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第5楽章 ストロベリーショートケーキ
144年1月9日、それは、今冬で最も冷え込みの厳しい夜。

ディトラマルツェンの宿場町ラトゥール・エンビィは、舞い散る雪に彩られ、更に青みを帯びた闇に塗り込められて、まるで深海の町のようだった。

そんな夜半、町の片隅にあるレストランの裏に、小さな影が駆け込んでいった。

まだ、10にも満たない少年である。

彼は、さぁっと裏道を走りぬけ、レストランのごみ置き場で足を止めた。

少年は、ゴミ箱の蓋を開き、野菜の切れ端や、焼きすぎて固くなったクズ肉をかき集め、持っている布袋に詰めていく。水気の多い料理を先に捨ててくれたためか、今夜の収穫は多い。

すっかり夢中になってゴミをあさる少年は、裏道を近づいてくる足音に気がつかなかった。

「んん?」

ふいに聞こえた唸り声に、少年はびくっと身を震わせた。

普段、少年の姿は人に見えないようなのだが、こっそり売り物を頂戴するときや、今のようにゴミをあさっているときなどに限って、見える場合がある。
そういうときは、大抵追い掛け回されて、棒で叩かれてしまうのだ。

少年は、そろりと後ろを振り返った。
相手の格好を見た瞬間、少年のぽかんと開いた口から林檎の芯が、転がり落ちた。

奇妙なまだら模様の服に、ツバ広の帽子、先の丸まった靴。しかも、それを着込んでいるのは、老人と呼んで差し支えなさそうな男だった。

「なんだ、先客がいるのか」

ゴミ箱の上に屈んでいた少年は、怪しい男の声が意外にも優しいのに安堵した。
老人特有のしわがれた低い声だが、ゆったりと聞き心地のいい音だ。

「……オイラが見えるの、じいちゃん」

初老の道化師は、んん?と喉を鳴らした。

「見えるもなにも、いるものは見える」

いるものはみえる。

「いても、見えないものはあるよ。透明人間とか」

老人はなにも言わず、しばらく少年を見ていたが、やがて大きなくしゃみをした。

「そんなもん、この世にゃおらん」

その言葉は、少年にとって、老人と一緒にいる十分な理由だった。





初老の道化師コール・クレンペラーは、町々を不定期に巡っては、人の集まる場所に立ち、簡単な手品をやる大道芸を生業としている。

「だいどうげい……ピエロってこと?」

「芸人と呼びなさい。ピエロは笑い者、芸人は人気者」

少年には、その違いが分からない。
でも、とりあえず、コールが人気者だということは分かった。

「じゃあ、オイラも芸人になろ!そしたら、人気者になれるもんね!」

コールはハッと鼻で笑う。

「そんな簡単になれたら、苦労せんわ」

ことあるごとにまとわりついてくる少年を、辟易していたコール。その気難しく頑固な老人が、部屋へ上がることを、少年に許してくれたのも、こんな会話をしていた頃だ。

コールは昔の名残でか、少年が見たこともない変な商売道具をたくさん持っていた。1室だけの狭い部屋には、奇妙な衣装が何着もかかり、ボールやら、色とりどりのハンカチやら、様々な形の笛やらが溢れていた。

「この笛はなに?これも芸人道具?」

少年は目に留まったものを、次々コールにかざして、説明をねだる。コールはうるさげにしながらも、いちいちそれに答えてやった。

「鳥笛だ。鳥の鳴き声をマネできるし、吹き方によっちゃ呼び寄せることもできる」

「こっちのは?」

「そっちのは、ネズミ笛」

「ワニ笛とかキリン笛はないの?」

コールは呆れたように、少年を見つめた。

「そんなもんあるわけないだろ。ワニもキリンも鳴かん」

少年は試しに、ネズミ笛を吹いてみた。ひょおお、という空気の漏れる音しかしない。

「それじゃあ、ネズミも、お客も来んわ」

コールの言い方から察するに、本来はこういう音でないのだろう。

いつか上手に吹けるようになろうと、少年は密かに決心した。

「どうして、こんなの、たくさん持ってるの?コールはどこから来たの?」

「あぁ、うるさい!質問は一回ひとつだ!」

ネズミ笛を取り上げ、ダンボール箱に投げ込みながら、コールがわめく。

「じゃあ……コールは、どうして芸人なの?」

「『夢の国』で、そうだったからさ」

コールは、こともなげに答える。

「夢の国?」

「そうとも、ワシが昔いたサーカスでな。それこそ名前どおり夢の国そのものだったぞ」

コールは、心なしか胸を張って続ける。

「もちろん、ワシもその国の立派な一員だった。芸人は子供たちに夢を見せるのが仕事だからな。花があふれる魔法のステッキ、動物みたいに動き回るボール、隠れたり出てきたり忙しいトランプカード。子供たちは目をキラキラさせて、ワシの手を見つめたもんさ」

コールの入団した当時は、新興歌劇団ラフェデル・ドゥーズに匹敵するほどの人気だったサーカス団『夢の国』。

不況のあおりで、団員が少しずつ減り、最後は悲しい幕切れとなったが、コールは今でもその舞台に立てたことを誇りに思っていた。

「へぇ〜素敵な国だね」

「……お前、本当に分かってるのか?」

「分かってるよ!コールは夢の国の人なんでしょ!」

コールは、分かっていなさそうな少年を、複雑な顔で見たあと、溜息を零した。

なんで、こんなオツムがたりない小僧に懐かれてしまったんだか。
しかし、冬を越したら、別の町に移るつもりだ。
そうなったら、もうこいつの世話に頭を痛めることもない。

自分に言い聞かせながら、コールは、相変わらず下手な笛を練習している少年を、静かに見つめた。




その数日後、薄暗くなる帰り道を、いつになく足取り軽く戻るコールの姿があった。

久しぶりに小舞台の仕事にありつけたおかげで、懐に少し余裕ができたのだ。いつもなら使わずに取っておく数枚の銅貨は、この日、ささやかなお土産へと姿を変えていた。

これは、ひどく珍しいことである。コールは、普段、ひどく切り詰めた生活を送っているのだから。

それは、少年と暮らすようになってからも同じで、むしろ、2人分に量を増やすため、スープは前より薄められたし、一切れのパンも、ない日のほうが多くなった。

そんな食事でも、少年は、温かいものが食べられるだけ満足らしい。

それが、コールには、不憫で仕方がなかった。勿論、頑なな彼は、そんなこと口に出さないし、自分が、あの子供を哀れに思っているなんてこと断じて認めたくないのだが。

全く……子供が幸せでない国なんぞ潰れればいいわ。

コールは忌々しげに小鼻を膨らませ、お土産に視線を移した。袋のなかには、小さなローストチキンと、苺のケーキがひとつだけ入っている。

贅沢は覚えさせるもんじゃないが……たまにはいいだろう。

コールは、少年の喜ぶ顔を想像し、ほんの少し唇を歪め、慌ててそれを打ち消すよう空咳をした。

贅沢の怖さについては、おいおい教えればいい……そうさ、あいつが、どうしてもというなら、次の町に連れて行ってやらんでもないんだからな。

そして、コールは、足を引きずりながら、いつもの路地に入り――





そのまま、帰ってこなかった。





もしも、少年が字を読めたなら、翌日の新聞の隅にある記事を見つけることができただろう。

小さな、小さな記事。

初老の大道芸人がひとり、金品目当ての暴漢に襲われ、命を失くしたと。

ディーン少年とコールじいさんが、一緒にいられたのは、1ヶ月にも満たないわずかな間だけだった。







少し、眠ってしまっていたらしい。

ディーンは、外の気配を窺ったが、ドアの向こうは静かで、隣の部屋も無音だった。

また一人ぼっちに戻ったみたい。

頬のあたりが、塩気のある水分のせいで乾いている。

なにか懐かしい夢を見た気がするのに、どうして目が覚めると忘れてしまうんだろう。

ディーンは、顔を枕にすりよせ、毛布を深く被りなおした。

もう一度眠ったら、夢の続きが見られるかもしれない。

その夢に、幸せな続きなんてないことを知らず、ディーンは眠る。



大好きな唯一の友達の出奔を、「夢の国に行った」と思い込んでしまうほど、当時のディーンは子供ではなかった。

でも、彼はそう信じた。

信じずにはいられなかった。



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