第二話
裏でお野菜採ってくるから先に入ってて、と鬼の子を連れて去っていったきさらを見送った。
鬼の子はようやく警戒をといたようで、きさらに手を引かれて戸惑いながらもはにかんでいる。きさらもそれを優しい表情で見下ろしていた。
まるで本当の母子のように。
何故だろう、その光景に苛々する。
いや、違う。
そわそわする。
心の奥底がざわめいて、落ち付かない。
鮮やかな緋色をした何かを思い出しそうになる。
「青ちゃん、行こうよー」
でこぱちが呼ぶ声ではっとした。
俺はいま、いったい何を思い出そうとしたんだろう?
深く考える間もなく、草庵の入口の引き戸に手をかけた。そしてほんの少し手を引いて戸を開ける、ただそれだけの事に一瞬、躊躇したのは仕方がない。
中には、三月ぶりに会う師匠が待っているはずなのだから。
「ジジ様―っ。ただいま!」
でこぱちの大声に返答なし。
昼だと言うのに薄暗くひんやりした空気を湛えた草庵に、二人で足を踏み入れた。
気配はない。
が、確実にどこかにいるはずだ。
警戒を解かずに半歩、進める。
「青ちゃん、そっち」
背に負った刀の柄に手をかけたでこぱちが音もなく土間の奥へと移動する。
反対側、手前の壁に沿うように歩を進める俺も、手にした刀を強く握り直した。
典型的先攻型のでこぱちは、姿の見えぬ相手にうずうずしているようだ。
しびれを切らして、居場所のわからぬ敵に向かって勘で攻撃を仕掛け始める前に視認せねば。それこそ敵の思うつぼ。
「でこぱち」
「なに?」
「待て」
でこぱちはぴたりと動きを止めた。
言葉通り、俺がいいというまでは動かないはずだ。
土間から囲炉裏端への木戸が中途半端に開かれているのは、誘われているのか、それとも罠か。
開け放たれた木戸を挟んで、でこぱちがいるのは竈がある裏口側、入り口側の俺の側には縁側に続く引き戸がある。いつもジジィは囲炉裏の傍にいるはずだが、姿が見当たらない。囲炉裏の奥には上の間と下の間の二つがあるが、どちらかに潜んでいるのか。
草庵の構成を頭の中に描き、何通りかの道筋を組み立てる。
薄暗い空間に息を潜める。
しかし、それは一瞬だった。
次の瞬間にはがらら、と大きな音がしてでこぱちの後ろの裏口の扉が乱暴に開かれた。
逆光の中に人影。
しまった、部屋の中を疑っていたが、まさか外とは!
「避けろ!」
声に反応して地を蹴ったでこぱちだったが、一瞬遅い。
後ろから伸びてきた腕が素早く首根に回った。
「くそっ」
やられた。
完全に俺の読み違いだ。
しかしこれは好機。
俺と同じ隻腕の師匠は、でこぱちの首根を抑えた時点で反撃の手がない。
敵はでこぱちの首を抱えたまま囲炉裏端へと跳んだ。
俺はそれを追って迷わず部屋に上がり込む。
ところが。
でこぱちを拘束していた筈の師匠の姿がふっとかき消える。
同時に、頭上から殺気。
しまった――
でこぱちを標的にした、と見せかけたのは囮。
狙いは最初から俺の方だ。
次の瞬間には、地面に伏せられていた。
胸と側頭部をしこたま床に打ち付け、息がとまる。
上にのしかかっているのはとても老人とは思えぬ重量だった。
「部屋に入る時は履物を脱げと教えたはずだ」
そして頭上からはしゃがれ声が降ってきた。
片腕で息の根を止められかけたでこぱちも、近くの床の上で盛大に咳き込んでいる。
押さえつけてきた隻腕の老人を見上げ、俺はため息と共に挨拶を吐いた。
「ただ今戻りました……」
「帰ってきた事なんざ見りゃ分かる」
にべもない返答をしたのは、きさらの祖父で俺たちの師匠でもあるジジィだった。
俺たちは事あるごとにこのジジィに挑んでいるのだが、結果は芳しくない。
奇妙斎と名乗るこのジジィがいったい何者なのか。かつて、名うての剣客だったと言うが、詳しい事は分からない。右腕を失い、大きな顎傷を持つこの偏屈ジジィがいったいどんな人生を送ってきたのか、興味がない事もなかったが、長い話になりそうなので少々面倒だった。
ただ分かるのは、今の俺たちでは太刀打ちできないという事だけ。
床に伏せた俺とでこぱちを尻目に、ジジィは土間の隅にある瓶の水で手を洗い始めた。
「なんでジジ様、手洗ってるの?」
でこぱちが首を傾げる。
「あ? 厠へ行っている間にお前らが入って来よったからな」
「俺たちを出し抜く為に外にいたわけじゃ」
中途半端に木戸が開いていたのも、罠ではなく慌てて厠へ向かったせいだったのか。
「えーっ、ちょっと待ってよ、ジジ様! おれのこと掴む前にちゃんと手ぇ洗ったの?! もしかして手洗ってないの?!」
「だからいま洗っとるだろうが」
「うわっ。汚い、ジジ様、汚いー!」
ジジィが厠に行った後洗ってない手で……
俺は黙って赤の上着を脱いだ。
後できさらに洗ってもらおう。
日が落ちる頃、囲炉裏端には暖かい食事が並んだ。
「竹千代くん、おいしい?」
幼い鬼の子の名は、竹千代というらしい。
しっかりときさらの横に陣取って、得体の知れないジジィと俺たちに警戒の視線を配っている。
このジジィは、竹千代をここに置く事を承諾したのだろうか。
まあ、明日ここを発つ俺たちには関係ない。
「おい、青」
ぽりぽり漬物をかじるジジィが俺を呼ぶ。
「なんスか」
「その足、誰にやられた」
「羅刹狩りの女に」
先ほどきさらが簡単に治療した足は、やはりそれほど深い傷ではなかった。きさらの持つ薬を塗って、一週間も大人しくしていれば治るだろう。
「羅刹狩りが盗賊を狩るのか?」
「政府の詳しい事情は知りませんよ」
ずずず、とみそ汁を啜りながら答えると、ジジィは鼻を鳴らした。
「でも、青ちゃんが怪我するのなんて久しぶりだね」
確かにそうかもしれない。
喧嘩を売られる回数はとてつもなく多いが、そのすべてを撃退するだけの力は手に入れている。この界隈で、俺たちに敵う相手は数えるほどしかいなくなっていた。
無論、今日のように政府が抱える組織の人間と、時折賽ノ地に現れる、ヒトでないモノを除けばの話だが。
ぱちぱち、と囲炉裏の火が爆ぜる。
食べ終わったらしい竹千代がごちそうさま、と手を合わせると、茶碗を重ね、土間の隅の水場へ向かった。いくつも重ねてかちゃかちゃと鳴る茶碗を今にも落としそうだ。
さりげなくきさらが手助けに向かう。
「ありがとう、自分でお片づけしてくれるのね」
「べ、別に……いつもやってた」
「そうなの? 偉いね」
ああ、まただ。
この光景をみると、心の端がちりりと焦げる。
優しい表情で子を見る視線に、胸の奥が焦がれる。
同時に、心の奥底から湧き上がってくる、この焦燥感はいったい何だろう。
ああ、そわそわする。
落ち付かない。
「青ちゃんもお茶碗持ってきて。一緒に洗うから」
ぼんやりと返答しないでいると、横からさっと手が伸びてきて、空の茶碗を奪っていった。
「青ちゃんの分もおれが一緒に片づけとくよ!」
「ハチ、ありがとう」
暖かい食事と、迎えてくれる相手と、背を預けられる相棒。
満足できるモノを持ちながら、なぜ、俺はこれほどに『何か』を怖れているのだろう。
物心つく前に穿った、右耳の傷が痛む。
猩々緋で染め上げた過去に、俺はいったい何の怖れを抱いているんだろう。
過去に思いを馳せようとすると、それまでの焦燥は消え去り、恐ろしいほどの虚脱感が全身を包み込んだ。残るのは一握りの恐怖と、後悔。
理解のできぬ感情が、澱のように胸底に溜まり込み、面倒だと口に出すことさえも面倒だった。
まるで何かを見透かすようにじぃっとこちらを見ていた、ジジィの視線に居心地の悪さを覚えていた。
その日から、俺とでこぱちは草庵に寝泊まりするようになった。
特に意味はない。
きさらやジジィが俺たちを追い出すはずもなく、でこぱちは俺が離れようと言わない限りここにいるだろう。何より、自分の中に生まれてしまった茫とした情動を落ちつけるには、此処にいるしかないと思っていた。
朝起きれば、きさらの号令で働きだす。
俺とでこぱちは裏の畑の水やり。昨日拾ってきた鬼の子竹千代も、きさらについて朝食の支度を手伝い始めた。それから薪割り、水汲み、裏で飼っている鶏の世話。
洗濯も終わったのだろう、軒下には、昨日頼んでおいた通り、いつも身につけている赤の着物がきちんとつるされていた。
日の出からすぐに働き始め、気がつけば汗ばむほどの陽気になっている。
割り当てられた仕事を一通り終え、井戸の水で喉をうるおしていると、家の方からきさらの呼ぶ声がした。
「青ちゃん、ハチ。買い物に行きたいの。一緒に来てくれる?」
賽ノ地にも、そこそこ栄えた町が存在する。
以前は頽廃しきっていたのだが、数年前に今の町奉行になってからというもの、少しずつこの地も発展しているようだった。果ての町と言えば聞こえは悪いが、交易の拠点に成り得ると言えば少しくらいは映えるだろうか。
ここ数年で、道や町屋の並びは奇麗に整備され、裏黒い犯罪は一掃された。町から外れて暮らす俺たちにはほとんど関係のない話だが、時折こうやって町まで来るとその変貌ぶりに目を見張る事もある。
町中を流れ、死体ばかりが浮いていた賀茂川の支流も今では獲った魚が売られるほどまでに回復していた。
この町が自分の故郷だと誇る感情などは一切持ち合わせていないが、それでも、これだけの変化を見せられると驚かずにはいられなかった。
町にでたきさらは、食糧でも買い込むのかと思いきや、子供用の着物に履物、それから小さな茶碗や箸など、明らかに竹千代のためのものをそろえ始めた。だからあの子供を置いてきたのか。
竹千代をジジィに預けたと言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか――ああ見えてジジ様は子供をあやしたりするの上手なんだよ、というきさらの言葉はとても信じられなかった。
必要なものをすべて買いそろえ、賑やかな町の昼下がり。
でこぱちの強い要望により、俺たちは茶屋の店先で注文した団子を待っていた。
人通りが多いこの場所ではさすがに誰かが喧嘩を売ってくることもないだろう。昔の賽ノ地ならば分からないが、刀を持たぬ町人が行き交う場所だ。
よほどの馬鹿か、気狂いくらいでなければ相手などすまい。
と、思って見渡したところ、向こうの角でふと視線を止めた。
明らかに周囲と雰囲気の違う二人組を見つけてしまったからだ。
その二人が、確実にこちらを指さしている。
あれ、絶対こっち来るぜ?
しかもあいつら、人外だ……多分。
でこぱちも気づいたようで、遠くの角に見え隠れする二人に視線を向けた。
こちらの視線に気づいた二人は一瞬びくっとしたが、ぼそぼそと二人で何かを話し合い、腹を決めたのか頷き合って再び俺たちの方向を向いた。
あ、やっぱこっち向かってきた。
極限に面倒な予感がする。
ちょうど、出てきた団子をほおばる俺たちの目の前に立った二人。
頭に手ぬぐいを巻いた紅樺色の着物の男と、老竹の着物を着崩した男。それぞれ、大槌と小刀を手にしていた。
「おい、お前ら!」
「おまえらぁ!」
気狂いか馬鹿かと聞かれたら、確実に後者だろうな。
もぐもぐと団子をほおばっている隣の相棒は、俺の号令を待っていた。
頭に手ぬぐいを巻いた方の男が俺の目の前に指を突き付ける。
「個人的な恨みはねぇが、俺たちの――」
うっわぁ、めんどくせぇ。
口上を最後まで聞いてやる義理もない。
「でこぱち、殺ってこい」
「はぁーい!」
団子を三ついっぺんに口へと放り込み、もぐもぐしながら飛び出したでこぱちは一瞬にして二人の間に割り込んだ。
先に反応したのは頭に手ぬぐいを巻いた大槌を持つ方。
小柄なでこぱちなど一振りで叩き潰されてしまいそうな大きさの槌を力任せに振り下ろした。
「あ、ハチっ! お団子一本残ってるよ!」
突然の事に動転したきさらが、明らかにどうでもいい事を叫ぶ。
「あとで食べるからとっといて!」
そう叫び返したでこぱちには、まだまだ余裕がありそうだ。
周囲の町人は、突如として始まった乱闘に一歩、距離を置いている。
が、そこは賽ノ地の住人。戦っているのが派手な着物の少年と、二人の男だと知ると、見物客が増え始めた。身の危険さえなければ、喧嘩の座視など日常茶飯事なのだろう。
まあしかし、あんな大ぶりの武器は素早いでこぱちの敵ではない。もう一人はどうやら苦無のような飛び道具を使うようだが、多人数戦闘を得意とするあいつは、中距離の飛び道具の相手にも慣れている。
二人掛かりで持って半刻か……と思って見ていると、飛び道具を使っている方がおかしな動きをし始めた。
すすすす、と後ろへ退いていき、隙を見てさっと戦線離脱したのだ。
戦いに真剣な残りの二人はそれに気づいていない。
遠方から援護する気かと思いきや、完全に武器を仕舞い込み、こちらへとやってきた。
殺気も敵意もない。
ちょいと腰を浮かし、席を開けてやると、そいつは何の躊躇もなく俺の隣に座り込んだ。
「おおきに」
そして、でこぱちが残していった最後の団子一本を素早く口に運ぶ。
「あ、ハチの分……」
「うまいわぁ」
顔を綻ばせて団子をかみしめている。
「いいのか?」
目の前で戦いを繰り広げる二人を指すと、そいつはゆるゆると首を振った。
「俺はええんや。緋狐が代わりに戦うさかい」
「ふぅん」
「あんたはどないなん?」
「俺もいいんだ。あいつが代わりに戦うから」
「へぇ」
どうやらこいつも戦わなくて済むならそれでいい、という考えらしい。
よかった。
もう一匹の方は好戦的なようだったから、あっちが当たっていたら問答無用で戦わされるところだった。
「よかったわぁ。ほなら、もし俺の相手があの子やったら、戦わなあかんかったんやろ?」
隣に座ったこいつが同じ思考をしていたことにさほど驚きもしなかった。
もぐもぐと口を動かす男に、さり気なく尋ねる。
「狐か? あいつ」
「おお、よう分かったな。妖弧や」
「お前、狸だろ」
「そうや」
「何で狸と狐が一緒にいるんだよ」
「何があかんの?」
「いや別に。珍しいなと思って」
「ふーん」
とうとうでこぱちの分の団子を食べ終えた隣の狸が、気のない返事をした時だった。
鋭い声が飛んできた。
「狸休! バカ野郎! こっち手伝えよ!」
「あっ、おれの団子が!」
ああ、二人共に気づかれた。
我関せずの岡目もここまでか。
隣の狸は律義に両手を合わせて頭を下げた。
「ごっそさん」
「もう、何すんだよ! おれの団子、返せよっ!」
でこぱちの刀が隣の男に向く。
と、その背後には、大槌を構えた男。
もうひとつ、ため息。
結局こうなるんだよな。
きさらの向こうに刺していた刀の柄に真っ直ぐ手を伸ばす。
「避けてろ、きさら」
刀を手にした瞬間に、間一髪かわしたでこぱちと俺をすりぬけて、大槌は茶屋の椅子を完全に粉砕した。この武器とまともに戦うのは得策ではない。
さらには、右足の怪我が治りきっていない状態。無理な動きをすれば多少のお叱りは飛んでくるかもしれない。
さて、どうしたものか。
抜き身の刀を肩に担ぎ、どうやら緋狐という名らしい大槌の男と距離をとった。