第一話
今、すぐ傍を流れる川を、この付近では賀茂川と呼んでいる。
賀茂川を挟んで向かい側は、もう北倶盧洲ではなく、隣の府州が治める土地だ。もっとも、対岸が見えないほどに幅のある河を挟んだ交流はほとんどない。
だから、賽ノ地の果てに位置する河原、『賽ノ河原』と呼ばれることも多いこの場所に人影は少ない。
いるのはヒトならざるモノか、ヒトならざるモノを狩るヒトか、俺たちのように塒を持たない盗賊くらい。
だから、昼寝をするには丁度いい場所のはずだったのだ。
「盗賊狩り、か……」
まさか真っ昼間から政府直属の盗賊狩りに遭おうとは。
これまで、政府が大々的に盗賊を狩りに出た事はない。狭間の土地には俺たちのような逸れ者も蔓延りやすい。その所為だろう、付近に盗賊と呼ばれる浮草は非常に多かった。ただ、賊と言うほどに大げさなものでもなく、いくらか名の知れた害なす盗賊団が二・三存在するものの、あとは俺たちのようにちょくちょく食料を拝借する程度の小物ばかりだった。
そのため、盗賊同士の諍いは絶えないが、政府が出張って取り締まろうなどと言う動きはこれまでないに等しかった。
多少気にはなるが、面倒な事にならない為には放っておくのが得策だろう。
と、そこまでぼんやりと考えて、後ろを歩く相棒が珍しく静かな事に気づいた。
「おい、でこぱち」
振り返れば、遅れて歩いていた筈の相棒が何時の間にやら姿を消している。
「……」
刀を拾って進んだほんの数十歩のうちに消えてしまったらしい。
それなりに長い付き合いになるのだが、相変わらずあいつの行動は読めない。
突然現れたり、突然姿を消したり、何しろ行動が速い。あちらこちらを駆けまわっては何かを見つけて一人ではしゃぐ。要らぬ喧嘩を売るのと売られるの、落ちている物を拾うのが得意で、厄介事を持ち込んでくるのが生業ではないだろうかとこちらが勘繰ってしまうほどだ。
まあ、いい。これで静かになる。
なんだかんだと逐一やかましいでこぱちが姿を消して、これ幸いと、俺は短い草の生えそろった辺りを選び、手にしていた刀を突き刺して土手に寝転んだ。
一羽の鳶が駆ける空を見上げる。紺碧の空を白い雲が染め抜いていた。春から夏に向かう季節、梅雨入り間近の空気は動けば汗ばむ程度の陽気。さらさらと流れる賀茂川の音も手伝って、よく眠れそうだ。
左腕に巻いていた包帯を右足の怪我に巻きなおし、うつらうつらとし始める。
微睡みに蕩ける鳶の声が心地よい。
それなのに。
「青ちゃんっ」
耳元で大音量の目覚まし。
ほんの少しでいいから俺に平穏な時間をくれ。
という言外の感情は伝わるはずもない。
薄く目を開けば見慣れた顔が見えたので、そのまま瞼を落とす。
どうやらそれが不満だったようで、再び大音量。
「あーおーちゃん!」
ああもう、これ以上放置する方がめんどくせぇ。
「何だよ」
ゆるりと半分目を開けた。
うるさいから向こうへ行け、という言外の感情は伝わらない。
ゆっくりと上体を起こした俺の耳には、何故か相棒ものとは違う甲高い子供の声が飛び込んできた。
「放せよ! 放せってこのチビ!」
ああ、まただ……またこいつは、厄介事を運び込んできたに違いない。
このまま目を閉じてもう一度眠りに落ちたいが、そうもいかないだろう。
放っておけばもっと面倒な事になるのは目に見えている。
満面の笑みを湛えたでこぱちが抱えている物体が、甲高い声で抵抗する10にも満たない子供だという事を考えれば、この状況の理由など一つしかありはしないのだ。手足をばたつかせていることからも、確実に子供の方が望んででこぱちについてきたわけじゃないのだって分かっている。
問うたところで返答ももう分かりきっている。
それでも、先ほどと同じ、褒めて褒めて、とねだる視線に負けて、俺は答えの分かっている問いを口にしてしまった。
どうにも俺はこいつに甘い。
「何だそれ、どうした」
「拾った!」
やっぱりか!
予想通りの返答に、俺は大きくため息をついた。
さすがに生き物を拾ってきたのは初めてだ。
さて、どうするか。
このまま放置すれば、ただでさえ喧しいでこぱちと、抵抗する子供の甲高い声の相乗効果で到底昼寝などしている場合ではなくなるだろう。
子供の目つきは幼いながらも鋭く、意思の強そうな藤紫の瞳がこちらを睨みつけていた。瞳と同じ色をした着物から覗く手脚は細く、栄養状態が悪いのはすぐに分かった。
その上、よく見れば、子供のぼさぼさに伸ばした金髪の間からは短い角が覗いている。
紛れもない、鬼の子だ。
人外決定。
面倒二倍。
俺は即答した。
「落ちてた場所に返してこい」
「やだ」
「いいから返してこい」
「やだよ」
「捨てて来いって」
「やぁだっ」
不毛な言い争いをしている間も、でこぱちが抱えた子供は何とか逃れようと必死に暴れている。
甲高い声が耳に刺さるのが、不快極まりない。
ああもう、めんどくせぇ!
と、その時、俺の頭の中にはふいに名案が浮かんだ。
そうだ、面倒なものは他のヤツに押し付けてしまえばいいんだ。
もう三月ほど顔を出していないから頃合い。
すべて、あいつの元に置き捨ててしまおう。右足の怪我もついでに診て貰う事にしよう。
面倒なジジィもついてくるが、その辺は我慢だ。
「よし、でこぱち、それ持ったままでいいからついてこい」
「え? 何? どこ行くの?」
「きさらんとこ」
俺たちはその足で賽ノ地の町外れ、山の裾野の草庵へと向かった。
賽ノ河原より北にある町を左手に避けながら、道と呼べるものはない荒れ地を往く間、一切ヒトには出会わなかった。この辺りには俺たちのようなはぐれの盗賊が多いから、一人や二人喧嘩を吹っ掛けてきてもおかしくないのだが。
擬態とは無縁、極彩色の着物を翻して歩く俺たちが目立たぬはずはない。
さらに大声を出す子供まで連れて、見つけてくれと主張しているというのに。
珍しい事もあるものだ。
でこぱちの背丈に近いほどのぼうぼう草の間を歩きながら、ぼんやりとそんな事を思う。
「何処行くんだよ。おい、お前ら、返事しろよっ!」
生意気な口調に答えてやる義理はない。
完全に無視して歩く俺たちに、子供も無駄を悟ったのだろう。目的地に到着する頃には、無為に喚き疲れたのか、大人しくなっていた。
荒れ地を往く事およそ半刻、杉の木に囲まれた茅葺屋根の草庵に俺たちは帰ってきた。
冬には雪も降るこの土地で暮らすには少々頼りない造りの佇まいは、老人と若い女性とが二人で住むには丁度良い広さ。俺とでこぱちの師匠が孫と二人が暮らしている。相棒と二人浮草となってから、ここへ来ることは最近ではほとんどなくなっていたが、訪れても当たり前のように迎え入れて貰えるのはこの場所だけだった。
案の定、庵の前の井戸で水組みをしていた少女が俺たちの姿を見つけてぱっと顔を上げた。
「あ、青ちゃん! ハチも、お帰り!」
手にしていた桶を地面に置き、紅掛花色の髪を揺らして手を振ったのは、この草庵の主の孫、きさら。
草庵の主と違い、俺たちを快く迎え入れてくれる。
「二月? 三月ぶりかな? ちゃんとご飯食べてる?」
しかし、きさらが笑顔を見せていたのはそこまでだった。
俺の右足に巻かれた包帯を見て、きさらは息を呑んだ。
「青ちゃん、怪我してる!」
「ああ、さっきな……後で診てくれるか?」
「駄目! 今! 今すぐ!」
抜き身の刀を手にした左手首を掴まれた。
仕方なく彼女を傷つけぬよう、刃の向きを変える。
しかしながら、ずるずると数歩、引っ張られたところで、きさらはぴたりと足を止めた。
「……」
でこぱちが抱えている物体にようやく意識が回ったらしい。
きさらの眉が跳ね上がった。
まあ、だいたい予想された事態だ。
最初の雷が堕ちる前に、俺は掴まれていた左手を引き抜く。
そして、近くの杉にもたれかかって様子を観察することにした。
「ハチの馬鹿っ!」
「なんでー?」
「そんな簡単に生き物を自分の好きにできると思っちゃだめなんだよ?」
叫び疲れてぐったりしていた子供をきさらが保護し、でこぱちはその場で正座。
完全なる説教体制だ。
「だって落ちてたんだから拾ったっていいじゃん」
唇を尖らせて上目遣いに不平を言うでこぱちに、きさらは大きく首を横に振った。
「落ちてるわけはないの。命あるものを落ちてたなんて言っちゃいけない」
「でもそこに在ったんだから同じじゃん」
「違うよ。命あるものは違う。刀やお茶碗と一緒にしないの。相手の意思を無視して勝手に連れまわしたりしちゃ駄目。ハチだって、突然青ちゃんの傍から連れ去られたら嫌でしょう?」
「おれはそんな事させないよ。そんなヤツ、殺っちまえばいいんだ!」
ふんぞり返るでこぱちの額を、きさらは軽く指で弾いた。
「みんながハチみたいに強いわけじゃないわ。抵抗できなかったら、どうするの?」
穏やかな口調でも、きさらの言葉は厳しかった。
「敵わない相手だったらどうなの? 手足を獲られて、命を獲られたら、どうするの?」
「それは」
「右腕と右目のない青ちゃんの左目を塞いで、左手を使えなくして連れ去るヒトがいたらどうなの?」
「それは卑怯だっ!」
「そうでしょう?」
きさらは背後に庇った子供の頭をそっと撫でた。
震えていた子供は、優しい手にはっとしてきさらを見上げる。
にこりと微笑むきさらに安心したのか、腰のあたりにぎゅっと抱きついた。
「ハチのしている事も卑怯じゃない。この子の何処に、ハチに抵抗する力があるっていうの?」
諭すような言葉に、でこぱちは押し黙った。
「分かるでしょう? 命あるものに干渉するのは、落ちている石を拾って持ってくるのとは違うの。たとえば、この子が望んで私の元に来たいと言ったのなら、ハチが此処に連れてくる理由はある。でも、そうじゃなかったんでしょう? ハチは勝手にこの子をここに『連れてきた』んでしょう?」
手足の細い鬼の子はますます強くきさらにしがみついた。
鬼や化け狐、鎌鼬など、あやかしと呼ばれるモノの子は希少だ。特に、鬼のように強い力を持つモノは売り買いが盛んに行われる。でこぱちは拾ってきた、と言っていたが、あの幼さで親に庇護されていないということは、落ちていた場所などだいたい想像がつく。
鬼の子は半分きさらに隠れるようにして相変わらず俺たちを睨んでいたが、最初よりは随分と落ち付いた様子だった。
「命あるものにはね、それだけで自由に生きる権利があるの。それを奪う事は誰にも出来ない。ハチにも奪う権利はない。理由もなく奪われていい自由はないよ」
でこぱちも、自分のやったことがきさらに非難されるべき事だったのだとようやく理解したのか、眉をハの字にして黙り込んだ。
そんなでこぱちの様子に、ようやくきさらは表情を緩めた。
「これは私の我儘かもしれないわ。でも、ハチには卑怯な事しないでほしいの」
「……分かった」
「ありがとう」
お説教終了。
正座から解放されたでこぱちはそのまま地面に寝転がった。
きさらの着物の裾を、鬼の子がちょいちょい、と引っ張る。
小さな声でぼそりと呟きながら。
「いや……じゃ、ないよ」
「なあに?」
しゃがんで鬼の子と目線を合わせたきさらは、小首を傾げた。
そんなきさらから目を逸らしながら、子鬼はぼそぼそと言った。
「あのチビはキライだし、ここに来るつもりはなかったけど……ここにいてやってもいい」
ああ、きさらが情に絆されているのが手に取るように分かる。
「じゃあ、あなたもここに住む?」
そう問うと、鬼の子はこくこくと頷いた。
望まぬとは言え、この場所を追いたてれば行き場がないのも事実。
子鬼の小さな手を握り、反対の手で先ほどまで井戸の水を汲んでいた桶を抱えあげ、きさらは俺たちに声をかけた。
「青ちゃんの治療もすぐにするから、中で待ってて。二人とも……と、三人とも、おなかすいてるでしょう? ご飯の支度するわ」
鬼の子の表情がぱっと綻んだ。
ご飯と言う言葉に、地面に大の字に寝転がったまま歓声をあげたでこぱちは、あ、そうそう、ときさらを呼びとめた。
「あのさー、さっきから思ってたんだけどさ」
「何?」
鬼の子の手を引いたきさらが首を傾げる。
するとでこぱちは腿の半分くらいまでしか隠していないきさらの着物を指さして言った。
「その着物短くない?」
「短……って、まさかハチっ」
慌ててきさらが着物の裾を抑えるが、遅い。
「うん。さっきからずっと中見えてたんだけ――」
でこぱちの言葉は最後まで続かなかった。
顔を真っ赤にしたきさらの膝蹴りが、でこぱちの顎を直撃したから。