契約と代償と猫と精霊
現在を辛いと嘆くのは
過去の幸せを覚えているから。
誰かをひどく憎むのは
誰かをすごく愛していたから。
すべて消してしまえばいい。
辛さも幸せも憎しみも愛しさも。
すべて忘れてしまえばいい。
自分が誰であるかさえ――
◆◆◆◆◆◆◆◆
「ほら」
少女は目の前に無造作に突きつけられた白い封筒に、キョトンとした表情でその封筒と、それを差し出している青年の顔を交互に見た。
少女の大きなピーコックブルーの瞳と目が合って、青年は気まずそうに顔を逸らす。
青年はこの国の騎士団の制服を身に纏い、腰には見事な装飾の剣を下げている。服の上からでも分かる鍛えられた身体が、青年の騎士としての質を物語っていた。
しかし、封筒を受け取らない少女に、青年はその屈強そうな身体を居心地悪そうにそわそわさせる。
「何かしら、これ」
「何って、見りゃわかるだろ」
青年は少女の手に封筒を押し付けるが、青年の態度に少女は封筒を押し返した。
「な……なんだよ。受け取れって」
「嫌よ」
封筒を押し合う二人。青年の手首にある金の腕輪の止め具が揺れる。
青年と少女は幼い頃からの付き合いで、互いのことなど形にせずともよく分かる。それでも自分の想いを少女に伝えるために、青年はペンを手に取った。少女は本が大好きだったから。
恋をつづった物語や、冒険小説、おとぎ話に出てくる主人公が、お姫様に言うような台詞を探しては、紙の上に並べていった。
喜んでくれると思ったのだ。それなのに。
少女は封筒を青年の胸に押し戻すと、手を背に回してしまった。つい渋い顔をする青年に少女は言った。
「読んで聞かせてくださいません?」
青年をちょっとからかうような丁寧な言葉に、今度は青年がキョトンとする。
「は? 馬鹿、何のために文字にしたと――」
言いかけた青年は、その頬を少女につままれ言葉を切る。
「何かあるならちゃんと言って。この口で」
少女の声が少し怒っているように聞え、顔を曇らせる青年に、少女は青年の手を引きながら傍らのソファに腰掛けた。
「いいでしょ。……あなたの言葉で、聞きたいの」
そう言って頬を染めながら自分を見上げる少女は笑顔で、青年の顔にも優しい笑みが浮かぶ。
青年は自分の手を取る少女の手を握り直し、その隣りに座った。
そして自分の気持ちを少女に伝える。
「俺…………は、…………のことが…………。だから…………………………」
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……。……ャ。……ヤーヤ」
呼ぶ声にヤーヤは目を開いた。
そこに居たのはレースをふんだんにあしらった、純白のドレスを身に纏う可憐な少女。
「……どうしたの、シリヤ」
ヤーヤは体を起こした。
籐の籠に布を敷き詰めたお気に入りの寝床の中で、本を読んでいたはずだったのだが――いつの間にか眠ってしまったようだ。窓の外は薄暗く、傍らに置かれたランプに火が揺れている。
長い黒髪をかき上げると、そこから現れたのはピンとした三角形の獣の耳。耳だけではない。ヤーヤの全身は滑らかな灰色の獣の毛で覆われていて、スカートの裾からは長い尻尾が見え隠れしている。足先も丸く人のそれとは違う。
ヤーヤの見た目は人よりも猫に近いものだった。
ヤーヤはかつて獣になる呪いを自ら望んで受けたことによって、この姿になった。手はまだ器用な人の細い指のままだったが、日に日に猫の姿に近づいていっているようであった。
「目から水が出ているぞ」
薔薇色の瞳でじっとヤーヤを見下ろしながら少女、シリヤは言った。
どこか乱暴で男性的な口調は、華奢で儚げな姿には似つかわしくないように見えるが、実はシリヤは人間ではない。見た目には十を少し過ぎたほどの年齢にしか見えないが、もう二百年生きている精霊なのだ。よって性別の概念はない。透けるような青白い肌は、文字通り向こうが透けて見えていた。
シリヤの言葉にヤーヤは手の甲で目元を拭った。
「あら、本当」
濡れた感触にヤーヤは手を見て、それからシリヤを見た。
「きっと、すごく嫌なことを忘れられたんだわ。泣いてしまうくらい」
ヤーヤとシリヤは契約を結んでいる。
この王国では精霊と契約をすると、彼らの持つ魔法の力を行使する能力を得ることができる。しかし、その契約には制約が付きまとう。それは精霊の持つ力に比例して重くなるものだった。
シリヤは『帰結の精霊』。その能力は【事象の完結】。
上手く使えば酒や発酵食の時間を早め味を良くすることができるなど、とても便利な力だが、触れたものを灰燼に帰す、つまりその物の【最期の形】へ導くこともできる恐ろしい力でもある。
よって、シリヤとの契約の代償も大きいものだ。
【関係の帰結】というその代償は過去の思い出を忘れていく。これまで出会った人との関係性を忘れ、シリヤ以外の対人関係の記憶を保てなくなる。
人にとって思い出とは大切なもの。
人とは誰かと関わりあわなければ生きていけないもの。
自分と契約したいと思う者などそうはいないだろう。シリヤはそう思っていた。
しかし、ヤーヤはそんなことはおかまいなしにシリヤと契約を交わした。呪いをさらに進行させることができるシリヤの力と、過去の思い出を消してしまうその代償が、むしろヤーヤは欲しかった。
ヤーヤは過去を忘れたかった。猫になったのも人でいることと、その頃の思い出を消したかったから。
だからヤーヤはシリヤに感謝している。
「ありがとう、シリヤ」
にっこり笑うヤーヤに、シリヤはどこか複雑な表情をした。
「あ、そうだわ。いけない!」
突然ヤーヤは立ち上がると出掛けるときに着る、濃い灰色のマントを手に取った。
「何をしている」
「何って、今夜はシリヤが見たがっていた舞台の初日じゃないの。『――これは夢か現実か。迷い込んだ幻想世界。人間の王女と神秘の森の妖精王。巻き起こるは一夜の恋の大騒動。どうぞあなたも夢のような一時を――』。楽しみにしてたんでしょ?」
すらすらとヤーヤの口から出るのは、たった一度、街で見かけただけの張り紙に書かれた触込みだ。ヤーヤは目にした文字は忘れない。
一言一句、間違えないそれに感心しながらも、シリヤは首を振った。
「今夜はいい」
「いいって……あんなに見たがっていたじゃない。それに、舞台とは初日と千秋楽の両方を楽しむべきなのだって、いつも言ってるのに」
「今夜はやめだ」
頑ななシリヤにヤーヤは膨れた。
契約者と精霊は通常、ほとんど行動を共にする。ヤーヤは人の多いところは好きではない。でもシリヤが劇や音楽が好きなのも知っている。だからこうして誘っているのに。
「いいわ。シリヤが出掛けないっていうなら私、もう寝てしまうんだから」
「ああ、そうすればいい」
いつもは「寝てばかりいるな!」とか「せっかくの公演に遅れるだろ!」などヤーヤを振り回すシリヤだが、今夜は本当に出掛けないつもりらしい。
窓辺に座り外を向いているシリヤにヤーヤは「いーっ」と歯を剥くと、シリヤに背を向け寝床で丸くなった。
どのぐらい経っただろうか。
耳をすませば、すぅすぅという規則正しい小さな寝息が聞えてくる。
窓の外はザワザワと木々が風に揺れているが、その空には星一つない。
シリヤはヤーヤを振り返った。その目に映ったのは尖ってはいない人の耳。長い尻尾は姿を消して、スカートから伸びる細い足も、獣のものではなく人のそれだ。
「今宵は暗月だ馬鹿者」
今夜はヤーヤが捨てた大嫌いな人の姿に戻る、月のない夜だった。
ブランネージュ城の屋根裏部屋であるここには誰も来ない。それでもシリヤはヤーヤの姿を隠すように毛布で包んでやる。
そして呟いた。
「……ヤーヤ。お前、猫になるのが嫌だ、とは思わんのか?」
人だった頃の記憶はすでに、だいぶ亡くしてしまったはずだ。自分の名前すら、していた腕輪に刻まれた文字から取るほどに。
シリヤの力【事象の完結】はヤーヤの呪いを『導く』ことができる。しかし実は、その呪いを『そこで終わらせる』こともできるのだ。
だが、シリヤはヤーヤにそれを言っていない。ヤーヤがそれを望んでいないから。
ヤーヤはシリヤが二百年生きてきた中で、初めての契約者だ。
シリヤとヤーヤの性格はかなり違う。
ヤーヤは面倒くさがりだし、かなりの引篭りだし、いつも寝てばかりだし、綺麗好きな自分と違って掃除が苦手だし、片付けてやってもすぐに散らかすし、呪われてるというのにマイペースだし――。
それでもやっぱり、それなりに……ヤーヤのことは気に入っているのだ。
気に入っている者の悲しむ顔は、見たくない。
このままヤーヤが、ミャーミャーと鳴くことしかできない、四つ足で歩く小さな獣になってしまうつもりなのか、自分はそれをただ見ているつもりなのか、分からない。
シリヤは寝ているヤーヤの顔を覗きこむ。その目に涙はなく、穏やかな寝顔にホッとする。
「おやすみ、ヤーヤ」
せめて今はいい夢を。
シリヤが手を振るとランプの火が消え、部屋は漆黒の闇に包まれた。
END
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
絵バージョン