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第5楽章 笛吹き男の帰還
キオは、何度目かになる溜息を吐き出した。
視線は、依然窓の外に張り付いたままである。
……キッチンにこもって、どれくらいたったんだろう。
キオは、開け放たれたまま、玄関まで見通せる戸口に、そっと視線をやった。

……やっぱり、つれて帰るべきだったのかな。

あのとき、本当はつれて帰るつもりだった。つれて帰りたかった。
エルトベーア夫妻のことなど、頭から抜け落ちそうだった。
わんわん泣きじゃくっているディーンが、迷子の子供にしか見えなくて、可哀相で、すぐにでも連れて帰りたかった。

そうしないと、不安でしょうがなかったのだ。
あんまり夜が似合いすぎていて。
そのまま、溶けてしまいそうだと。
いなくなりそうだと。

「は――――」

キオは、両手で顔を覆った。
いつのまにか足元の影は深く沈み、冷えた空気が背骨を半分ほど這い上がってきている。
何度も耳鳴りのように甦るのは、それだけで命を奪えるとは思えないほど、軽い、銃声。

早く帰ってきて。

キオは指先が白くなるほど、両手を握り締めた。

こんなに心配になったこと、今まであったかな。
こんなに誰かを心配して、こんなに愛しいと思ったことが。
かつて、あっただろうか。

「家族」

冷え切った青い空気は、キオの声を跳ね返した。




氷水のような川に、出来るだけピエトの身体を触れさせないよう、無理な体勢で泳いだ笛吹き男は疲れきった身体を、木にもたせかけていた。
彼の視線の先、木々の隙間から見えるのは、明かりに囲まれた人々だ。

毛布に包まった男に、女性と少年が駆け寄る姿。
その傍では、ふて腐れた男が猟銃を抱えたまま、周りの人間に何か訴えている。

毛布の男は、ボロボロの衣服から覗く労働者の腕で、少年と女性を抱きしめている。
暖かく燃える灯火のなかで、泥だらけの家族が泣いている。父親も母親も子供も泣いているけれど、表情はなんだか笑っているようで、笛吹き男もそれにつられて口元を綻ばせた。

皮膚は冷たく強張っているのに、何故だか身体の内は温かい。

家族の再会がひとしきり終わって、周囲の住人たちも、お互いに労いの言葉をかけ始めた。
誰かが冗談でも言ったのか、笑い声が耳に届く。

笛吹き男は、自分の目の端が濡れていることに気付かない。

彼の大きな鳥を思わせる影は、灯火がひとつのこらず家に帰るまで、じっと動かなかった。一度は村に戻った少年がひとり、大急ぎで森の前に現れ、大きく手を振る。

森の上空を、細かな白い鳥と、巨大な青い鳥が去っていくのが、その子には見えたのかもしれない。





ガタガタと突然窓ガラスが鳴り、キオはハッと顔を上げた。
庭先に吊るされていたランプでも風にあおられたのだろうか、小窓から漏れてくる明かりが、不安げにゆらめいていた。
夜の廊下の向こうから、かすかにランプの揺れる音がする。

キオは、心持ち足音をしのばせ、玄関に向かった。
扉を軽く開けると、氷のような空気が肺に滑り込んでくる。
キオは、白い呼気を吐き出すと、耳障りな音をたて揺れているランプを止めた。

外は、濡れた石畳が、街灯に照らされているばかりだ。紺碧の空には強い風に流されてきた、霞のような雲が散っていた。犬の鳴き声すらしない、静かな夜である。

「……気のせいだったのかな」

肩を落とし、ひとりごちる。

しかし、視界に入ったものに、扉を閉める手を止めた。
ふ、と淡い夜闇のベールの向こうで、なにかが揺れたように感じたのだ。
光が環となって、道に文様を描いているなか、チラリとなにかが煌いている。
キオは扉をいっぱいに押し開けた。

「……ディーン」

四角く切り取られた玄関に現れた修道士は、輝く額縁の中にいるようだ。

その光をまともに浴びて、ずぶ濡れの道化師は、眩しさと、いたたまれない思いに目を伏せた。
泥で汚れた膝が目に入る。
石畳にのびた自らの影が不安げに揺れた。

家の明かりが、黒く塗りつぶされた地面に、くっきり境界線を描いている。
そこから先に踏み出してよいものか、笛吹き男は迷った。

暖かい光は「眺めるもの」。
自分をすっぽりくるんでくれるものじゃない。

灯火に囲まれた家族を思い出して、笛吹き男は一歩後ずさった。
視線の先に、自分の膝以外のものが入ったのは、そのとき。
柔らかそうな茶色の室内履きが、ひとそろい、ディーンの前に立っていた。

帽子が外され、視界が広がる。

「おかえり」

帰ってきて、よかった




なぜか全身びしょ濡れのディーンを、すぐさまバスルームに押し込んだキオは、温めたグレープフルーツジュースに、生姜やら砂糖やらを入れ、ゼペット神父直伝の「あったかポカポカジュース(神父命名)」をこしらえた。

いつもなら、生姜について文句を言うディーンは洗い髪もそのままに、ベッドの上で毛布にくるまっている。その目は、まだうつろで、心がこの場にないようだった。

「ディーン、大丈夫……?」

ディーンの前にジュースおいて、顔を覗き込む。ディーンは一瞬弱々しく唇を持ち上げた。
笑っているようにも、泣いているようにもとれる表情である。

「……あのね、笛をあげたよ」

誰にだろう……ピエト?それとも。

「あの笛は、一番遠くまで聞こえる笛なんだ」

ひょっとして、ペーズリーが、憲兵隊との事件で連絡用に使った笛のことかな。
……僕は、あの笛しか、知らないや。

「上手に吹けたら、すごくいい音がするんだ」

本当は、どんな音色なんだろう。

「他のは、流されちゃったけど、あれは残っててよかった。コールのお気に入りだったし」

「他のは流されちゃった?それじゃあ……大事だったんじゃないの?」

独り言のように、ぽつんぽつんと零すディーンの言葉を遮らないように、そっとキオが声をかける。
ディーンは、そこで初めてキオを見て、しかし、すぐに視線を戻した。

「……せめて、代わりになればいいと思って」

ディーンの瞳の中で、ストーブの火がちらついている。

「オイラは、ラトゥールの人たちから、子供を取っちゃったし、家族を取っちゃったし、町を取っちゃった」

ディーンは、一息置いて、ゆっくり瞬きをした。
開いた金色の瞳に、ストーブの炎だけでない光を見た気がして、キオは唇を引き結ぶ。

「だから、なにか代わりを置いてこなくちゃいけないと思って……仕事をしたらお金をもらえるみたいに、同じくらい大事なものをあげたりとか……」

ディーンは、もどかしそうに自分の爪を指で弾いている。

「でも、オイラには大事な笛でも、町の人には全然大事じゃない……」

琥珀色の瞳が、不安そうに揺れた。光が弱くなる。

「よく分からない……そんなこと、考えたことなかったから」

自分にとって都合の悪いものを全て見えないように覆い隠していた。置き去りにしてきた。
でも、もうそれではすまない。追いつかれてしまったし、気付いてしまったから。
せめて。
あの人たちが、なにかに大事なものを奪われそうになったら、今度は自分がそれを守ることができたら……それが『代わり』になりはしないだろうか。

「ねぇ、これ、捨てちゃった方がいい……?」

ふと思い出したように、ディーンは、椅子に引っ掛けられた自分の衣装をつまんだ。
明るい電灯の下で見ると、虹色の羽飾りは悲しくなるほど安っぽい。
恐怖の幻影。悪魔の象徴。ラトゥールの人攫い、笛吹き男。
その正体の、なんと哀れで滑稽で幼稚で愚かで愛しいことか。

「とっておきなよ。ディーンには、大事なものなんだから」

ディーンは、ほっと一息つくと、生乾きの帽子をそっと撫でた。
その姿に、なんとも言いがたい、締め付けられるような感覚が走る。

子供を連れ去られた親が相手なら、きっとこうはいかなかっただろう。
ヘレンよりも、もっともっと笛吹き男を憎んでいる住人がいたら、どうなっていただろう。

「ねぇ、キオ」

ディーンらしからぬ、静かな声音に、キオは思考を断ち切られた。


              「コール、死んじゃったんだよね」


ディーンの表情に変化はない。

「ホントは分かってた。夢の国はないし、コールは死んじゃってるし、オイラは人殺し」

次いで、聞き取れないほど小さな呟き。

「人殺し、やだなぁ……」

語尾が震えて消える。

「……ッしなきゃ、よかった」

ディーンの喉に詰まっていた秘密が、激しい嗚咽になって、転がり落ちた。





あけましておめでとうございます!新年早々、読者の皆様に謹んで謝罪申し上げます!
まず、恐ろしく更新を放置してしまい、申し訳ございません……。
それから評価欄を閉めるとか言ってたのに、なんか閉まってなかったみたいな、閉めたつもりだったんですけど、閉まってなかったっていうミステリーも、すみませんでした……。

第5楽章も、あと1話で終わりですので、勘弁してやってください!
ちゃんと終わりそうでよかったです!(涙)
今年も色々やらかしますので、生暖かい目で見守ってやってくださいませ!


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