静かな鼓動で
次に思いついたことは、お腹いっぱいになるまで、ご飯を食べることだった。冷蔵庫の扉を上から下まで順に開けていくと、いくつかの冷凍食品といくらかの調味料と多大な隙間があった。その中に手を突っ込んでかき回して、おもむろに掴んだのは、シュウマイとコロッケの二つだった。白米は無かった。パッケージにかかれた調理法は、互いに微細な違いがあって、それを愚直に守って一つ一つを温めていく。食器棚から取り出した父の箸を持って、椅子に座って電子レンジの仕事が終わるまでの数分を待つ。その間、箸の持ち方を記憶の奥底から取り出そうと、何度か右手を動かしてみた。意外にも、右手はそれらしい形を作ってくれた。しかし、箸先が少しずれる。何度か練習を重ねる必要がありと悠長な考えを浮かべた。僕は数年前から箸を使った食事をしていない。
しばらく箸と格闘、カチカチやっていると、温かな料理が二つ出来上がった。テーブルの上に持って来て、その前に居住まいを正して座る。自由な両手を合わせ、いただきますと言った。すると、僕の声だけが部屋に響いた。僕だけがそれを聞く。たぶん僕に向けての言葉なんだろう。いざと、おぼつかない箸が小さなコロッケにとりかかる。二度三度掴むのに失敗して少しいらいらした。ようやく上手くいって、そのまま取り落としてしまわないように、さっさと口に投げ入れた。コロッケは熱くて、一個まるまる放り込んだことを後悔した。眉間に一つ二つ皺を寄せながら、コロッケに歯を立ててみると、サクリサクリと衣が音を立てた。心が浮き足立ってくる。何度か咀嚼しているうちに、調味料のことを思い出した。コロッケにはソースだ。そう思いつくまで、しばらく悩んだ。幼い頃に得た知識は、使われずに埃を被っている。
コロッケとシュウマイの二つを平らげるまでに、僕は箸の使い方をちゃんと思い出した。そして、満足とかおいしいとかいう言葉も思い出した。食べたものはいつもと同じものだった。皿の上に箸を置く。カツンという音が心に響いて、それが僕にご馳走様と言わせた。立ち上がって、二歩歩いて、そこで、食器を洗っておくべきかと疑問符が浮かぶ。洗う必要と不必要を合理性の天秤にかけて揺らしてみる。しばらくそれを見守っていたが、合理性はともかく、人として洗っておいたほうがいいという結論に達した。しかし、視線を落として、自分の頼りない体にぶら下がる細っこい両手を眺めると、おびただしい数の傷が目に付く。洗剤がしみて痛むのは想像に難くなかった。洗う前から眉根を寄せながら、台所に歩み寄る。実際にやってみると、痺れるような痛みが手を包んだ。眉がさらにぎりぎりと歪むのを感じながら、黙々と作業を進める。こういうのを初めてやったときは、親が褒めてくれたりするものなんだろうか。僕は無言のうちに初めての食器洗いを完遂した。
ご飯を食べ終わると、必要なことを列挙してみようと思った。紙とペンが欲しいと思って父の部屋を物色する。部屋に入ったときに、床に手袋が転がっているのが見えた。他にもいろいろと雑に捨て置かれているが、僕は迷わず手袋を手に取った。真っ黒で、僕の手より一回り大きいそれを両手に嵌めた。指紋がつかないように、というのが理由だ。なんとなく、よく機転が利いたと自分を褒めてみた。そうでもないよと言おうとして、とても恥かしくなった。ごみ屋敷と言われても仕方の無い、不清潔空間を適当に漁っていると、紙はすぐに見つかった。ペンの代わりに鉛筆を掘り起こした。新品のノートと鉛筆をそろえてご満悦しながら、リビングに戻った。僕はこれから自分がするべきことをノートに箇条書きにしていく。ノートに羅列されていくそれらは僕の些細で無謀な、即興で作り上げた計画だ。
今の僕は、安アパートの一室に一人きりだ。それも自分の手の内にあって自由に扱える孤独。僕はこの状況を数年前から渇望してやまなかった。
運命というものがあったとして、それが動き始めたのが八年前だった。母さんと父さんが離婚した。そしてその二年後、母さんは再婚して、新しい父ができた。僕らはすぐに馴染まなかったけど、それは時間が解決してくれることだと僕は確信していた。だけど、すぐに母さんが死んだ。そこには、親子になりきっていない、いや、なりきれれそうもない、赤の他人が二人残った。母さんが死んでしばらくして、僕の体には傷ができるようになった。またしばらくして、僕は学校に行けなくなった。部屋に閉じ込められて、口と手足をガムテープ縛られた。何もできなくなった。父は僕に暴力を振るった。傷だけが増えていった。そこに、僕を置いておく場所はあったけれど、居場所は無かった。
今日という日は特別だった。僕が十六歳になって数ヶ月が経ったこの冬の日に、数ヶ月遅れの誕生日プレゼントが与えられた。動き出した運命が到着する場所だったんだろう。非力な僕にも扱えるような隙が父にできた。父のいなくなったこのときに、僕はここを逃げ出して旅にでる。おそらく一ヶ月ともたず、僕は行き倒れてしまうだろう。でも、刹那的な自由を満喫するために僕は旅にでる。明日の早朝にここを出て行けば、もう、父の顔を見ることも無い。
実はここから物語が展開するんですが、でも、よく見ると、この部分だけでも十分小説になりそうなので、投稿します。
以前書いてたものなんですが、改名して一発目がこれとか病み病みですね\(^o^)/