第十六話
先の戦闘で俺が倒れた時、こいつはこんな気持ちで俺を運んだのだろうか。
弱々しく力の抜けた体を草庵まで担いだのだろうか。
いつのまにか髪留めが弾け、青い髪が頬に掛かっていた。肌にまとわりついてくる髪の感触が気色悪い。
大粒の雨の中、なんとか草庵の前まで辿りつき、がくりと膝を折った。大きな怪我はないと言え、羅刹と戦闘した直後に全力で雨の中を駆けた代償だ。震えるほどに荒い息が声を出す事を妨げた。
雨戸が頑なに閉ざされている家に向かって、俺はかすれた声を絞り出した。
「きさら……!」
中に届くか知れない。
それ以前に、俺は何も言わずにここを去った。
彼女がまだここで待っていてくれるのかも知らない。
それでも、俺の呼びかけに雨戸が微かに開いた。
隙間に紅掛花色の髪が揺れた。
「きさらっ」
かすれるように絞り出した声に、彼女は雨も気にせず飛び出してきた。
「助けてくれ……!」
あの時、関わる事をやめると誓ったつもりだったのに。
後をついてくるでこぱちが鬱陶しくて、きさらといると心落ち着かなくて。
それなのに、重傷を負ったでこぱちを抱えて俺が向かった先は、きさらの元だった。
心の奥の澱が騒ぐ。
吐き気がするほどの後悔が全身を包んでいる。
雨の中を駆けただけではない。
自分の中の矛盾と澱のざわめきの所為で、今にも息が止まりそうだった。
――だから言っただろう
心の奥の澱が騒ぐ。
酷く、煩い。
いつも耳を傾けてしまう澱の声が、今は鬱陶しかった。
背に大きな傷を負った耶八。
俺が背を守るならそんな怪我を負わせやしなかった。こいつがこんな怪我を負ったのは、俺が澱の声に耳を傾けて、こいつを自分から遠ざけようとしたせいだ。
「これで、大丈夫よ」
枕元の手桶で血を流し、手を拭いたきさらが笑った。
はっと顔をあげると、まっさらな布団の上にうつ伏せに寝かされたでこぱちは固く目を閉じていた。
顔色は悪く、一面を白い包帯に覆われていたが、きさらが言うのならば大丈夫なのだろう。
ほっとして全身の力を抜くと、彼女はふいに霞色の瞳をこちらに向けた。
居心地悪く、目を逸らす。
それでも、きさらははっきりと問う。
「ねえ、青ちゃん。何が起きてるの?」
「ぁあ?」
振り返りすらしないぞんざいな返答にも、彼女は全く怯まなかった。
「少し前から、変だよ? 青ちゃんもハチも、急にここにいるようになったと思って安心してたら、怪我ばっかりするようになって。これまでも怪我は多かったけど、最近はすごく頻繁だし、酷い怪我ばっかり……たぶん、私が山に入って羅刹族に襲われてからだと思う。何か、大変な事になってるんじゃないかって、心配なの」
「ねぇよ。何もねぇ」
「嘘」
まっすぐな霞色の瞳が俺を貫いた。
それでも、何かを告げるつもりはなかった。
政府が賽ノ地に羅刹城を誘致しようとしている事はもちろん、俺たちが羅刹族と再度戦闘を繰り広げたことも、盗賊狩りに追われている事も、何より政府の隠密に巻き込まれようとしている事も。
何を聞いてもこの少女は心に深い傷を負うだろうから。
「何を隠してるの?」
だんまりを決め込んだ俺に、きさらが詰め寄った。
声を荒げる事はなく、いつもでこぱちを諭すように穏やかな芯のある響きで。
抵抗のできないモノを屠るのは卑怯者だと言った時と同じ声音で。
じっと見つめる二つの瞳が、ただ遠ざかるのを待った。
心の奥の澱を落ちつけ、吐き気がするほどの後悔を胸の内に押しとどめ、ただきさらが痺れを切らすのを待った。
俺に話す気がないととうに感じ取っているだろうに、きさらは退かなかった。
何かを決心するようにぐっと唇を噛み、きさらは静かに告げた。
「ハチが背中に怪我するの、初めてだね」
「……っ」
「青ちゃんも、背中に大きな怪我をすることってないよね。それは、ハチが青ちゃんの背中の側にいるから?」
息を呑んだ俺を尻目に、少し目を伏せたまま淡々と続けるきさら。
草庵を出ていったあの日、でこぱちに冷たく当たる俺の姿をどこかで見ていたのかもしれない。
「ハチが背中に怪我をしたのは、青ちゃんがハチを守らなかったから……?」
きさらの言葉で自分自身の後悔を的確に抉られ、嫌悪が全身を駆け廻った。
衝動に任せて、きさらを床に伏せる。空色の着物が翻った。
気づけば汚れた包帯の左腕が喉元を抑え込んでいた。
ほどけた髪が顔の横に掛かり、周囲の音を遮るように視界の隅にちらついた。
苦しそうな顔をしたきさらだったが、気丈に俺を見上げたままでいる。しかし、悲哀の色を灯したその霞の瞳に、非難の色はなかった。
「一つだけ、聞いていい?」
かすれた声で、きさらは告げた。
「青ちゃんは何を怖がっているの……?」
三度目の質問。
一度目はジジィに、二度目は居待に。そして三度目はきさらに。
俺はまだ、答えを持たない。
霞色の瞳と俺の赤目の間に、沈黙が流れる。
永久にも一瞬にも感じられる時間だった。
やがて、諦めたのかゆっくりと目を閉じたきさらを見て、俺は彼女を解放した。
幾度か咳き込んだきさらに、俺は再び背を向けた。
最悪の気分だった。
俺の中で消化できない苛立ちを、真実を射抜いた彼女にぶつけようとしただけだ。それでもおさまらない感情がまだ胸の内を渦巻き、心の奥の澱は少しずつ浸食を続けている。
このまま、内側からのさばる何かに身を任せてしまいたい。
でもそれをすれば、きさらにすべての矛先を向けてしまう。
それだけは避けたかった。
無残に歪んだ感情を持て余して、床を強く殴り付けた。
「狭い部屋で暴れんな、青ぉ!」
隣の部屋からジジィの怒声が飛んできた。
しかし、割れた床板と拳に残った痛みでは、一分の安息も得られない。
「酷い事言ってごめんね、青ちゃん」
呼吸が落ち付いたきさらはそう言った。
分かっている。
きさらが意地の悪い感情で以てあんなことを言う筈がない。あの言葉はただの挑発だ。この少女は、自分自身の心に傷をつけながら俺を非難し、心の奥を吐露させようとしたのだ。
そこまで分かっていても、俺は振り向けなかった。
歪んだ感情も消えはしなかった。
「いまから青ちゃんの怪我も診るから、ここで待ってて」
きさらはそう言って部屋を出ようとした。
無論、俺は待つ気などなかった。
だからだろうか。
きさらは最後に俺にまじないをかけていった――決して草庵を離れないようにと。
「逃げないで」
戸が閉まる寸前に掛けられたその一言は、澱よりも重い鎖で俺をその場に縫い付けた。
きさらの遺した言霊で動けなくなった俺は、おそるおそる相棒を振りむいた。
背の傷を治療する為、うつ伏せに寝かされ、胴をまっさらな包帯に包まれたでこぱちが布団の上に転がっていた。
自分のしでかした事への後悔に、吐き気がおさまらない。
「でこぱち」
静かに名を呼んだ。
その声に反応するように、すぅっと相棒が目を開けた。
焦点の合っていない、力ない視線にどきりとした。
「……あおちゃん」
それでも、洩れた声はでこぱちのもので安心した。
「よかった……まだ、いる……」
震える手が伸びてきて、俺の上着の裾を握りしめた。
痛みもひどく、意識も朦朧としているはずなのに、その手だけは放すまいと言う意思があった。
「ごめんね」
小さな息で、でこぱちは呟いた。
「おれ、弱くて……ごめんね」
弱い?
「二回も羅刹にやられてごめん……次は、負けないから」
ほとんど意識もないだろうに、かすれる声でそう言ったでこぱちは、ますます強く俺の着物の裾を握りしめた。
「だから、あおちゃん……置いてかないで」
泣きそうな声で呟いた相棒の声が、胸に突き刺さった。
「強くなるよ、おれ。もっと強くなる」
先ほどまで全身を覆っていた激しい感情が鎮められ、力が抜けていく。
「強くなったら、おれはあおちゃんの隣にいてもいい……?」
でこぱちの声で破壊したい衝動に駆られるほどの激しい感情が凪いでいくと、そこに残ったのは後悔だけだった。
「でこぱち」
ふわふわになった髪に、ぽんと手を置いた。
これは俺の精一杯だった。
喧嘩なんてしたことがなかったから。喧嘩をしても仲直りしたいと思うような仲間はいなかったから。
この半月、喧嘩と呼べるほどの何かが俺とでこぱちの間に遭ったかは分からない。一方的に俺がでこぱち避けて、ただ悪戯に怪我をさせてしまっただけかもしれない。
鬱陶しかったのが嘘のようだった。
自らの行動の一つ一つが思い起こされて、すべてを後悔した。
なぜあの時、俺は振り向かなかったんだろう。
なぜあの時、こいつの声に耳を傾けなかったんだろう。
なぜあの時、俺はこいつが居なくても自分一人で生きていけると勘違いしたのだろう。
そんな事、もう無理だと分かっていた筈なのに。
離れたくないのはこいつの方じゃなく、俺の方だと分かっていた筈なのに――
「悪かった」
その言葉を、既に目を閉じていたでこぱちが聞いていたかは知れない。
それでも、でこぱちは俺の着物の裾をしっかりと握ったまま、決して放そうとはしなかった。
自分が何を怖がっているのかは今も分からない。
ただ分かるのは、怖れを抱く原動力が感情と別に湧き出してくる過去の幻影だという事だけ。澱と成って心の奥底に溜まる猩々緋色の過去が、俺に怖れの枷を嵌める。
しかし、過去を振り払った時に残る自分の感情だけは一つ、分かった。
俺は、きさらやでこぱちを失うのが嫌だ。
羅刹に飛び込んでいく時も、今、でこぱちを担いで草庵へと戻った時も、俺を無意識で突き動かしたのは感情の方だった。
こいつときさらがいれば、俺はきっと過去の幻影に捕われる事がない。
そう思ったら、ずっと心の奥を支配していた澱がすぅっと退いていくのを感じた。
後悔に代わって、安堵が全身を包み込む。
澱の囁く声は聞こえない。
俺はいつしか降りてくる瞼に任せ、夢の中へと誘われていた。
猩々緋色の夢は、見なかった。