私はこれから死ぬのだから
私は今、深い森を抜け、せり出した崖の先端に立っている。
ここまで来るのは大変だった。誰にも見つからない場所という条件だけだったのに、いざ当てはまるところを探してみるとなかなか無い。その中でやっと見つけ出したのがこの場所だった。ここまでは軍の人間も足を踏み入れないはずだ。
お金を全て使い果たして買った獣避けのお香のおかげか、ただの噂で元々猛獣などいなかったのか、無事に森を抜けることが出来たのは感謝すべきなのだろう。しかし上下の服は枝や葉に引っ掛かって破れ破れであり、足は泥まみれ、擦り傷や切り傷は身体のあちこちに出来ていた。
けれど気にする必要は何もない。
私はこれから死ぬのだから。
ここからの風景は、私の予想とは違いとても美しかった。数日間森をさまよったので時間の感覚は狂い、今が朝なのか夕刻なのからわからないが、赤、青、黄、緑、この世にある全ての有彩色を使って描かれたキャンバスに光が射し込んで輝いているかのような空模様は、言葉に表せられないほどに綺麗だった。また、遠く眼下に広がる木々や水たちも、空の色を反射して本来の色ではない色をまとい、空の動きに合わせて色を移り変えていく。その見事な調和を私は息を呑んで眺めていた。
死ぬ間際の人間の感想だから、いくらかは誇張されているのかもしれない。それでも、少なくとも、私の人生の中で一番美しいものだった。
もう未練はない。この風景は最期の贈り物に相応しい。
私は崖のふちに歩み寄った。下を覗くと、黒の層がいくつも重なりあっていて底が見えない。これこそ私が求めた場所だ。ここなら誰にも見つからずに眠れるだろう。
大きく息を吸ってゆっくり吐き出した。世界の空気を最後に感じて、心のわだかまり全てを吐き出して私は一歩を踏み出した。これで私の人生は終わる――
「待てよ、もう少しくらいこの世界を堪能してもいいだろ?」
つい、反射的に声がした後ろの方を振り返ってしまった。そのせいでバランスを崩し、私は背中から深い闇の中へ落ちていく――
と思ったが、声の主と思われる男が私の手を掴み支えてくれたおかげで、私は空中にとどまることが出来たらしい。そのまま腕を強く引かれ、前のめりでよつん這いになりながらも、私の身体は地面に無事着地した。
「あり……」
ありがとうと反射的に言いそうになった自分を制す。ありがとうではない、この男は私の決意の邪魔をしたのだ。こんな事態を避けるためにも、人が寄り付かない場所を選んだはずなのに大失態だった。
あらためて私はその男を見る。私の目線に合わせたのか、立っていたはずの姿勢が屈んでいる状態になっていた。おかげで意図せず目が合ってしまい、私は目線を地面に反らす。
「なあ」
男が話しかけてきた。だが私は答えない。これ以上こんな男と関わりたくはないのだ。どこかへ行って欲しい。そう心の中で祈る。
「立てるだろ?」
男はそう言って、何の返答もしていない私の手を勝手に掴み、そのまま後退し始めた。抵抗しつつも力に負け、腰を少し浮かされながら私は引きずられる形で前進する。
結果、私は崖から遠ざかった。
「こんなもんか?」
そう呟いた後、男はいきなり手を離し私の横を過ぎ去って崖のほうに向かって行った。私はまた前のめりで地面に倒れ込む。
「悪い、大丈夫か?」
倒れ込んだ姿勢から体勢を立て直して男と向き合うようにすると、崖のふちの前にどっしりと腰を地面におろしてこちらを見ている男がいた。しばらくは動かないと考えるのが筋だろう。
(なんなんだこいつは)
思わず心の中で悪態をついてしまった。だが、つきたくもなる。私がこの世界と別れるためには男の横を通らねばならなくなったのだ。それだけなら問題は無いが、もし私がまた飛び出そうとしたら、今までの行動からしてこの男は邪魔をするだろう。
男はあれから何も言わない。ただじっと肩肘をついてこちらを見ているだけだ。見つめ返すわけにもいかず、私の視線はさまよい、結局地面に落とすことになる。
そもそも私はこんな男を知らない。全くもって記憶に無い。見ず知らずの他人が、こんなところにまで私の行為を止めに来るほど自分は有名ではない……はずだ。
しかし非現実な男だ。碧色の瞳に、毛先がバラバラな髪型と変な服。青紫と灰色の中間色のような髪を持った人間を私は初めて見た。服装は髪と同じような色のコートと縞のズボンにショートブーツ。コートの縁は、金色の糸で幾何学的な刺繍が施してあって妙に目立つ。また、コートの袖からのぞく腕には何種類ものアクセサリを身に付けていて、触れあうたびに金属同士の音が鳴る。地味にしたいのか派手にしたいのか私にはわからない。
おまけに肩には鳥を乗せている。よっぽど鳥が好きなのかただの淋しがり屋なのかは私の知るところではないが、目につくのは間違いない。
なにより、どうやってこの場所に来たのかが謎だった。森を抜けたにしては髪も服も綺麗すぎる。私のボロボロの格好と比べればよくわかる。それに加え、泥の一つも付いていないのは、おかしいを通り越して気味が悪い。
考えれば考えるほど意味がわからないことだらけな男だが、そんなことは私にはどうでもいいことだった。私には関係ない。知る必要も全くない。
私はこれから死ぬのだから。
「なあ」
無言の時間にしびれをきらしたのか、気まぐれなのか、男が再び声をかけてきた。もちろん私は何も答えないし目も合わせない。とにかくこれ以上得体の知れない男と関わりたくはないのだ。私は徹底した無視を決め込んだ。
「お腹空いてないか? なんなら食べていいぜ」
どこに持っていたのか知らないが、男は大きな包みを地面に置いて広げた。中からは大きな箱が現れ、それを三つに分ける。三段重ねになっていたそれの中には、ぎっしりと食べ物が入っていた。パン、肉、魚、野菜、既に調理されたものが見た目も良く収まっている。
男の肩に乗っていた鳥が、そこから飛び降りパンをつまんだ。よほど美味しいのか凄い早さで飲み込んでいく。たまに喉に詰まらせ、男が背中をさすってやっていたが、懲りずに食べ続けていた。慌てすぎだ、と笑いながら注意する男も鳥に負けない早さで食べ物を口に運ぶ。
食べないのか、という男の誘いを何回か聞いたが私は徹底的に無視を貫いた。とにかく関わりたくない上に、これから死ぬ人間が食事なんて馬鹿馬鹿しい。腹など全く空いていない。
「眠くなってきたな」
結局、男と鳥は箱に入っていた全てを食べきった。一般的に考えて一人と一匹が食べる量の倍はあったが関係なかったらしい。
「チーク、しばらく頼むな」
欠伸が混じる声でそう言った後、男は横になり眠ってしまった。規則正しい身体の上下動が見え、かすかな寝息が聞こえる。
代わりにチークと呼ばれていた鳥が私をじっと見つめていた。男が変ならこの鳥も相当変だった。男の髪と同じような色の羽に、獣のような耳の形というだけでも十分変種なのに、獅子のような尾まで付いている。おまけに男と似たようなアクセサリを首まわりに付けていた。
しかし所詮は鳥だ。大きさだって男の肩に乗るほどだ。見た目も、獣の耳と獅子の尾が付いてはいるが、目は丸っこくて怖いどころか愛らしい。
そんな動物が男の代わりに私を見張っているのだ。馬鹿にするにもほどがある。
いや、そんなことはどうでもいいのだ。男が眠っている今が絶好の機会だった。私は立ち上がり、崖の先端に向かって歩き始める。途中、男の横を通りすぎる際に足を止め、起きる気配がないかを確かめてみたが、その心配は全くなさそうだった。何も不安はないとばかりの無防備な寝顔をさらけ出している。
こんな男に邪魔をされてきたかと思うと情けないが、最期に気にするようなことでもない。予定が少しだけ延びただけのことで、今この道を進めば全てが終わる。
(さよなら誰かさん)
私は男に背を向けて、世界と別れるための一歩を踏み出した。
「クルルッ! クルルッ! クルルルルッ!」
木々の葉どころか枝さえも揺らすほどのけたたましい鳴き声が後ろから響き渡り、私は思わず耳を塞いで振り返り歩みを止めてしまった。案の定、男は目を覚ましていて私と目が合う。
男は何も言わない。碧色の瞳が私を貫くだけだ。しかし、無言の圧力とはこういうものを言うのだろう、私は世界と別れることが出来ず、何か見えない力に導かれるようにして、座っていた場所まで戻ってきてしまった。
「チークを甘く見るなよ?」
私が元の位置に戻ったことを見届けた後、男は変種の鳥の頭を撫でながら言った。語尾があがっているのが余計に腹立たしい。
「ああっと悪い、食後のおやつがまだだったな」
ズボンの裾を引っ張って何かを催促していた鳥に対して、男はコートのポケットから何かを取り出した。見たところただのブルーベリーでそれを鳥に渡す。あれだけ食べておきながらまだ胃袋に空白はあるらしい。渡されたブルーベリーをすぐさま嘴でつつく鳥がいた。
しかしブルーベリーの一つくらい一飲みすればいいものを、ちびちびと至高の宝石を堪能するかのように食べている。おかげで嘴とそのまわりは青紫に染まっていた。それでもなお、横にいる男からもっと貰おうと嘆願するかのような鳴き声を出している。仕方ないなと言いながら男がブルーベリーを渡すと、鳥は大事そうに少しずつ食べていく。男も鳥も楽しそうだ。
幸せそうだ。
だんだん腹が立ってきた。私は本気で死ぬつもりでここまで来たのだ。覚悟はついていた、後はただ一歩前に進めばよかっただけだ。それなのに、この男と鳥が邪魔をする!
……本気で腹を立てたのは、感情を意識したのは何年振りだろうか。
気がつくと頬を涙が流れていた。けれど悔しいのではない、悲しいのでもない、情けないわけでもないらしい。泣けば泣くほど心が晴れていくのがわかってしまう。
今まで忘れていた感覚が戻ってきてしまった。あれほど頑なに死を望んでいたはずなのに、生への希求が心の奥深い場所の片隅に芽生え始めていると気がついてしまった。私は一歩を進めなかったのではなくて進まなかった、そういうことだったのだ。
お腹が空いた、眠いし疲れた。身体のあちこちが痛く立っているのも辛い。それなのに心は喜んでいて、涙が止まらない。
少し眠ろう。またあの森の中を抜けなければならないのだ。体力を回復しておくべきだろう。森は簡単な道のりではない、それはおそらく私自身が誰よりもわかっているはずだ。文字通り死ぬ気でここまで来たのだから帰りも死ぬ気で帰ってやればいい。幸か不幸か、死ぬ気でやれば何でも出来るということがわかってしまったのだから。
「……大丈夫か?」
突然泣き出して横になった私を心配してくれたのかはわからないが、男が声をかけてきた。私は初めて男との会話に応じる。
「大丈夫だ……ただ」
「ただ?」
「私は生きているんだなと思っただけだ」
真っ直ぐに空を見つめていると、私を覗き込んだ碧色の瞳と目が合った。さっきまで見ていた瞳と印象が違うのは気のせいではないだろう。男は笑った。
「ああ、あんたは生きている」
心なしか鳥まで微笑んでいるように見えるのは気のせいだろうか。私もつられて口元が緩む。笑ったのはもう何年も前のことだったと思い出しながら、私は眠りについた。
日が落ちてしばらくたった頃、ランプの光を頼りにして私は机に向かっていた。
しばらく集中して作業をした後、コツンコツンとバルコニーがあるほうの窓から音が聞こえてきた。見ると、古い知人が顔を覗かせていたので、私は立ち上がり窓を開ける。
「久しぶりだな。元気そうでよかったよ」
碧色の瞳も、青紫と灰色を混ぜたような髪色も、金色の幾何学的模様が目立つコートも、アクセサリが触れあって奏でる音も、肩に乗っている獣の耳と獅子の尾をつけた鳥の姿も、何もかもがあの時のままで男は現れる。
「全く、バンビは変わらないな。外見もそうだが、無礼なところも直っていない。ここは四階だ、そんなところから進入されたら賊と間違われても文句は言えないな」
「悪かったよ、でもそういうあんたも変わらないな」
あまり悪びれずに、にんまりとするその表情も変わらない。思わず私は頬を緩めてしまう。
あれから何年も経ったのにも関わらず、この青年は外見が全く変わらない。言うなれば不老というものなのだろう。そんな空想世界の存在を目の当たりにしているのだが、私はその事実をすんなりと受け入れていた。おかしな話だと人は思うだろう。現に、私だってこんな話を他人から聞かされたら信じはしない。だがバンビには、そう納得させられる不思議な力が存在するのはたしかだった。
「調子はどうだ」
変な鳥のチークにブルーベリーを渡しながらバンビが尋ねてきた。
「どうもしない。見てのとおりだ」
ただの事実を答えただけなのに、何がおかしかったのかバンビは吹き出した。それに対して少し不快な表情を示すと、弁解するように彼は続ける。
「悪い、いや、本当にいつもどおりなんだなって思ったんだよ。いろいろ大変な噂を聞いたから参ってるんじゃないかって心配していたんだが、杞憂だったみたいだな」
「ああ、たしかに頭が痛い問題もあるがどうにでもなる。それよりもだ、おまえと話すほうが骨が折れる」
バンビは再び吹き出した。少しは皮肉が伝わっていることを願うが、そんな気配は皆無でバンビは笑いながら声を出す。
「さすがだな、あんたは強い。死ぬ気でやれば何でも出来るんだな」
「それもあるが、おまえみたいな奴と付き合えばこうなる」
「ああ、なるほどな」
納得してしまったバンビに今度は私が苦笑する。この青年に皮肉が伝わった例はないし、常識が通じないことも多く、非常に疲れる相手なのは間違いない。だが、不思議とそんな会話を楽しみにしている自分がいることに私は気がついていた。だから今は自然と表情がほころんでいるだろう。
そんなことを思っていると、ドアの向こうから私を呼ぶ声が聞こえてきた。それにいち早く反応したバンビが、私が言うより先に言葉を発していた。
「悪い、邪魔したな」
「いや、また来てくれ。久しぶりにゆっくり話がしたいし、おまえの話も聞きたいんだ」
それは心からの願いだった。
「ああ、また伺わせてもらうよ」
そう言ってバンビとチークは文字通り煙のように消えた。どこへどう消えたのかということは全くわからない。だが、彼はその不思議さも含めて彼なのだ。それを享受出来るほどの年月を私は重ねたらしい。
(ありがとうバンビ、おまえがいなかったら私はここにいないのだからな)
突然やってきては突然帰る気まぐれな友人。いつか伝えようと思いながらも伝えていない言葉を心の中で口にする。いや、今度こそ、次に会った時に伝えることにしよう。
再び私を呼ぶ声が聞こえてきた。先ほどよりも音量が大きい。すぐ行くと返事をして私は部屋を出る。思いもよらない来客で緊張したのか、それとも安心したのか、お腹がとても空いてしまった。
今日の夕食もきっと美味しいことだろう。デザートのブルーベリーは私の大好物だ。
完
「私」の描写は抽象的にとどめました。
読んでくださった皆さまのそれぞれの「私」像を持ってもらえると嬉しいです。