閉じた過去
長谷川先生の目は、じっとこちらを見据えていた。逆光の影響で、先生の顔は見えなかったけれど、その目を私は知っていた。その私は、その目に答えることもなく下を向いていた。<もう何度、同じ状況になっただろう>私はじっと、考えた。
それから暫くして、あきらめたのか、疲れたのか、先生は長く息を吐いた。
「答えはない、と言いたいの?」
私は何も答えない。その質問の答えもないからだ。
「もう、いいわ。分かった」
「失礼しました」
私はそういって、早足でドアに向かった。一刻も早く、逃げたかった。
「でも」
先生の良く通った声が私の足を止めた。
「でも、答えがないなら、緑林大学保育科にずっといる理由もないってことよ」
私はまた下を向く。<理由…。分からない>
「意味は、分かってるでしょう?」
「失礼します」
先生に届いたかは分からないような小さな声で、一応言った。急いでドアを開けようとすると、ノック音が響いた。
「どうぞ」
ハスキーな声が再び響く。ドアが開くと私は一目散に出て行った。入ってきた人とぶつかった気もしたが、関係なかった。
とにかく、逃げて、逃げて。
夕日の綺麗に見える、渡り廊下に来ていた。「緑林大学保育科 前原岬」と書かれたネームプレートが、音をたてて床に落ちた。その音が、空しいほどに、よく響いた。
<どうしたもんかな>長谷川直子は、学生から資料をもらいながら考えていた。無論、前原岬のことだ。考えるほどの生徒といっても、別に成績が悪いとか、問題行動を起こしたとかそういうのではない。特に成績はトップクラスだし、このまま行けば無事に卒業できるだろう。卒業後の希望進路は保育士。それも、十分にこなせるだろう。しかし、周りの学生に比べて、目の輝きが少ないのだ。ここは保育科ともあって、大学卒業後は就職希望が多く、そのための大切な時間なのだ。それなのに、どこか気だるそうで、ヤル気のようなものが欠けているのだ。
そこまで考えて、資料を届けに来た生徒がまだ帰っていないのに気がついた。
「あれ、どうかした?」
その生徒は保育科には珍しい男子生徒だった。保育科に男子生徒は五,六人くらいしかいない。
「あの、僕のレポートを今日、返していただけるはずなんですけど」
「あぁ、そうだったよね。ごめん、忘れてた」
「だったら、明日また取りに来ます」
「待って! 確か、あるはずだから。そのソファーに座ってて」
長谷川は急いで、紙の山と化した机の上を漁りはじめた。
「おかしいな…。ここら辺に置いておいた筈なんだけれど…」
「ありませんか? だったら、やっぱり明日で…」
「あった、あった! これだよね、[保育科 津村ひろと]」
「はい。ありがとうございます。」
窓辺においてある大きな椅子に、長谷川は腰掛けた。すると、横に連なっていた山脈(紙脈?)が崩れだした。長谷川も止めようとしたが、ついには床に広がってしまった。
「あっちゃー。ひどいなあ、これ」
ひろとが小さく笑った。
「手伝いますよ」
ひろとと長谷川は床にしゃがみこむと、丁寧に拾っていった。
「悪いね、本当に」
「いいえ。あの、明日には実習が始まるんですよね?」
「そう。明日は班員の発表とか、会議とかで実習らしいことはないだろうけれどね」
「楽しみだな。ついに、夢に近づいたって感じがします」
「そうそう。そのやる気が大切。頑張ってよー」
「はい、頑張ります」
その後も紙を拾い続けて、結局最後の一枚を拾った頃には、夕日は沈みかかっていた。
「いやー、お疲れ様。つき合わせて、悪かったね」
「いえ。これで失礼します」
「ご苦労様!」
ひろとは元気よく、礼をして退室していった。<あれくらいの目の輝きが欲しい>長谷川は椅子に座ってなおも考えていた。
次の日は、四月にしては暖かい日で、登校中に見かけた生徒の中には半そでの生徒もいた。その半そでの中に知っている顔を見つけ、岬は走った。
「ちあきー」
名前を呼ばれて、ピクリと動いて日比ちあきは振り返った。
「おはよう、岬」
「おはよう。ちあき、何だか今日は早くない? いつもはギリギリに来るのに」
「ほら、だって今日は実習班の発表でしょ! うかうかしていられないよ」
「そんなに期待することもないでしょ。私とちあきと真実さんは同じ班って決まってるんだし」
「もう、岬。考えてみなよ。班は四人で構成って資料に書いてあったでしょ。大切なのは、あとひとりが誰かってこと」
「あぁ、ナルホド」
「どう? 岬もドキドキしてきた?」
「うーん…。そうでもない」
「岬はさ、冷静なんだよ。ないかなー、期待みたいなの」
「誰がいいと思ってるの?」
「決まってるでしょ、津村くん。これで同じ班になれたら運命だよねー」
「運命ね…」
周りを見渡してみると、意外と賑やかなのが分かる。<私、おかしいのかな>岬は一瞬、本気で考えた。
ちあきの言った通り、実習班の発表がされるホールはいつも以上に賑わっていた。岬が時計を確認すると、まだ発表まで十五分もあった。もともと騒がしいのが得意ではない岬にとって、これほど居辛いことはなかった。とにかく、目の前のちあきの腕を引っ張った。
「ちあき、私、外で真実さん待ってる」
「えー、私、一人?」
「こういう所はどうも苦手で」
「しょうがないな。一緒に外に行くよ」
立ち話をしている学生たちを避けながら外に出ると、岬は生き返った心地になった。
「なっさけないなー、岬。女の子なら、ああいうのになれないと」
「人には、向き不向きがあるの」
「関係ないでしょ」
「うるさいなぁ」
二人が言い合いをしていると、「みさきー、ちあきー」という声が聞こえた。大声の張本人、只野真実は長身な為か、異様に目立った。真実は周りから「真実さん」と呼ばれている。岬やちあきが現役合格の二十一歳に対して、元々違う大学にいたが、保育科のあるこの大学に入りなおしたため、二十三歳と少し上なのだ。それに加えて、姉御肌な性格なので、保育科ではかなり顔が広い。
その真実は、ホールの中を覗いていたが、顔を曇らせた。
「うわぁー。めんどくさいな、こういうの。ちあき、岬、ここに居ようよ」
「あれ、真実さんも賑やかなのは苦手? 私は平気だけど」
「苦手っていうか、性に会わないの」
すると、ホール内が一層騒がしくなった。真実は耳をふさいだ。
「うるさいなー」
「あぁ、発表始まったんだー」
ちあきが顔をほころばせた。
「ちあき、見てきてよ。私、見てこれる自信ない」
耳をふさいだまま、真実が大声で言った。
「分かった。あー、ドキドキするぅー」
ちあきは、小さめの身体を翻し、ホールへ入っていった。
「はー、いいね、若いってのは」
岬は思わずその言葉に、思わず吹き出した。
「真実さんだって若いでしょ。たった、二歳の違いだよ」
「そうなんだけどね」
真実は苦笑しながら答えた。
「そういえば。見たよ、岬。昨日、彼氏君と帰ったでしょ」
「どこで見たの?」
「岬のアパートの近く。たまたま買う物あってさ、本屋寄ったの。そこで」
「運悪かったなー」
「あの彼氏君って門でよく見るけど、あれって岬のこと待ってたんだね」
「彼氏君じゃないの」
岬は不服そうに言い返した。
「え、じゃあなんなの?」
「知人」
「嘘。岬がそう思ってても、男はそう思ってないんじゃない?」
「どうだろうね、よく分からない」
「そういえば…」
真実がそう言いかけた所で、ちあきが戻ってきた。周りの学生から浮くほど、深刻な顔をしている。真実が眉をひそめた。
「どうした?」
走ってきたのか、ちあきは呼吸を整えながら二人のほうを見た。
「今、見てきたの」
「知ってる」
岬が即答した。
「もう一人、岬と私と真実さんともう一人はね……津村君だった」
「ツムラくん?」
二人の声が重なった。
「私の運命の人!」
ちあきが普通に言った。岬と真実は思わず顔を見合わせたが、真実がひらめいたように言った。
「あ、ちあきが好きな人!」
「違うよ、運命の人!」
ちあきが頬を膨らませて反論した。
「運命の人ってそんな」
岬が笑った。するとちあきは真剣な顔をした。
「馴れ初めは、大学の入学式」
「馴れ初めって…」
真実が苦笑した。
「私が家から大学に行こうとしたら、家の近くって言っても、大学の裏で迷ってたの。だから、津村君を案内してあげたの。普通はそこで終わりでしょ。でも、その後の入学式で、席が隣だったの! つまり、受験番号が隣だったの!」
「それで?」
岬が苦笑しながら聞いた。
「それだけ。そして今日、同じ班に…」
ちあきの馴れ初め話が終わった頃、長谷川が声を掛けてきた。岬は一瞬緊張したが、一応作り笑顔で通すことにした。
「何してるの? 三人は第三実習室で対面会でしょ。時間、なくなるよ。」
「あっ、忘れてた。今すぐ、行きます」
三人は実習室に向かって、走っていった。
第三実習室には既に津村ひろとがついていた。三人は待たせたお詫びもほどほどに席に着いた。早速、真実が司会となり、自己紹介が始まり、一通り紹介やら説明を終えると、ひろとは急ぐらしく帰っていった。ひろとの足音が聞こえなくなってから、真実がちあきを横目に見ながらいった。
「ちあき、ニヤつきすぎ。引かれるよ」
「しょうがないよ。直せないんだもん」
「そうだ、さっき私始めて知ったんだけど、岬の彼氏について、ちあき知ってる?」
「彼氏じゃないよ」
岬が即答した。
「知ってる。あの…よく校門のところに車止めてる人でしょ?」
ちあきが思い出すかのように目を細めた。
「ねえ、岬? 彼氏じゃないなら、私、貰っちゃおうかな?」
「いいよ、別に」
真実がふう、と息を吐いた。
「その人、なんていう名前なの?」
興味もなさそうにちあきが聞いた。
「八坂栄太さん」
「年は?」
「えーと…。確か、二十四歳だったかな」
「何やってる人?」
真実が重ねて聞いた。
「出版社に勤めてる。お父さんが、銀行の幹部なんだって。だから後々には銀行に勤めるみたい」
「うわー、最高じゃん! 岬、チャンスだよ! その…栄太さんって人と付き合ったほうがいいって! ううん、むしろ、結婚したほうが良い!」
「んもう…。やめてよ、真実さん」
岬がプイッと横を向くと、見知らぬ学生が入ってきた。
「あのー、木藤岬さんっていらっしゃいますか?」
ちあきと真実は首をかしげた。
「あの、木藤じゃなくて前原ならいるけれど…」
真実が怪訝そうに言った。
「あれ、木藤って聞いたんだけど」
学生は戸惑ったように下を向いた。
「それ、私だよ。気にしないで」
岬が少し固い笑顔で制した。
「それで? 私に何か用?」
学生はホッとしたのか、笑顔で言った。
「南新一さんって人が、カフェルームで待っています、って」
そのとき、明らかに岬の表情は固くなった。その顔を見て、ちあきと真実は不安になった。
「分かった、今から行くから」
荷物をサッとまとめると、岬はまだ少し固い笑顔で二人をふり返った。
「じゃあね。また、明日」
「じゃあね。」
一応返事はしたが、岬の暗くて悲しげな表情が真実の頭の中でずっとまわっていた。 |