名前で繋がっていることが、悠一郎には何となく嬉しく思えた。

「悠って良い名前だよね。俺、気に入ってる」

 自然とそんな言葉が、悠一郎の口をついて出た。

「あら、本当? 今までそんなこと言ったことないのに」

「本当だよ。良いなって。父さんの名前からとった『郎』も良いけどね」

 悠一郎は付け足したようにそう言い、早苗と笑い合った。



 翌日の朝。

 朝寝坊な悠一郎は、三つの目覚まし時計も役には立たず、まだベッドの中でウトウトとしていた。最終段階で、早苗に布団をはぎ取られ起きる。というのが、いつものパターンだ。

『悠一郎! 悠!』

 悠一郎の頭の隅に声が響く。

「後、五分……」

 ついに母さんが来たか、と思いつつ悠一郎は呟く。

『悠!』

「……後一分でもいいよ」

『悠一郎!』

「お願い」

 悠一郎は布団をはぎ取られると思い、目を瞑って構えている。が、布団はそのままだ。その代わり、一段と強い声が耳に響く。

『悠一郎!』

「ん?……」

 これは、早苗の声じゃない。もっと若く幼い女の子の声。どこかで聞いたような……。

 悠一郎は恐る恐る布団から顔を覗かせる。

『いつまで寝てるの?』

「あーっ!」

 悠一郎は思わず叫び声をあげた。目の前にセーラー服姿の悠菜の顔が迫っていた。

「……えっ!? なんで姿が見えるんだ?」

 悠菜は、悪戯っぽく悠一郎を見て微笑む。

『どうやら、反対になったみたい』

「反対? 何が?」

『私の姿は、皆には見えなくなって、あなただけに見えるようになったのよ。つまり、私、普通の幽霊になれた訳』

「は?……」

『これで、まわりを気にせずに会いたい人にも会えるわ!』

 悠一郎は頭をガーンと殴られたような衝撃を受ける。

「で、成仏もせずに、何でここに?」

『私、決めたの。早苗と旦那さんと悠君を守る守護霊になるって!』

 悠菜は嬉しそうにコロコロと笑った。

『それが私の使命なのよ!』

「そんな、勝手に……」

 と、階段を駆け上がる音がして、早苗の声が聞こえてきた。

「悠! 早く起きなさい! 遅刻するわよ!」

 バッと勢いよくドアが開き、早苗が部屋に入って来る。悠一郎のベッドには悠菜が乗っているが、早苗には悠菜の姿が見えないらしい。

『早苗はすっかり大人ね。でも親友には変わりないわ。会えて嬉しい』

「あの、いつまで側にいるつもり?」

 目を輝かせて早苗を見つめる悠菜に、悠一郎は恐る恐る尋ねる。

『守護霊だもの、ずっといるわ』

「そんな……」

「何、ぶつぶつ言ってるの? 悠一郎、起きなさいよ!」

 悠菜の姿が見えない早苗は、ガバッと悠一郎の掛け布団をはぎ取った。悠菜はその拍子にスッと空中に浮く。悠一郎はベッドから飛び起きると、悠菜から逃げるように部屋を出て行った。

『悠君、私達は同じ悠。いつも一緒ね』

「俺、守護霊なんていらないし。一人で生きていけるから……」

 悠菜が消えた時、一瞬だけでも寂しいと感じたことを後悔し始める悠一郎だった。悠菜は明るく笑いながら、悠一郎の後を追いかけて飛んでいった。      完









ぼちぼちと時間のある時に書いていたせいか、随分長くなってしまいました…^^;見える幽霊というのがネックでした。見える幽霊を書いてると、色んな障害があることに気付きました。悠菜は自殺して死んだことにしようと考えていたのですが、書いてるとどうもそういうタイプの女の子にはなりませんでした。(^^;)で、ちょっと強引で姉御風な子になりました。(^^)

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― 新着の感想 ―
[一言] 感動した。涙ポロポロです。 しかし、守護霊に成る意図が解らん。使命って?うーん、謎ですね
[一言] のんびりとした日常とキャラクターがほどよく絡み合い、とても楽しい物語になっていたと思います。他の悠とは違い、悠一郎には見えないという発想も分かりやすいし、面白かったです。 少し残念だったのは…
[一言] 描写が細かく、その時々の場面が目に浮かぶようでした。 意外な悠菜との関係も面白く、スローなお話の展開に善し悪しあると感じますが、私はこうゆうの好きです。 自殺で死んだんじゃなくて良かったと思…
感想一覧
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