12.
翌日は出来るだけ早く起きようとしたが、身体中が痛むのと腰がだるくなかなか布団から出られない。
リンも同じで、しばらくお布団の中でくっついて遊んでいたが、朝食も部屋食だし八時に予約しているから、のんびりとしてられない。
露天に浸かったら身体のだるさも消え、何とかなりそうな気がした。
朝食もひとつひとつが繊細な和風料理が並べられ、なんだか本当にお殿様気分になったみたいだと少々呆れ気味になる。
「全部食べきれるかな」
「無理しないで残しておけばいいよ」と、言うリンは、茶粥をおいしそうにお代わりしていた。
旅館を後にして、バスで移動。箱根園からロープウェイで駒ケ岳に登った。
幸いな事に快晴で、展望台から見る富士山は声もないぐらいに美しかった。
雪の冠をかぶった姿を納めようと、デジカメのシャッターを何回も押す。
「巧く撮れてたらいいいけど…」
「それより描かなくていいの?」
「だって、時間がないよ。他のところにも行きたいし…」
そう言いながら10分だけ時間を貰って、おれは芦ノ湖からの全景をスケッチブックにラフ描きした。
その後、元箱根から桃源台まで遊覧船に乗ったのだが、これが見事に映画で見る海賊船のようで驚いてしまった。
リンはゆっくりできるからと特別船室のチケットを買い、お客の少ない船室で正面から見える景色を楽しんだ。
特別室のお客さんしか昇れない前方のデッキに上がって船首のヘッドをスケッチしてみた。
暫くするとリンがデッキの階段を上ったところから手を招く。
近づくと「ほら、タイタニックみたいにしようぜ」と、おれを背中から抱き寄せ、先頭に立たせた。
「恥ずかしいよ」
「誰も見てないから大丈夫」
確かに朝早いしお客さんもあまり見かけなかったけど…ま、いいか。旅の恥は掻き捨てとも言うし…
おれはリンに凭れて両手を広げる。
目の前に広がる湖と緑と赤の混じった山から覗く白い頂きを冠した富士山の眺望は圧巻で…何よりも背中に感じるリンの温もりがいとおしくて…
目から見える眺望とリンの存在を同時に感じてしまったおれは、涙が止まらなくなった。
「なんで泣くの?」
リンが驚いておれを抱き締める。
「感動しすぎると涙が出るんだよ。本当に…キレイだ」
「ああ、晴れて良かったね」
そう言って鮮やかに笑うリンの顔を見てまた涙が溢れる。
「涙腺が壊れたみたい」と、笑うおれをリンは「ミナはかわいいなあ。もしタイタニックみたいになってもミナを独り置いてはいけないね。死なばもろともだな」
「うん、そっちの方がいい」
誰も見ていないことをいい事におれ達は、抱き合ったままキスをした。
頬を切る風が冷たくても少しも寒くはなかった。
桃源台からはロープウェイに乗って大涌谷へ。そこで遊歩道を登って展望台から富士山を眺めた。
ここまで来ると大勢の観光客で賑わい、ゆっくりとスケッチをしている場合ではなくなってくる。
目にする人が黒いものを持っているので何かと尋ねたら「温泉卵だよ。硫黄と鉄分でああいう色に変色するって。でも殻だけだよ。食べたけど味はただのゆで卵だもん」
「へえ~」
「食べてみる?一個食べたら7年長生きするって」
「…いらない。別に長生きしたいって思わない」
「まあ、俺もそうだね。要は長く生きるかじゃなくて、どう生きるかだもんなあ~」
ロープウェイとケーブルカーを乗り継ぎ、公園上で降りたおれ達は軽い軽食を取った後、午後は美術館と紅葉を楽しむ事にした。
平日だったが、紅葉の季節とあってどこの施設も観光客で一杯だ。
年配の方が多く、おれ達みたいな学生の男同士にはついぞ見当たらなかった。
強羅公園で昨晩大浴場で出会った品のいいおじいさんに再会した。
ご夫婦づれで仲むつまじくされている様子を見て、リンもおれもなんだか微笑ましくも、羨ましくなった。
あんなに歳を取っても人前で腕を組んで仲良く生きていけたら、どんなに幸せな人生なのだろうね…そう、感じているとリンも同じように思ったと言う。
「男同士でも別に無理な事じゃないさ。そういうゲイの恋人達も世界には沢山いるよ」
「…そう」
「でも、ミナをそこまで縛り付ける権利は俺にはない。だから、ミナにあんなになるまで俺の傍に居て欲しいとは思わないよ」
「それって…いつかはおれと別れるってこと」
紅葉に惹かれ、山沿いの細い小道を散歩がてら歩いていた。
「そうじゃない。ただ…お互いを縛り付けるのはやめようっていっているんだ。おまえが他の誰かを好きになっても、それは自由ってことだよ。その感情を押さえつける権利は俺にはない」
「おれは…リン以上に惹かれる奴が現れるとは思えない」
「…まだ16、7年しか生きてないのに言い切るなよ…先は長い。ミナはそのうち俺にうんざるすると思うがね」
「なんでそんなこと言うんだよ、リン」
「不安定だって言っているんだよ。今日好きあっていたって、明日おまえの目の前に運命の人が現れるかもしれない。その時を俺は覚悟している…ただそれだけだよ」
「…」
おれは立ち止まった。リンのあまりの言葉に胸が押しつぶされそうになる。
「どうして…」
どうして…昨晩はあんなにお互いを求めて愛し合ったのに、そういう言葉が出るのか信じられない。おれが誰を好きになっても、リンはそれを寛容するって事だろ?それっておれを大して必要としていないって事じゃないのか…
「ミナ…」
後ろを向いて立ち止まったおれを見つめるリンは冗談を言っている顔ではなかった。
「リンにとっておれの存在ってそんなものなのか?」
「そうじゃない…俺だってわからないんだ」
「何が?」
「おまえを…ミナが俺から去ってしまったら、その時、どうしたらいいのか…恐ろしすぎて考えられなくなる…だから…」
「…」
「ゴメン。止めよう、ミナ。俺も夢見ているんだよ。あの夫婦みたいに死ぬまでミナが傍にいればいいって…思っている」
リンは済まなそうな顔をしておれを見つめる。
「…根本先輩もリンと同じ事を言ってたよ」
「え?」
「高校三年間の期限付きの恋を楽しむってことにしたおいたほうが、自分が惨めにならなくて済むから、って…」
「…」
「そんなの…嫌だよ。初めから期限を決めて人を好きになるなんて…本当の恋じゃない。そうは思わないか?リン」
「根本さんは別れの辛さを知っているから、そう言うんだよ。真実は言葉の裏にあったりするものさ。彼は…本気で好きなんだよ」
「…保井先生のこと?」
「そう…ミナももっと大人になったらわかるんじゃないかな」
「…」
「ほら、着いたよ。仙石草原」
「あっ…」
ずっと下を向いてたから、目の前に広がったススキの群れにしばし言葉を失った。
夕暮れの薄い光に金色に輝きながら優しく揺れているススキの海原。
踏みならされた土と砂利の道を歩く。
「砂利に足をとられるから気をつけろよ」
伸ばすリンの手を俺は取らなかった。
あたりには観光客が沢山いた。その目が気になったのだ。
薄情なのはどっちだ。
あんなにリンを責めておきながら、人前で手を繋ぐことさえ躊躇っているおれはサイテーだ。
「ほら、ここいらからの景色が一番きれいだよ。スケッチか写真でも撮りなよ」
リンはあまり気にしていない風に、おれを気遣って言う。
「うん」
おれはデジカメを取り出し、構図を探す。
ススキの波の中をゆっくりと歩いていくリンの背中を目で追った。
ふと足を止めると彼は陽の沈む山々の方を仰いだ。
影になった後姿は彼特有の孤高な姿が映し出されている。
彼の腰まであるススキがゆらゆらと波打ち、まるで岩礁に立つセイレーンのようだ。
この風景…リンのいるこの風景を描いてみたい…
おれはデジカメのシャッターから指を離した。
これはおれの目に焼き付けるもの。留めておくべきもの。おれが描くべきものだ…
夕焼けを眺めているリンはゆっくりとその右手を上げ、自分の口元を押さえた。
感傷の、切ない、哀しみが流れてくる。
孤独…誰も寄せ付けない魂の孤独が彼を満たしている。
今の彼の中に、おれはいない…
そう理解した。
胸が痛い。
おれは怖くなって目を閉じた。
リンの心を見るのが怖い。
違う、そうじゃない。リンと対峙するためには、目を閉じてはいけないんだ。
…ゆっくりと目を開ける。
さっき居た場所にリンの姿はなかった。当たりを見回してもその姿は見えない。
「リンっ!」
焦ったおれは声を出して、リンのいた場所まで急ぐ。
ススキの波を掻き分け、リンを必死で探す。
「リン、どこだよ!お願いだから出てきてくれよ」
返事はない。
「リン…」
涙が込み上げてくる。お願いだから…
「ミナ、ここだよ」
リンは後ろからおれの背中を抱き締めた。
「驚いた?ちょうど隠れ鬼やるにはいい場所だよな」
「バカっ!本当に消えたのかと…思ったじゃないかっ!」
おれはリンの胸にしがみ付いて叩いた。
「ミナ?」
「本当に…ホントに怖かったんだから」
「なんだよ。神隠しなんて信じてるわけでもないだろ?」
「リンなら…遭うかも知れない…」
「ミナを置いてどこにもいかないよ」
「嘘だ…リンはいつかおれの前から消えてしまうんだ…そしたらおれはひとりぼっちになる…」
「いかないって…約束するよ。それより…ほら、いい加減離れないと人が見てるよ、ミナ」
「いいんだ…」
そんなことはどうでもいいんだ。
おれはリンが好きなんだ。誰になんて言われようと、リンが好きで堪らないんだ。
「リンが好きだよ」
「俺も…ミナが好きだよ」
おれを抱くリンの腕が強まるのが、涙が出るほど嬉しかった。
「リン、おれ絶対忘れないから。リンと過ごした時間を。この瞬間を心に留めておく」
「ミナ」
「おまえを愛してるんだよ、リン」
太陽が山に隠れ、辺りが暗くなってもおれ達はその場所から動かなかった。
時間が止まれなんて、そんな事を望んではいない。
ただ…この「恋愛」という時間が過ぎていくのが…怖いだけなんだ…