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あたらしいおかあさん

作者:

『なあ健太。新しいお母さん……欲しいか?』


 おとうさんの言葉はいつまでも僕の頭の中に残っていた。

 タコのように顔を真っ赤にしていたおとうさんが言ったことなので、しんけんな質問なのかどうかは分からない。おとうさんは酔っぱらうとおかしいことばかり口にするのだ。

 でも、あのときのおとうさんの顔はいつもとちがっていたような気がする。顔はこうちょうしていたけど、ひとみは悲しそうに下を向いていた。


 ぼくは健太。今年で十歳になる。

 おとうさんはサラリーマンをしている。子供のぼくにはどんなことをしているのか分からないけど、きっとえらい仕事をしているのだろう。だって、前に知らないおじさんがぼくのうちにやって来たときに、おとうさんに何度もおじぎをしていたから。おとうさんのことを、「カカリチョー」って呼んでいたしね。


 おかあさんはいない。ぼくが小さいときに死んじゃったらしい。


 おとうさんの言葉はぼくの頭から離れてくれなかった。フライパンにこびり付いたやっかいな汚れのように――ぼく、ちゃんと料理も作れるんだよ。すごいでしょ――どんなにゴシゴシこすっても落ちてくれないのだ。


『新しいお母さん……欲しいか?』


 ぼくはがんばって考えてみた。おとうさんの言葉は、何を意味しているんだろう?

 まず思ったのは、ぼくのためなのではないか、ということだった。自分とふたりっきりで暮らしているぼくを見て、寂しがっているのではないかとおとうさんは思ったのだろうか。

 もしそうであるなら、心配はいらないよ。

 寂しくないと言えばうそになっちゃうけど、どうしても欲しいなんて思わない。おとうさんがいてくれれば、ぼくには十分なのだ。

 ぼくがすいりするに、寂しいのはおとうさんなのだと思う。

 おかあさんがこの世からいなくなってしまったとき、ぼくはまだ何も分からない子供――今も子供だけど――だった。でも、おとうさんはちがう。おかあさんを失ったときの心の痛みは、ぼくにはそうぞうができないほどだったのだと思う。

 おとうさんは、ぼくよりも、もっと多くの時間をおかあさんと過ごしてきたのだろう。初めて出会った日のこと。最初のデートのこと。結婚しようと打ち明けた日のこと。ぼくが生まれたときのこと。おとうさんは、今でもはっきり覚えているはずだ。おかあさんの顔と一緒にね。

 だから、おとうさんは寂しいんじゃないかってぼくは思う。

 おかあさんが死んじゃってから何年も経った。そのあいだに、おとうさんもちがう女の人と出会っただろう。おかあさんのことを好きになったように、その人のことを好きになってもおかしくない。もしもその人とおとうさんが結婚をするなら、その人が、ぼくにとってのあたらしいおかあさんってことになる。

 きっと、おとうさんはいろいろと悩んでいるのだろう。ぼくのことを考えて。

 ある日、夜中に起きちゃったとき、おとうさんがすごくむずかしい顔でいすに腰掛けているのを見たことがある。


 一日かけて考えて、ぼくの気持ちは決まった。

 仕事を終わらせて帰ってきたおとうさんに、ぼくは玄関で言った。


「ねえ、おとうさん」

「なんだ?」


 背広を脱ぎながらおとうさんは答えた。


「おとうさんの好きにしていいよ」

「えっ?」

「……あたらしいおかあさんのこと」


 おとうさんは目をみひらいた。そして、はっと気付いたように、口を「あ」を言うときみたいに動かした。昨日の晩のことを思い出したのだろう。


「おとうさんのことは、きっとぼくにも関係があることなんだと思うよ。でもね、それよりも先に……それはおとうさんの人生のことなんだから。ぼくのことはあまり気にしないで、おとうさんが決めていいよ」


 しばらく、おとうさんはあっけに取られたように口をぽかんと開けたままだった。そして、仕事のかばんをどさっと落としてしまった。


「け、健太……」


 やっと口にした言葉は、ぼくの名前だった。


「本当にいいのか?」


 少しひとみがうるんでいるおとうさんを見て、ぼくはにこっとほほえんだ。

 それから、「うん」と首をたてに振る。


「それで、どんな人なの? あたらしいおかあさんは」

「ここにいるよ」

「へっ?」


 ぼくは顔をきょろきょろ回す。

 でも、ぼくとおとうさん以外、この家には誰もいない。


「俺……いや、私よ。健太」


 ぼくは顔を上げた。


「……え?」

「健太にはまだちゃんと言ってなかったのに……やっぱり分かるのね。親子なのね」

「どういうこと?」

「私はね、小さいときからずっと自分の性に疑問を持っていたの。お母さんに出会ってからも、健太が生まれてからも、ずっとね。健太にはまだ分からないでしょうけど、性同一性障害っていうらしいわ」


 おとうさんは胸に手を当てて語り続けた。


「私ね、お母さんがいなくなってから長いあいだ迷っていたのよ。このまま男として生きてゆくべきか、いっそのこと、お母さんの代わりに女になろうかって。でも、今の健太の言葉で踏ん切りがついたわ。私は、女として生きていく」


 おとうさんはぼくを抱きしめた。そして、ぼくの顔におとうさんの顔をこすりつけてきた。ぼくのほおに、ヒゲがちくちく当たる。


「……今日から、私が新しいお母さんよ」


 うーん……。できることなら、あたらしいおとうさんも欲しいかな……。

 あたらしいおかあさんにきつく抱きしめられながら、ぼくはそんなことを思った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公視点でひらがなを多用されているのだと思いますが、それでもさらりと読みやすかったです。 [気になる点] 表現が少し寂しい感じでした。短編なのでしかたのないこととは解っていますが。 [一…
[一言] まだ子供なのに、健太くんの父親に対する思い遣りがとても深く、しっかりした印象があり良かったです。  とてもシリアスな部分があるため、最後のオチは意外で……疑問が気になりました。健太くんの本…
[一言] そうきたかぁ!って感じでした。 面白かったです
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