第十変態「早退だよ!林田くん!」
「おはようさん」
と、耳に慣れた声が背後から聞こえ、振り返ると、予想通りの人物が右手をぱたぱたと蠅を振り払うような仕草をしながら、笑っていた。
「おはよう」靴箱に泥のついたスニーカーを入れながら定型的な返事をする。
「雨なんて参るよな、ったく」財前が機嫌悪そうにぼやく。「こりゃ今日は中止かな」
「え? なんで?」財前の諦めの早さ、というよりも潔さに驚き、声が裏返った。
「雨の中、捜すのに付き合わすのは流石に悪いし。つーか何か考えてきてくれたの?」
「…すまん」
財前は一言全てを悟ったような、そんな表情を一瞬だけ露にした──ような気がした。肩を軽くあやす様に叩きながら「いいって、いいって」と優しく言った。
教室へと向かう何の変哲もない屈折のような階段が、複雑な螺旋階段のような感覚に襲われ、それが頭痛だったことに気が付いたのは、保健室のベッドの上だった。
睡眠不足が直結的な原因なのだろうか。覚醒しながら、考えると頭痛が更に威力を増していく。
薬──。
誰かいないのか──?
「林田くん? 林田俊吾くん?」
膜がかった視界に、徐々にはっきりとした輪郭が映る。輪郭の主は唇を曲げながら、耳付近の髪をばさっと自らの細く白い指でかきあげた。
「先生?」
「よかった。起きたのね」
はい、と短い言葉を返すと白衣をまとった女性教師は「良かった、よかった」と繰り返し間延びしながら胸を撫で下ろした。
「すいません。あの…俺、倒れたんですか?」
「そうよー。財前?」頭を傾げる。どことなく恍けているように見えた。「が、運んできてくれたの。『こいつ! 俺のせいで…!』って大騒ぎ。びっくりして持ってたビンを落としちゃった」
身体を起こし保健室を軽く見回してみると、確かに割れたビンの破片と思われるガラスがちらほらと床に落ちていた。液体のようなものも点々と雫のように落ちているが放置しても大丈夫なのだろうか。
「大丈夫よー。ただの虫刺されの薬だからね。布巾がなくて拭けないの」
「そうですか」
「…で、どうする? 早退する?」
壁にかけたれた時計を見ると午前十時を回っていた。思案せずに答えは出た。「早退します」
はっきりとした口調は、元気があると取られたのか女性教師は意外そうな顔をした。そして、「ふーん」とわざとらしくニヤつきながら、こくんこくんと何度か頷き、ベッドから離れたかと思うと、ファイルや花瓶などの置かれた机へと歩いていった。椅子に座ったかと思えば、一分も経たないうちに立ち上がった。再びベッドに来て、手に持った薄っぺらい紙を目を合わせながら渡してきた。
「何があるか知らないけど。…行ってきなさい!」
『早退状』と書かれた紙を受け取り、そそくさと帰り支度を整える。
ドアに手をかけ、「先生」
「なーに?」意地悪そうな顔だ。
「大人って何でもお見通しなんですね」
「…そうね。少なくとも生徒よりは、ね」
出来る限りの笑顔を返し、保健室を後にした。ドアを閉じた保健室から「頑張るのよー」と軽快な声が聞こえた。
誰にも会いたくなかった──。
『早退状』を担任に提出しなければ、早退は原則不可能だが、そんな余裕のある行動をする気はなかった。くしゃくしゃに丸めた『早退状』を制服のポケットにねじ込む。ポケットには既に先客がいたが気にしない。同じ紙のようなものだから大丈夫だろう。
昇降口は空いていた。と、いうより人っ子一人いなかった。まだ授業中なのだ。当たり前だ。
自分の靴箱の手前にある下級生の靴箱が並べられた場所に行き、目的の靴箱を開くと、上履も靴も入っていなかった。予想通りだった。
踵を返し、自分の靴箱を開き靴を取り出すと、乾いた泥が土となって落ちた。粗暴に靴箱を閉めた。自分の出席番号よりも前にある仲良くならんだネームプレートを睨みつける。
斉藤──。
財前───。
舌打ちをし、足早に学校から抜け出した。今朝、財前のぼやいた雨はすっかり止んでいた。
学校をサボタージュして、向かった先は斉藤の家だ。
肩で息をしながら、躊躇せず呼び出しベルを鳴らす。ピンポーン、と調子外れな音が響いた。
予想通りだが、反応が全くないのは苛立つ。
それでも何度も何度も、ベルを──鳴らす。
感情とは正反対に神経質な指先を使い──鳴らす。
訝しげな視線を背中にびしびしと感じる。暇な買い物途中の主婦の目には異常者に映るのだろうか。
朝は雨雲に臆していた臆病者の太陽も顔を出し、体を焦がそうとしている。調子に乗るな、と言いたい。
ベルを鳴らす回数が三桁に達するか、達しないか──苛立ちはピークに達し、大きく息を吸った。『もういい、直接呼ぶしかない』
「望美! 出てこい!」
引きこもってんじゃねえ! とも叫びたかったが、流石にそれは控えておいた。
望美──。
そうだ。引きこもっているのは望美だ──。
弘樹じゃない──。
上着のポケットに手を入れ、枯葉のようにくしゃくしゃになった例の紙をぐっと握った。
「先生。俺だってお見通しなんだ…」
―──続く。 |