聖ヨハネ高校を後にして、高校の頃よくふたりで行った長谷寺へ向かった。
鎌倉には沢山の社寺があり、季節の花々は競うようにが美しく咲き乱れ、観光客を楽しませる。
事におれなんかその時々で、それを描き留めたくて仕方がなくなるから、リンとこの辺りを散策するとなると、必ずスケッチの為の時間を食うことになる。
リンはそれを咎めることもなく、また気にもしないように、おれが夢中で絵を描いている間、隣りで本を読んだり、音楽を聴いていたり、「ちょっとぶらっとしてくる」と、言って、適当に時間を潰してくれたりするから、こちらも気を使わずに思う存分スケッチが出来た。
思えば、あれもリンの思いやりなんだろう。今になって気づいた自分に少し呆れた。
長谷寺の高台にある見晴台から見る鎌倉の街と、その向こうに広がる海の風景もおれにとっては見慣れたものだった。
リンと一緒の時も、リンと離れてからもひとりで何回もここへ来た。
来るたびに感じるものは異なっているけれど、変わらぬ景色であり続ける有り難さも今のおれにはなんとなくわかる気がした。
だが、どうだ。今日ここでリンとふたりで眺める海と空の清清しさったら、絵に描きようもないじゃないか。
ひとり、惨めな気持ちでここに立っていたあの時のことさえ、良い思い出に笑い飛ばせる気がする。
おれはリンと再会してからずっと気になっていたことを尋ねた。
リンがおれに対して、別れた事への負い目を持っていると…感じていたからだった。
おれはリンの性格からして、そんなことを気にするタイプではないと思っていたから、再会したリンが常におれに気を使い、自分を責めているような表情をふと浮かべたりするのが気になって仕方なかった。
おれへの愛情が自分が離れた負い目から来るとは思えないが、もしそんな気持ちがリンの中にあるのなら、おれだってそういう目でおれを見て欲しくない。
だから、「全部許す」と言った。
おれはリンに幸せになって欲しいって願っている。
これだけは間違いない真実だし、その為ならおれに出来ることはなんでも…と、思ってしまう。
そう思わせてしまうものがリンにはあるんだ。
おれがこれだけリンに拘るのだって、ただリンが愛していると言ってくれたからだけじゃなく、おれがリンを愛して、彼を誰にも渡したくなくて、おれのものにしたくて…
だから、おれは…絵を描き始めてんじゃないのか?
結局、おれだってエゴイストには違いないんだ。
生まれた時からリンの傍にいて、彼を育てた慧一さんがリンを愛した事を、血が繋がっているからと誰が咎めることができよう。
慧一さんにとっての宿命の者がリンだったってことだ。
そして、おれにとっても…リンは…ただひとりの…
「それで…俺たちはこれからどうするんだ?」
慧一さん以外とはセックスなどしてくれるな、と言うおれの横暴な願いを、リンは素直に聞き入れてくれた。
「俺の想いは変わらない。だが、ミナは慧一を悲しませたくないと言う。なら、俺とミナの間にもセックスは存在してはいけない…と、言う風にも捉えられるんだが…ミナはそれを望んでいるのか?それとも…過去を慈しむ友達として、付き合っていく?」
どんな顔をしても見惚れるほどのきれいな顔で言うリンの言葉は、許しを得た所為か、容赦がない。
結局はそれが問題なんだ。
おれ達が今後、どう付き合っていくのか…
住む所は違えても、これからだっておれとリンが会う機会はあるだろう。
お互いにパートナーだっている身だし、大概大人なんだから、よくよく考えるまでもなく、普通の友人として付き合っていくことが、最良の選択であるはずだ。
…おれとリンが友達になる?おれとおまえの間に、一度だって友人だったことがあったか?
じゃあ、これからもこういう秘密めいた関係を持ち続け、優しい人たちを傷つけても愛し合っているのなら仕方がないと開き直り、恋人として続けていくのか?
それとも…全くの見知らぬ者同士に?
黙りこんだおれにリンは何も言わなかった。
しばらくして咳をひとつしたリンは、おれの手を取り「海に出よう」と、歩き出した。
そのままリンはおれの左手を握り締め、自分のコートに突っ込んだ。
「手袋忘れたからな~こうしてる方がお互いあったかい」
「うん」
境内にも道すがらにも人目があった。
だけど、リンはおれの左手を離そうとはしなかった。 おれも、離したくなかった…
海沿いに出て134号線の歩道を歩く。
頬を撫でる潮風も、雲ひとつない天気の所為か、じんわりとあったかい気がした。
「ミナのご両親は元気?」
「うん、元気だよ。親父はまだ現役だけど、母さんは社交ダンスに嵌ってね。休日は父さんも借り出されて、レッスンにつき合わされている。映画の影響だね。相変わらずミーハーな母親だ」
「良い事じゃないか。理想の夫婦だよ」
「だけど…おれは両親に何も残してやれないから…少し、罪悪感を感じるよ」
「さっき罪をすべて許すと言ったミナにしては、弱気だね」
「だって、おれの後に残す家族はいなくなるんだもの。責任を感じてしまうよ」
「戸籍上の家系を継続させたいのなら、簡単だ。気に入った奴でも親戚の子でも養子にすればいい。ただ、家族の継続とは何か…と、考えると…」
「…と?」
「なんの意味もない。血族を繋げたいから?財産を継承させたいから?それになんの意味がある。もし、誰かに譲りたいものがあればそうすればいい。それが継承だ。もし血を繋ぎたいなら、色々な方法を講じて子供を作ると良い。家族の解釈も多種多様だからね。だけど、俺は、結局は絆だと思う。相手を思いやる愛情だよ。おまえが言った許しだよ。それがあれば、家族は幸せだ。もし途絶えても、誰がそれを恨むもんか…おれはそう思うよ」
「…」
「それはそうと少し喉が渇いたな…どっかカフェ…あ!見ろよ。ミナ…」
「すごい綺麗…」
正面の青空に浮かんだのは、上半分を真っ白に薄化粧した富士山だった。
「絶景だねえ~さすがにここは有名処だ。いつ見てもべっびんさんだ」
「リンは相変わらず変に親父くさいところがある」
「そうか?」
海沿いのカフェで、ケーキセットを頼んだ。
リンはさっきの言葉を忘れたかのように、他愛無い話でおれをリラックスさせている。
「ミナは落ち着いたね。季史さんって人の影響かな…ちょっと…いや、かなりムカつくけどね」
「そう…か?」
「だって、おまえが俺とその季史って男とのセックスを比べたりしてると思ったらな~」
「そ、そんなことしてないっ!」
なんてことをさらっって言うんだ。周りに人がいないからいいようなものの…
「大体…季史さんなら、絶対そういうことを言わない」
「ほら比べてる」
「くら、べてない。そういうことを言うリンが子供なんだ」
「はいはい、どーせ俺はガキですよ。ちぇ、昨日、本人に嫌味のひとつでも言っておきゃ良かったかな」
「季史さん、リンの事褒めてたよ。いい奴って…」
「何も知らないくせに?」
「季史さんは人を見抜く力があるんだ。だけど…リンの言うとおり、おまえに声が似ていたからあの人に惹かれたのかもしれない。おれにはリン以外に愛する者を知らなかったから、リンにどこかしら似ている人を知らず知らずに探していた…」
「…ミナは大人になったね。世辞も上手くなった」
太陽が少しずつ西へ傾いていく。暖かかった空気も次第にあるべき冬を取り戻しつつある。
楽しい時間はいつだってあっという間に過ぎるものだ。
おれは藤沢へ、リンは鎌倉へ戻ることになり、江ノ電の稲村ガ崎駅で別れる事にした。
プラットホームに立ったおれ達はたった今発車したばかりの電車を見送った。
「間に合わなかったね」
「12分待てば来るよ。…あ、おれの方が一分早いや」
「じゃあ、ミナを見送るのは俺の方だ」
時刻表を確かめた後、ホームの端まで歩いた。
電車を待つ人は、今は誰もいない。
絡められたリンの手から、そっと自分の手を緩め、リンのコートのポケットから出した。
リンはおれの顔を見つめる。
答えを…言わなきゃならない。わかっている。わかっているのに声に出せないでいる。
おまえの顔をまともに見ながら言える訳がないじゃないか…
「リン、さっき問いに答えなきゃならないね」
おれは少し俯いたまま、言葉を探す。
「今、無理に答えを出さなくても良い」
「無理じゃない。それに今、出さなきゃならない大事なことだ」
「…うん」
コートから手を出したリンの指輪が見えた。
「おれは…おまえを友達として見た事は一度もない。だから…今更友達としておまえと付き合うことなんてできない。…おれはおまえを愛している。これからだってずっと好きでいられるって、今は思えるよ。でも先の事はわからないよね。それでも…どうしてもおまえを愛せなくなる自分が想像できない…
今だって、こんなに…ドキドキしているんだ。まるで初恋の人に会ったみたいにさ。そんなの、おまえにしか感じない。いくらおれにとって季史さんが大切な人でも、胸が鳴るなんて…ないもの。
好きだからあんなに抱き合ったし、愛があるからあんなに気持ち良かったんだ…この『愛』を他の呼び名に変える事なんかできない」
「うん…」
「でも現実にはおれとおまえは一緒に歩けない道を選んでしまった。それを、不幸なんて呼びたくない。だって…今だって、おれ達はこんなにも幸せな気持ちでいられる。そうじゃない?」
「ああ…そうだよ、ミナ」
「だから、リン…おれ達、『奇跡』を目指さないか?」
「奇跡?」
「鳴海先生がおっしゃったんだ。『純愛』を貫き通すのは奇跡だって…ねえ、もしおれ達が魂だけを繋げる愛を貫き通したら…『純愛』って…子供だましで馬鹿馬鹿しいって一笑されるかもしれないけれど…リンとなら、見れそうな気がするんだ」
「…『奇跡』を探し出す旅に出るってわけか?俺とミナには相応しい冒険かもしれないな」
「え?」
「ほら、アラビアンナイトさ。千夜一夜物語の一夜は俺たちで創るものだって話したろ?」
「ああ…ああ、そうだよ、リン。おれ達で…ふたりで、きっと…」
「ありがとう、ミナ。俺はあきらめないよ。執念深いのは今度のことで証明されたからね。遅れないようについて来い」
「おまえこそ、道草食って迷子になったりするなよ」
「じゃあ、しっかりと手を繋いでおくれよ…最後までずっとね…ミナ」
「…うん、リン…ありがとう」
藤沢行きの電車がゆっくりとホームに入ってくる。
まだ離れたくない。別れを言いたくない。
ずっとずっとリンと一緒にいたい。
「リン、あの、あのね。前に言っただろ?おまえの絵を油彩で描いて、おまえにやるって」
「ああ、そういやそんなこと言ってたね」
「あれね、展覧会で展示していた『GLORIA』って、言う作品だったんだ」
「そう…あれだったのか」
「あの絵にはおれのリンへの想いがいっぱい詰まってしまってね。リンに渡せなくなった。ゴメンね」
「いや、いいよ。ミナに持っててもらったほうが、俺も嬉しい」
「おれはあの絵を一生描き続けるつもりだよ。リンへの想いの証明として、死ぬまで手放さない」
「…ありがとう」
「リン、頼みがあるんだ」
「ミナ、もう乗らなきゃ…」
構わない。これに乗らなくたって、また12分後には来るんだから…
「あの絵のように…笑っておれを見送ってくれないか?」
「…了解、ミナ」
その次にだって、そのまた次にだって…
だけどおれの足は勝手に電車のドアをくぐり、身体は車内へ引き込まれた。
「リン…リン…また会える、よね?」
リンはおれに近づき、そっと頬を撫でた。
「当たり前だ。いつだってどこへだって、おまえが呼べば俺は飛んでくる。信じろ」
「冒険はひとりじゃできないもんね」
「そうさ。ミナと一緒じゃなきゃ意味がない。だからまた逢う日まで元気で」
警笛が鳴り、ドアが閉まりだす。
「リンも…」
「うん…ミナ、愛してる」
ドアの向こうにリンの顔がぼやけて見える。
ガタンと動き出し、俺はガラスに張り付いて、リンを追った。
手を振るリンが見える。
…笑うリンが見える。
あの笑顔のリンがいる…
藤沢の駅で帰りの電車を待つ間に、電話をした。
「季史さん?」
『青弥か』
「今日はごめんね。荷物片付けるの大変だったでしょ?」
『いや、割とスムーズに運んだんで、昼前には終わったんだ。おまえの方は…どうなんだ?』
「うん、今からそっちに帰るとこ」
『じゃあ、夕飯間に合うな。何が良い?』
「クリスマスだからね。やっぱり鍋でしょ」
『じゃあ、すき焼きにでもするか』
「いいね、おれ、ケーキでも買って帰るね」
『ああ、待ってるよ』
「…季史さん」
『ん?なんだ?』
「…ありがとう」
『ばーか、下らん事言ってねえで、早く帰って来いっ!』
「うん、じゃあ後で…」
携帯をしまい、左手の指輪を外し、元のように鎖に通して、首に下げた。
西の空が少しづつ赤く染まっていく。
おれはそれを仰ぎ見る。
太陽に向かって、ゆっくりと一羽のとびが飛んでいく。
これからも続いていくおれの人生で、変わらずにいるただひとりの愛する者へ…
おれは、おまえの幸せを願い続ける。
おまえと生きていける喜びを感じて…
「リン…愛してる」
ああ、そうだね。世界は、こんなにも、美しい…
「GREEN HOUSE」 水川青弥編 完結。