異郷
いつの頃からか“酒宮番”という言葉が編集者の間で当たり前に通じるようになっていた。
酒宮というのはつまり、あのライトノベル作家酒宮播州先生のことである。
細い身体の何処に入るのか知れないが、播州先生は夜の街で酒を浴びるように飲み、ご相伴に与る編集者の側も並大抵の酒豪では追いつかない。
彼がその名の如くに兵庫の山奥から上京してくるという報がもたらされると、編集部に震え上がらない人はなかった。
三軒四軒と梯子して雄鶏が時を作るまで帰宅も叶わないということになれば“酒宮番”に立候補する者は次第になくなる。酒精に滅法強いと社内でも評判の人間がその任に当たるのが通例となっていた。
「吉田君、困ったことになった」
ある日の夕刻のことである。私は喫煙室に呼び出され、編集デスクから懇願するような哀調で話を切り出された。
年上の部下である私を扱いにくそうにしている普段の彼からは想像もつかぬような調子に、私は一瞬で何が起こったのかを察した。
「酒宮番ですか」
「そうだ」
酒宮先生もお気に入りだった社内随一の蟒蛇であるところのU女史は先日、目出度くも寿退社した。編集部総出で慰留したのだが、思うところあって家庭に入るのだという。
そう言われてしまえば強くも言い出せず、次の酒宮番を誰にするかという問題だけが宙に浮いていた。
かくて我が社の編集部に於いて、私は紅一点と成り遂せたのである。
「しかし、酒宮さんは先日上京して来たばかりではありませんか」
「どうやらK社が新しく仕事を依頼しようというらしい。また、異世界モノだということだ」
「ああ、それは」
酒宮播州の異世界モノに外れは無い。
デビューからもう随分になるが、異世界モノを書けば必ず当たるのだ。
試しに他の分野の物を依頼したこともあるのだが、そちらは鳴かず飛ばずであったのだ、余程異世界に縁があるのだろう。
K社での異世界モノが大いに売れることとなれば、我が社と酒宮先生との蜜月もそこで終わってしまうかもしれない。
そうなれば由々しき事態である。
今夜の酒宮番は、何としても成功させなければならない。
「そういう訳で、是非とも吉田君に酒宮番をお願いしたいのだ」
「承知しました」
月の綺麗な晩だ。
街灯も要らぬほどに明るい夜道を歩いていると、F社の担当者が情けなく崩れ落ちた。
今日の酒宮先生は、ペースが速い。
もうすぐ明るくなる頃合いだが、七軒は回ったか。K社のキレイドコロは事情をよく呑んでいなかったのか、二軒目で戦闘不能に陥るという体たらく。
残るは私と酒宮先生だけとなった。
「編集さん、お強いですね」
「呪いがあるのです」
親に教わった呪いさえ使えば私は酒に酔うことがない。
これまでに一度も二日酔いに悩まされたこともないのだ。
ではなぜU女史のようにザル扱いされないかと言えば、それにはちゃんと理由がある。
「しかし、酒がお嫌いな様だ」
「よく分かりますね」
「見ていれば、分かります」
そう言って酒宮先生は人のよさそうな顔でくしゃりと笑った。
私が社命でここに来ていることを汲んでくれたのだろう。
「すいませんが、もう一軒だけお付き合い願いますよ」
諾否も聞かず、酒宮先生は立食い蕎麦の暖簾をくぐった。
まだ店を開けたばかりという風情の店で、他に客の姿は無い。
私がワカメそばを頼むと、酒宮先生はいつも通り月見そばを〆に選んだ。
店内を湯のたぎる音と、古い歌謡曲の哀切な声だけが満たしている。
「酒宮さんの異世界モノは、どうしてあれほど面白いのでしょう」
煙草を取りだした酒宮先生に魔法で火を点けてやりながら、私は尋ねた。
先生の描き出す世界には、魔法がない。
魔法がなければさぞかし困るだろうと思うのだが、どういう訳か先生の世界はきちりと整合性がとれているのだ。
運ばれてきた月見そばに手を合わせ、酒宮先生は割り箸を割った。
「貴女は、どうしてだと思います?」
「先生が勉強熱心だからでしょうか?」
魔法の使えない世界の話を得意とするのに、酒宮先生の魔法書蒐集癖の凄まじさは業界では知らぬ人がいない。
一冊百万もする稀覯本でも、先生は全く見境なく買い集めるのだ。
「魔法書を買っているのは、お話を書くためではありませんよ。魔法書を買うためにお話を書いていると言ってもいい」
「そうなんですか?」
「ええ、私は、魔法の無い世界から来たんですよ」
ズズッと汁を啜りながら、先生は奇妙にはにかんだ笑みを浮かべて見せる。
何と応えていいのかわからず、私もワカメそばに手を付けた。
濃い味の出汁が、一晩呑み続けた身体に優しく沁みる。
「信じていませんね?」
「ああ、いえ、思いもよらない話ですから」
そういえば、先生の前半生は謎に包まれている。
その方が売り出しやすいということもあって、出版社の方でもあまり気にしていなかった。
「こちらで成功して、どれだけ幸せな生活を送ってもね、不意に帰りたくなるんですよ」
「そういうものですか」
「ええ、そういうものです」
酒宮先生は丼に浮かぶ月を見つめ、か細い声で詠嘆した。
聞いたことのない短歌だ。
「“天の原、ふりさけみれば春日なる、三笠の山に出でし月かも”」
「先生の作ですか?」
「いえ、元の世界の有名な歌です」
歌の意味は分からないが、どこかしら望郷の匂いのする歌だということだけは、私にも分かる。
最後に残しておいた黄身を啜ると、酒宮先生は二人分のそば代を置いて何も言わずに店を出て行く。追おうという気も起きない程、自然な所作だ。
私は、その背中にかけるべき何の言葉も持っていないのだった。