第十五話
地面にごとりと羅刹の腕が落ちた。
足元に転がってきたそれを、剥は当たり前のように蹴り転がした。
「油断するからそういう事になるんですよ、衝」
「剥ぃ……」
ぼたぼたと右腕の断面から血を流した衝。
びきびき、と頭に血管が太く浮かび上がり、口の端を縫い付けていた糸がぶちぶち切れた。口が裂けるように広がり、飛び散った血と相まって壮絶な様相を呈している。
そこに在るのは、生まれながらに戦いを刻まれた羅刹族の姿だった。
「殺す。もう、遊ばねぇ」
どす黒く響く声。
ぞわぞわと恐怖が腹の底から湧き上がってくる。
「いいですよ、ちょうどボクも苛々していたところです」
細めていた目を開いた剥もこちらを向く。
ここまでは遊びだった羅刹たちが本気になった。これ以上は、一時たりとも油断できない。
今回は、前回のように偶然が重なって逃れられると言う選択肢はないだろう。
こいつらを倒して生き延びるか、殺されるかの二択しかない。
油断していた衝の隙をついて片腕を落としたものの、果たして、本気になった二人の羅刹を一度に相手にすることが出来るだろうか。
「気を抜くな」
そう言い放った槍の女もさすがに息が上がっている。
当たり前だ。一時とはいえ、一人で衝の相手をしていたのだ。長引かせれば、こちらが持たない。
それでも、翡翠の瞳に強い光を湛えた女は扇子を片手に槍を再び構えた。
この扇子には見覚えがある。
あの、腹立たしい烏組の頭が腰帯に差していたものと同じだ。
この女も、でこぱちと共闘するあの二匹の獣も、俺たちと同じように無力を感じ、これまでに修業を重ねてきたのかもしれない、と思うと、奇妙な同調を感じた。
衝が右腕の切断面を布できつく縛り上げた。痛みを感じぬはずはないと思うのだが、これで退くと言う選択肢はないようだ。
腹を括るしかない。
と、二度目の交戦を始めようとした時。
顔の横をすり抜けて、何かが飛んでいった。
視認できない速度で飛んでいったそれは、正確に剥の目を狙っていた。
飛んでくるまで、殺気も、敵意の欠片すらも感じなかった。
完璧な暗殺術だ。
避けるのが一瞬遅れた剥の右耳を、弾けるように抉り取った。
次々飛んでくるそれには見覚えがある。美しい蜻蛉玉が下がる簪。
「ふふ、とっても愉しそうだこと」
そして、ひらりと躑躅色の着物を翻して。
「私もお仲間にいれてくださるかしら?」
舞い降りたのは、修行と言う名目で半月、俺たちを叩きのめした居待の姿だった。
また修行と言う名目で俺たちを窮地に陥れに来たのか、それとも、羅刹一人を引き受けると言う意味か。何れともとれる発言に迷う。
どちらの仲間だ、と問いそうになる。
先ほど盗賊狩りの女から奇襲を受けたように、居待とて味方とは限らないのだ。
何よりこいつの強さと得体の知れなさは、ここ半月で嫌と言うほど身にしみている。
「そう警戒なさらないでください」
くすくすと笑う居待の瞳には、これまでにない冷淡さが潜んでいた。
先ほどの殺気のない攻撃といい、俺たちを手玉にとっている時とは空気がまるで違う。
居待は、簪の雨で全身に裂傷を負った剥に狙いを定めた。
間違いない。居待は、羅刹を狩りに来たのだ。
裂かれた皮膚から赤い血を流し、細めていた目を完全に開いた剥もまた、居待に標的を絞った。
「今は、いつもほど優しくできませんよ」
「結構です。羅刹族に慈愛など求めておりませぬ」
次の瞬間、二人の姿が掻き消えた。
いや、辛うじて追える。
約半月、居待の動きを追い続けたせいだろうか。格段に目がよくなっている。
だからこそ分かる――あの二人は、怖ろしく速い。
「ボクから逃れられるとでも?」
剥の問いに、居待はにこりと微笑んだだけで応えた。
凄味を増した笑顔にぞくりとする間もなく、剥の鎌がくるくるりと翻った。
血色の鎌で引き寄せて、首を後ろから狩り取るように。
居待の鼻先に顔を近づけ、剥は言う。簪で弾けた右耳からだらだらと血を流し、奇抜な色をした皮膚の間からも血を滴らせながら。
細い目を開き、破顔する。
「大丈夫です。痛いと思う前に、剥いであげますから」
相手が痛みに気づく前に狩り取る。
きっと剥にはそれができるのだろう。
しかし、今回ばかりは相手が悪かった。
「あら」
ふわりと微笑んだ居待は、刹那、剥の背後へと回った。
「私も、疾さには自信がありましてよ?」
瞬きするほどの刹那、剥の首筋を突いた居待はふわりと距離を置いた。
途端に剥の首根から噴き出すように血が飛んだ。
俺たちの喉元に数え切れぬほどの正の字を刻んだ武器は、命を奪う凶器と化し、剥の血管を切り裂いた。
剥と居待の一瞬の攻防を見届けてしまった俺と盗賊狩りの女は、目の前に衝が控えているのも忘れ、茫然と突っ立っていた。
「な、何者だあやつは」
「知らねぇよ」
ただ分かっているのは、少なくとも俺とでこぱちの命を狙っているわけではないということ。本気で俺たちを狩る気なら、とうに土塊と化していたはずだから。
「ふふ、他愛のない」
両手を血染めにした居待が思わずぞくりとするような表情で微笑った。
なぜだろう、初めて本当に彼女の笑顔を見た気がした。
次は貴方の番です、と言わんばかりの居待の視線に射抜かれ、俺は反射的に意識を衝に戻していた。
しかし、衝もただ茫然と刹那の結末を見届けていた。
「剥」
羅刹たちにも仲間を思う感情が存在するのだろうか――血を流して倒れる剥を見る衝の目には、何の感情も見いだせなかった。
ただ、衝は落とされた右手の傷口を抑えていた左手をはずし、地面に散らばった大鎌を一つ、拾い上げた。
くる。
女が槍の先に付けた輪がしゃん、と澄んだ音を鳴らした。
静寂に包まれる透目。
切断面に巻いた包帯に滲み出る血が、地に落ちた。
衝の瞳から光が消えた。
次の瞬間、先ほどまでとは比べ物にならない速度で大鎌の刃が迫ってきた。
辛うじて刀を横薙ぎ、鎌の軌道をずらして切断位置から身をかわす。
その鎌が、まるで豆腐に糸通すかのように静かに、深く、地面の奥深くまで突き刺さったのを見てぞっとする。
一撃でもくらえば即死だ。
避ける事だけで精一杯、反撃を繰り出す暇など与えてはくれない。
このままでは体力が尽きた頃につかまってしまう。
攻撃の合間を縫い、女は俺に接触した。
「おい、貴様」
「何だ盗賊狩り」
「あいつの弱点を教えろ」
「はぁ?」
惑う問いに、思わず眉を寄せる。
「知るかそんなもん」
そんなものが分かれば苦労しない。
しかし、女はやれやれ、とため息をついた。そして眉間にたっぷりと皺を寄せる。
「言葉を変えてやる。『お前と同じように右腕のないあいつの弱点を教えろ』」
この女、馬鹿かと思っていたがそうでもないのか?
だが、わざわざ自らの弱みを曝すのも気が退ける。
迷いは一瞬。
「……腕が一本だと、一人としか戦えねぇんだよ」
ぼそりと告げた。
ああ、胸糞悪い。
聞かなくても分かるだろう、そんなこと。わざわざ俺の口から言わせた女は、にやりと笑った。
「ほう?」
言うまでもない。俺が苦手なのは多人数戦闘だ。多角的な攻撃は片目で認識しづらく、数多の攻撃で右腕側に刀を振り遅れれば身を削られる。
そう、初めてこの女に出遭った時、右大腿を抉られたように。
嫌悪を伴う記憶が想起し、思わず舌打ちした。
笑うように裂けた口の衝から距離を置き、各々の武器を構え直した。
鋭い槍の先を、左手の刀を真っ直ぐ衝に向ける。
「右を狙え、盗賊狩り」
俺はそう言い残して先に飛び出した。
感覚を研ぎ澄ませ。
居待との修行によって極限まで高められた集中力は、殊の外正確に衝の鎌の軌道を読んだ。
掠るどころか近寄るだけで切り裂かれそうな鎌の刃を正確に読み、確実に視認し、避けながら思い切って懐に飛び込む。
恐怖がないのは、二度目の死闘に感覚が麻痺してしまったからか。
それとも、自分の知らないどこかに、この羅刹とやりあえるという自信が生まれたからか。
懐に飛び込んだ俺は、衝の左横腹に刀の柄で強烈な一撃を叩き込んだ。
鎌を警戒しつつも、即座にその場を離れる。
身体の大きな衝相手に、大きな一撃はいれられずとも、少しずつ体力を削いでいくことは出来る。
何より今は、一人ではない。
脇腹への強打で体勢を崩した衝の右側から、女の一撃が迫っていた。
失くして間もない右腕が、武器を求めて宙を彷徨う。
無論、手首より上で切断された右腕には大鎌などなく、失策に気づいた衝が左手の鎌を女の側に向けた時にはもう遅かった。
女の槍の先が衝の右目を抉っていた。
再び咆哮を上げて武器を獲り落とし、右眼を抑えた衝の指の隙間から、赤い液体がどろりと流れ出る。
ここで畳みかけるしかない。
左手の刀を逆手に持ち替え、低い体勢で衝へと突っ込んだ。
頭を狙って蹴りあげてきた足は身体を捻ってかわし、代わりに足の付け根を切りつける。
少しずつ、力を削いでいく。
俺と同じように右目と右腕を潰された羅刹をじわじわと追い詰めていく。
「こんの……無族の糞餓鬼どもが!」
一つずつ抵抗の手を潰されていく衝の咆哮が響き渡る。
あと少しだ。
足元に転がっていた剥の鎌を拾い上げ、血色の鎌の柄から伸びる頑丈な鋼の縄の一端を握った。
左手に持っていた刀は地面に突き刺して置き去りに、俺は血鎌を振りかざして衝の元へと駆ける。
四肢に深い傷を幾筋も刻まれ、動きが緩慢になっている衝の左手の鎌を避けて間合いを詰める。
そして、その手首に血鎌の鋼縄を引っかけた。
反対側の血鎌を近くに木に深く突き刺せば、衝の動きはほとんど制限される。
即座に刀を拾い上げて、身動きのとれない衝の元へと向かう。
「首を狩れ、盗賊!」
そう叫んだ槍の女は、懐に差していた扇子を広げ、衝の顔面に叩きつけた。
こんな時なのに、なぜか不意にきさらの言葉が脳裏をよぎる。
――右腕と右目のない青ちゃんの左目を塞いで、左手を使えなくして連れ去るヒトがいたらどうなの?
そう聞いたきさらと、それは卑怯だと言い切ったでこぱちと。
悪いな。
俺は卑怯者だ。
右腕を落とされ、左腕を拘束され、右眼を抉られ、左目を扇で覆われた巨躯の羅刹。
左手の刀に渾身の力を込め、俺はその首根を薙いだ。
生き物の首を落としたのは初めてではない。
それでも、羅刹族であるからか、予想以上の手ごたえが俺の左手を伝って全身を痺れさせるように駆け廻った。
一瞬遅れて、腕を落とした時とは比べ物にならない量の血が噴き出した。
頭部を失った身体は、一・二度震えた後、地面へと倒れ伏した。
息が荒い。
全力の戦闘を終えた所為だ。
それでも、前は致命傷を負わされた相手に、二人掛かりとはいえほとんど大した怪我もせずに勝利を収めた――あの二人は、俺を卑怯ものだと呼ぶかもしれないが。
俺は、無意識に飴色の髪を探した。
この半月の柵も、自分の中の澱が騒ぐ声もすべて忘れた死闘の終わり、何もかもをはじまりに戻した状態の俺が求めたのは、あいつの姿だった。
戦いの後には、いつもあいつが隣にいたから。
「でこぱち」
そう呼べば、見つけた飴色の髪が振り向いた。いつもの笑顔を湛えながら。
それだけで俺はほっとする。
足元には、相手をしていた筈の羅刹が転がっていた。
しかし次の瞬間、どちゃ、と何かが爆ぜる音がした。
水のようなものに何かが落ちる音。
血溜まりの中に落ちる影。よく見慣れた向日葵色の上着が広がって、一瞬遅れてぱさりと地面に落ちた。
じわり、と滲みだしてくる鮮血。
鉄錆の匂いがした。
これは緋珠なんかじゃない、本物の血だ。
ざぁっと全身の血が退いた。
「でこぱち!」
きさらの時と同じ絶望感が全身を覆った。
盗賊狩りたちが何かを叫んでいるようだったが、全く耳に入らなかった。
「でこぱち! おい!」
返事はない。
全身の血が逆流した。
いったいどうしてこうなった?
何故、こいつは俺の目の前で倒れ伏しているんだ?
向日葵色の上着を裂く、大きな傷が背を横断していた。
いつしか降りだしていた雨が、その血の端ををじわじわと滲ませるより速く、血が湧き出して滲みを埋めていく。
酷い怪我だ。すぐに止血しないと――
しかしその時、でこぱちが相手をしていた筈の羅刹が起き上った。
「く……そが……無族風情が……羅刹族に楯突くなぁあ!!」
口の端には血を滲ませ、きこんでいた筈の着物を片脱ぎにしている。目の部分を覆っていた筈の硝子は割れ、血の気の多そうな若い素顔が曝されていた。
背には相手を睨みつけるような痣がくっきりと浮かび上がっている。
が、その羅刹ははっと辺りを見渡し、茫然となった。
地面には居待に喉笛を掻き切られた剥と、首を落とされた衝の身体が転がっている。
「……衝さん、剥さん」
茫然と呟いた羅刹は、ふらふら、とそちらに近寄った。
ごろりと地面に転がった衝の首の傍に膝をつく羅刹を、3人の盗賊狩りが包囲した。
「逃さんぞ。あとは貴様だけだ」
息を荒くした女が告げる。
大事なモノを包み込むように、震える両手で衝の首を拾い上げた羅刹は、武器を向ける盗賊狩りたちを一渡し睨みつけた。
その視線で盗賊狩りたちが怯んだ隙に、羅刹は剥の元へと駆けた。
駆け抜ける勢いで刀を地面に向かって振るう。
完全に逃げの体制に入り、駆けていった羅刹は、十分に距離をとってから俺たちの方を振り向いた。
「もう、刀のサビじゃ俺の腹は収まらねぇ。肉弾けて、臓腑巻き散らして、血の一滴まで絞り出して殺してやる。骨一本の形も遺すか。粉々に砕けて、死に曝せ」
右手に抜き身の刀、黄丹色の髪を左手に掴み、血に塗れた衝の首の角を咥えた壮絶な姿で。
最後の言葉を吐いた羅刹は、雨の向こうへと消えていった。
去っていく羅刹を見送り、俺ははっとした。
「でこぱち」
じわりと滲みだす鮮血。
つい先ほどまで共闘していた盗賊狩りが何かを言っているが、全く俺の耳には届かなかった。
ただ聞こえるのは自分の心臓の音だけ。
「……耶八」
ぐったりと倒れ伏した相棒を背に負い、駆けだした。
山を下り、荒れ地を抜け――逃げ出したはずの草庵へ。