第十八話
雨の季節を過ぎ、賽ノ地は初夏を迎えた。
草庵には酷く穏やかな時間が流れている。
回復したでこぱちと竹千代が短く伸びた青草の中を転げまわる姿を、ぼんやりと縁側で見ていた。そこに混じっているのは玖音。
玖音はでこぱちが怪我をした時から、頻繁にこの草庵を訪れている。竹千代も新しく姉が出来たと喜び、なついている。玖音の方はまだ照れているようだが。
竹千代にとって、玖音は姉だが、きさらは母のような存在らしい。それは俺もなんとなくわかる気がした。竹千代の母の話を聞いたことはないが、あいつも捨てられた身だ、いろいろと思うところはあるのだろう。
母親、か。
俺に両親の記憶はない。一人だった頃の記憶しか残っていない。もちろん、でこぱちもきさらも同じだ。
ただ、母の存在を思い出そうとした時に目の前に飛来するのは、あの猩々緋色の過去だった。
もしかすると、あれは――
思い出そうとして、やめた。俺の心の奥に澱を残すような過去を思い出して、また焦燥に駆られたくはなかった。
きさらは俺の隣に座って縫物をしていた。縫っているのは緋色の着物……ぼろぼろになった俺の上着だった。解れたところを繕い、破れた箇所に布を当て、修復していく。
器用なものだ。
俺やでこぱちは壊すばかり、怪我をするばかりだが、きさらはそれを直し、治すことが出来る。
でこぱちが見る世界が分からないように、きさらが見る世界もきっと俺には一生わからないのだろう。命を奪う事を厭い、すべてに慈しみを与える彼女がいったいどんな景色を見ているのか、知ることはないだろう。
だから傍にいたいと、傍にいて欲しいと願うのだろうか。
「静かだね」
ふいにきさらが言う。
「ハチも、大怪我してたのが嘘みたい。元気になってよかった」
「そうだな」
「そうそう、お団子屋の雷さんがね、元気になったらまた来てって言ってたよ」
団子が好きなでこぱちは喜びそうだ。
「あいつらよく怪我すんなぁって呆れてた」
肩をすくめ、くすくすと笑いながらきさらが言う。
返す言葉もない。
この数カ月はいろいろな事がありすぎた。何より、政府に狙われ身を隠さねばならないとはいえ、また随分と草庵に籠ってしまった。
所詮俺たちは根無し草。
しばらくすればまたこの草庵を出て、放浪する生活を始めるだろう。
時にはここへ顔を出しながら。
そう、これまで通りだ。
「はい、出来た」
ぷつん、と糸を歯で切って、きさらは緋色の上着を俺に渡した。
「もうあんまり破らないでね?」
「あー……努力する」
無理だろうなと思いつつ返答したところで、烏が一つ、甲高く鳴いた。
その声で日が傾いてきた事を知る。
「そろそろ夕餉の準備をするわ」
「じゃあ、あたしはそろそろ帰るわ」
「えーっ、玖音帰っちゃうの?」
竹千代が頬を膨らます。
「帰っちゃうの―?」
真似をしたでこぱちが頬を膨らます。
顔を真っ赤にした玖音は、怒っているかのような口調になった。
「煩いわね、あたしにだって都合ってものがあるの!」
しかし、それを聞いて悲しそうな顔をした二人に、玖音は背中で告げる。
「明日も来るからっ」
わーい、と手を取り合って喜んだ二人に、きさらが声をかけた。
「竹千代くん、準備を手伝ってくれる?」
「うん!」
「おれもやる!」
きさらの後を追って、竹千代とでこぱちが土間へと飛び込んでいった。
それを見送って、一息。
ここではただ穏やかな時間が流れていく。
血の匂いのしないこの場所では、季節の移る匂いがした。春から梅雨へ、梅雨から初夏へ。もうしばらくすれば本格的な夏がやってくるだろう。草が茂り、生き物が一斉に活動を開始する。木々のざわめきも風の吹き抜ける感触も、すべてが夏へと向かっていた。
しかし、この穏やかさの中に何かを忘れている気がしてならない。
烏がまた一つ、鳴き声をあげる。
忘れていた焦燥を呼び覚ますかのように。
「青」
呼ばれて振り返ると、背後にジジィが立っていた。
相変わらず気配がない。
よっこらしょ、と俺の隣に座り込み、煙管をふかしたジジィはふいに尋ねた。
「答えは出たか?」
いったい何に対する答えだろう。
返答せずにいると、ジジィは勝手に言葉をつないだ。
「儂も老い先短い身体だ。大切な孫の行く末くらいは見届けんとな」
何のことだ。
しかも老い先短い、とはよく言ったもの。
殺しても死にそうにないジジィの横顔を見ながら、俺はため息をついた。
「忘れんな、青。面倒事ってのは逃げたと思っても逃げられねェことの方が多いからな」
面倒事。
そう言われて、ようやく俺は厄介な事実を思い出した。
自分の中の澱と戦うことに必死で忘れていた、一番の面倒事を。
「ほれ、おいでなすった」
ジジィが煙管で指した先、最後の敵がやってくる。
夕刻の陽が縁側に差す中で。
茜色の陽を担ぐようにして、燃える緋の髪が揺れた。
俺は本能的に刀の柄へと手を伸ばしていた。
一瞬にして心臓の鼓動が速くなり、全身を警戒が包み込む。
「こんな場所まで何しに来やがった」
現れた人影に、俺は問いかけた。
緋色の髪が夕陽を受けて、さらに鮮やかに燃える。軽く引っかけただけの桔梗色の着物が肌蹴(hだけ)て、右肩には濃い刺青が顔を出していた。端正な顔を緩んだ口元が崩し、近寄りがたさを取り払っている。
噂に聞いた通りの容姿。
その背後に控えるのは、見覚えのある忍び装束――町奉行に仕えるあやかしの朋香だ。
最悪だ。
考え得る限りで最大の難敵だった。
「賽ノ地町奉行、近松景元」
俺の言葉に、町奉行はにぃ、と笑った。
「何って……知ってんだろ? 政府から盗賊を狩れってお達しがでてるわけだ」
「羅刹がいなくなったからか? 職を失った羅刹狩り共に仕事をやってのかよ」
問い返すと、彼はふいに真剣な眼差しを向けた。
「羅刹にヒトを狩らしちゃなんねぇ」
強い視線に気圧され、どきりとした。
「お前らみたいに羅刹に突っかかるヤツがいれば、羅刹に盗賊を狩る理由を与えちまう。正当防衛だ、なんていう小難しい事はいわねぇかもしれないが、ヤツらの事だ。これ幸いと盗賊たちを狩りにでるだろう」
笑みを湛えていた口元はいつしか引き締まり、真剣な眼差しがこちらに向けられていた。
「ヤツらにとって、『無族』なんてモンは一緒くただ。もし羅刹に盗賊を狩らせれば、賽ノ地の住人との境界が……ヒトの境界がなくなるのは時間の問題だ」
脇差の柄に手が伸びる。
つられるように俺も刀の柄を握り締めた。
額に汗をかいているのが分かる。
羅刹と相対した時とは違う恐怖が俺を襲った。
あの時は、単純な戦闘力の差に慄いた。しかし、今は違う。
「だからヒトだけは、ヒトの手で狩らなきゃなんねぇのさ……ヒトの世を守る為にな」
今慄くのは、目の前にいる男との信念の強さの差だ。
絶対に賽ノ地とその町人を守るという決意のもとに吐き出された言葉だから、これほどまでに響く。
自らの手を汚して盗賊を狩ってでもこの地を守らんとする苦渋の決断を下した強い意思が、俺を追い詰める。
「んで。それに直接あんたが動くのか?」
心臓の鼓動が煩い。
強敵だと全身を流れる血が告げていた。
「仕方ねぇだろ、手持ちの駒がこう次々とやられたんじゃ。ああ見えて烏組はそれなりに優秀な成績を収めた羅刹狩りだったんだがな」
「知るか」
討伐どころか最後には手を組んで羅刹を倒した事を、この男は知っているのだろうか。
最も、次に顔を合わせればあの女ともケモノとも敵同士だと言うことは承知の上だが。
いつの間にか隣にやってきていたでこぱちが、背の刀に手を伸ばす。
「青ちゃん、あいつ……強いよ」
「ああ」
分かっている。
「『赤い方』が青、『黄色い方』が耶八だったな」
並んだ俺たちを見て、町奉行は脇差を抜き、切っ先を向けた。
「お前たちは越えちゃいけねぇ一線を越えた。羅刹どもにヒトを狩らせる口実を与えた。だから、これは賽ノ地を締める俺の役目だ」
でこぱちもすらりと刀を抜いた。
俺は左手に、でこぱちは右手に。
手にした刀を並べ、真っ直ぐ敵へと付き付けた。
「青ちゃんとおれが簡単にやられると思うなっ!」
啖呵を切ったでこぱちの頭の上から、何かが振り下ろされた。
そのままぐしゃ、と地面に叩きつけられたでこぱち。
「下がってろ、ガキども」
踵落としで地面に沈んだでこぱちが顔を上げた時には、でこぱちから刀を奪ったジジィが俺たちと町奉行の間に立ち塞がっていた。
「今のお前ぇらに敵う相手じゃねぇ」
「青ちゃん、ハチ? ジジ様まで! いったい……」
騒ぎを聞きつけてきさらが飛び出してくる。
繰り広げられている睨みあいに気付き、きさらは茫然と呟く。
「景元様……? それに、朋香さんまで」
そして、切っ先が向けられる先が自分の育て親である事に気づいてはっとした。
「ジジ様!」
駆け寄ろうとしたきさらの足元に、するどく苦無が突き刺さる。
その主は、町奉行の背後に控えるあやかしだった。
「ごめんね、きさら」
「ほ、朋香さん……?」
大きく見開かれた霞色の瞳。
以前助けられたあやかしに、今は命を狙われる。
混乱した様子のきさらを尻目に、ジジィは刀を一振りした。
「如何に賽ノ地町奉行殿と言えど、此処を荒らさせるわけにはいかねぇな」
それを見た町奉行は、一旦切っ先を下ろした。
「まさか、貴方が直々に相手をしてくださるとは。お噂はよく拝聴しておりますよ、奇妙斎殿、いや――『鬼の源七』殿」
鬼の源七、その名を聞いたジジィは鼻で笑った。
「身寄りのない子供を引き取って賽ノ地の外れに隠居したとは聞いていたが、そうですか、この二人が貴方の」
「違うわ」
忌々しげに即答したジジィ。
「こんなクソガキども、誰が面倒など見るか」
「じゃあ、引き取ったのはそちらの可愛いお嬢さん?」
またも口元に笑みを湛え、肩をすくめた町奉行が指し示したのは、きさらだった。
びくりと震え、足をすくませるきさら。
「お名前は?」
「き、きさらです」
「答えんでいい」
ジジィは言ったが遅い。
先ほどまでの威厳はどこへやら、相好を崩した町奉行はジジィを避けてきさらの方に寄った。
「クソガキとご老体の相手かと思ったら……今日は此処へきてよかった。きさらちゃん、こんなかわいらしいお嬢さんに出会えるとは」
するりと俺たちをかわし、きさらの元へ。
その足運びが尋常ではない。
お前たちの敵う相手ではないと言ったジジィの言葉は真実だ。
「きさらに近寄るな!」
不穏な何かを感じ取ったのか、でこぱちはすぐにきさらを庇うように飛び込んだ。
考えるより速く、反射的に。
それがあいつにはそれが出来て、俺には出来ない。
「でこぱち、きさら」
名を呼べば、でこぱちはきさらの手を引いて俺のもとに戻ってくる。
ついでに、べーっと舌を出して町奉行に喧嘩を売りながら。
怯えながら俺とでこぱちの後ろに入ったきさらをみて、町奉行は肩をすくめた。
「つれないなぁ、きさらちゃん」
「景元様」
朋香の冷静な声が飛んだ。
気づかぬうち、先ほどまでそこにいた筈のジジィの姿が消えている。
はっとした町奉行は一瞬でその場を飛び退った。
音もなく、しかし音を越える速度で空を切る刃。
それを握るのは、多くの皺が刻まれた左手だった。
皺の奥の目に隠された意図が、俺を突き動かした。
判断は一瞬だった。
「でこぱち、すぐ竹千代を抱えて来い」
「え? うん、わかった」
「そのまま……逃げるぞ」
「!」
ひそりと告げた俺の言葉に、でこぱちはこくりと頷いた。
朋香の動きを警戒しながら、きさらを庇う。
浅縹の髪を翻した忍び装束のあやかしは、指で印を結んだ。
「ごめんなさいね、二人とも」
何かをする気だ。
動物的な感覚で危機を察知する。
今はとにかく、逃げるしかない。
この場所が知れてしまった以上、離れるしかないのだ。
竹千代を抱えたでこぱちが草庵を飛び出してくるのと同時に、朋香へと突っ込んだ。
「先に行け、でこぱち! きさら!」
「おおっと、そうはさせねぇよ」
逃げ出そうとしたでこぱちの前に、どぉん、と大槌が降ってきた。
紅樺色の着物。
「緋狐!」
と、いうことは……
振り向いた俺の目には、見慣れた影。
槍の女と老竹色の着物を纏った化け狸。
そしてその後ろには、白の扇子を口元に当て、微笑む烏組の頭の姿があった。