はじまり
馥郁たる香りの充満する場所で、俺は昏迷に捕われる。
ねっとりと絡みつくような声音が耳朶に絡まり、身動きが取れなくなってしまうのだ。
「赤は嫌いなの」
おねだりをする少女のような音吐は、まるで芥子が根を張るように全身を這い、自由を奪っていった。
嫌いなの、と言ったはずの赤の衣が視界を奪っていた。
鮮やかな赤に白抜きの花模様。
「だから――」
少女の声はそこで消え、右耳に灼熱が走る。
自分の喉から迸るのは叫喚。
全身を充たしているのは、ほんの一握りの恐怖と――全身を蝕む後悔だった。
弾け飛ぶ赤の飛沫の向こうに一瞬、そんな過去の幻影を映した俺は、はっと我に返り、再び目の前の相手を見やった。
一歩踏み出した足の下で、川辺の砂礫が擦れる。すぐ傍で、ここと隣の府州を隔てる賀茂川が涼やかな音色を奏でていた。先日の雨で増水していた流れは既におさまったらしい。
正午過ぎの晴天、真上から降り注ぐ陽が睨み合う俺と彼女に差していた。
ほんの数合打ち合っただけの女は、すでに息を乱している。緩く結い上げ、輪を作る花緑青の髪が、呼吸に合わせて頬にかかるように揺れる。しかし、額にうっすらと汗をかきながらも、細められた眼に嵌め込んだ翡翠の瞳に強い意思の光を灯し、彼女は俺に細槍を突き付けた。
「何を呆けている?」
手にした槍の先に下がる輪がぶつかり合い、しゃん、と澄んだ音が鳴った。
それは、彼女が攻撃を仕掛けるたび、まるで自分の位置を知らせるかのように響き渡るのだ。
戦いの中で居場所を知らせたところで幾許の枷にもならない、避けられるものなら避けてみろ――そう言わんばかりの彼女の真っ直ぐな攻撃は、確かに驚くほど疾かった。
めんどくせぇ。
俺は思わず嘆息した。
つい今、大気までも裂くような鋭い突きに掠め取られた右大腿の傷がずきりと痛む。
「めんどいことは全部、あいつに押し付けてきたつもりだったんだが」
十数名の隊士と一人の女。こちらの方が面倒な相手だったことに、どうして気づこうか。
俺よりは少し年上だろう、全身から近寄りがたい雰囲気と不機嫌さを余すところなく発散しているこの小柄な女が驚くほど鋭い殺気を放つなどと。
随分前に失ってしまった右目の側、見えぬ方向に刀を振り遅れた一瞬、大腿を抉られようなどとは。
右目を失った俺が、右からの攻撃に弱いのは道理とはいえ、女の腕を認めざるを得ない。
「面倒だと? それは此方の台詞だ。何故私が下賤な盗賊退治などに赴かねばならんのだ」
盗賊退治、と俺に喧嘩を吹っ掛けてきたこの女性の名も素性も知らないが、話しぶりからするにどうやら北倶盧洲政府から派遣されてきた役人なのだろう。
それもこの戦闘力。政府お抱えの『元』羅刹狩り一味と見て間違いない。先の大戦が終幕するまでは害なす羅刹を根こそぎ刈り取っていたはずだ――そう、今から約半年前に和平が成立するまでは。
細めた眼をますます吊り上げ、目の前に立ち塞がる女は腹の底から絞り出すように漏らした。
「隻眼隻腕、青髪の盗賊……夜叉のように赤い眼なんぞしやがって、気色悪い。反吐が出る」
「俺だって好きじゃねぇよ」
赤は嫌いだ。
特に、酷く鮮やかな猩々緋のような色は。
俺は、自らの纏う衣の色を棚にあげ、左手の刀を軽く振った。
右足の傷は深くない。ただ、あまり無理をすると後で師匠の孫に叱られてしまうだろう。
医療を学んだ忍のくせに、血を見て慌てる少女を思い出し、怪我をした右足を庇って重心を左に移した。
それを戦闘開始の合図と受け取ったのだろう。
目の前の女の空気が一変した。
しゃん、と澄んだ音が鳴る。
「死に曝せ」
次の瞬間、お手本のような摺り足で、関節の力を無駄なく使い、ほぼ一足で間合いに踏み込んできた。
身体の大きさに似合わぬその遠い間合いは、細槍と相性がよく、瞬く間に切っ先が眼前に迫ってくる。
退くのは論外。
突進してくる力を斜め後ろへと受け流すように、左へ一歩踏み出した。
すぐ右を槍が通り過ぎている気配がある。
見えない、が分かる。
その気配を頼りに、馬鹿正直に突っ込んでくる女の顔面に向かって逆手に引いた刀の柄を振り下ろした。
そこに、慈悲はない。
自らの突進力で額を割られた女の死体がそこに転がるはずだった。
ところが。
女の口元が緩んだ。
そんな攻撃は読めている、とでも言いたげに。
刹那の視線に、柄になく苛立つ。
完全に予測されていた攻撃は寸でのところでかわされ、槍の柄が目の前に迫っていた。
反射的に、庇っていた右足に力を込めた。
同時に刀を脇に収める勢いで、左足を投げ出し、槍の柄を横から蹴り飛ばす。
かなり強引な回避。
しかし、しっかりと武器を握っていたのが災いしたのか、反動で重心の浮いた女が体勢を立て直す前に、正面へと回りこむ。
驚いた女の顔を下から見上げるようにして微笑う。
「遅い」
『疾さ』を武器に戦う女にとって、最も屈辱的な言葉を吐き。
下から顎を蹴りあげた。
どれだけ技を磨こうとも所詮は女の身、力を入れず振った蹴りでも、軽々と跳んだ。
花緑青の髪を乱して地面に伸びた女に止めを刺す趣味はない。
鞘のない刀を河原の砂地に突き刺し、他の敵を片付けた相棒が戻ってくるのを待つことにする。
緩やかな川の音だけが響き、辺りは再び静寂に包まれた。
が、静かだったのはほんの一時。
「青ちゃん! さっきのヤツら、おれが全部倒してきたよ! 全員弱っちかったけど」
大音量と共に相棒が姿を現した。
頭のてっぺん近くで結んだ濃い飴色の髪がふよふよと風に揺れ、笑うと八重歯が覗く。地味な色の着物の上に酷く派手な向日葵色の上着。並べば見下ろす位置にある身長に、全く似合わない長刀を背に負っていた。
もともと小柄な上に眉のかなり上で揺れる前髪の所為で余計に幼く見える。
最も、この短時間で十数名の隊士を残らず倒してきたのだから、実力は疑うべくもないのだが。
何より俺は、欠けた我が身を以てその強さを体感していた。
褒めて褒めて、とねだる視線に負けてぽん、と頭に手を置いてやると、満足したのか嬉しそうに笑った。
と、そこでようやく河原に伸びている女に気づいた相棒は、隣にしゃがみこんでつんつん、とつついた。
「死んでない」
「放っとけ」
行くぞ、と促し、砂地に差していた刀を引き抜いた。
抜き身の刀を手にそのまま河に沿って歩き始めた俺に、半分駆け足の相棒が追い付いてくる。
「なぁなぁ、青ちゃん。さっきのさ、何だったんだろ。いつになく大勢だったしさぁ」
「んぁ? 盗賊狩りだろ、言ってなかったか?」
「聞く前にやった」
「そか」
非常に面倒な事だが、俺たちが好む好まざるに関わらず、喧嘩を売ってくるヤツらは多い。
売られた喧嘩を買い取って、結果的に自分たちが派手な動きをしている事は重々承知している。敵が多いのも承知しているから、一つ一つの諍いに興味もない。
連鎖の切欠が果たして何だったか、そのはじまりなど既に記憶の彼方へと捨て去ってしまった。
だから、元羅刹狩りが盗賊である俺たちを襲った理由にも興味がない。
とりあえず、邪魔された昼寝の場所をどこにするか、それが一番の問題だった。
此処は、大陸の北に位置する北倶盧洲の果て、通称『賽ノ地』。
狭間に存在する場所。
人間と羅刹の。
俺たちの住む北倶盧洲と、隣の西牛貨洲の。
ヒトとヒトならざるモノが混在する土地。
此処に救いなど在りはせぬ。
個々の救いなど在りはせぬ。
求めるな、さすれば命だけは奪わない。
求めるならば、その代償に命を賭ける。
賭けた命と『何か』を失う、狭間の土地。
ここは、極楽浄土の成れの果て――