毒舌ホムンクルスの純愛
パチパチと燃える暖炉の火を、私は視界の端に捉えている。部屋の照明は、この暖炉と天井から吊るされたランプだけだ。暖かい。えもいわれぬ暖かさが、ほんわりとこの部屋を包んでいる。
いつものように、部屋の隅で一人私は立っている。常人なら疎外感を覚えるかもしれないが、そんな感情は微塵も無い。元々そんな感情は知らない。
それに、私は現在の状況に満足している。家族四人の団欒をこうして護衛することが、私のささやかな誇りだから。
「スハールカ」
「はい」
名を呼ばれ、私は答える。視線の先で、私の御主人がこちらを向いている。昔と変わらない優しい茶色の瞳だ。
「そろそろ子供達を寝かせたいのだけど、頼まれてくれるかい?」
「はい、勿論でございます。というか、まだ言い出さないのかこのボンクラはと、内心イライラしておりました」
「......い、いつもながら刺さるなあ。ありがとう、助かるよ」
御主人の謝意に一礼しつつ、私は二人のご子息に
近付く。子供は寝る時間だ。御主人の奥様もまた、微笑みで以て私を労ってくれた。
「いつもありがとう、スハールカ。本当に助かるわ」
「勿体ないお言葉です、奥様。そもそも私はお仕えする為に造られた存在ですから、遠慮は無用です。これは昨日も一昨日も申し上げました、そろそろ覚えていただきたく存じます」
「ふふ、ごめんなさいね。それでも、ね? 貴女のおかげで、私達は今こうしていられるのだから」
玲瓏たるその声は、真摯に響いた。造り物の私でも、それは心の奥底からの物だと分かる。顔の表情を制御して、私も微笑みらしき物を作る。
「御主人と奥様をお守りすることが、私の幸せですから。何て言うとでも思いやがりましたか、ふふん。言いますけど」
「えー、スハールカー、僕らはー? 僕らは入ってないのー?」
「そうよー、あたし達は守ってくれないのー?」
「失礼いたしました、お二人は言うまでもなく対象です」
足にまとわりついてきたのは、二人のご子息だ。八歳と六歳、まだまだ甘えたい盛りなのだろう。二人の体を抱きかかえる。キャッキャという笑い声、そして私の頬に触れるお二人のお顔の柔らかさがくすぐったい。
「お二階まで連れていかせていただきます。寝ない子は育ちません。低い背を恨んで枕を涙で濡らすような将来を、私はお二人に望んでいませんから」
「スハールカ、力持ちだよね!」
「あっ、お兄ちゃん、女の子にそういうこと言っちゃいけないんだよ!」
「――いえ、私は別に」
微かに首を傾げるという行動を選びつつ、私はお二人をちらりと見た。きっと幼いお二人の眼には、私の赤い瞳が映っているだろう。
「人造人間ですから」
******
「ねえ、スハールカ、外に遊びに行こうよ!」
私は答えません。
「ねえ、スハールカったらあー、聞いてるの?」
尚も私は答えません。無視です。隣に座る御主人、七歳になったばかりの男の子だ、の声を右から左に流します。反応しない私に、御主人はしびれを切らしたようです。小さな頬をぷいと膨らませました。
「もういい、スハールカの馬鹿っ! お勉強なら後でやるって言ったのに!」
「後。後ですか。失礼ながら御主人、午前中のこの時間はお勉強ということで先日お約束致しました。これは旦那様も奥様もご同席の上で、正式に決めたことです」
ギギ、と首を軋らせて、私は御主人を見ます。私の赤い視界に捕捉された御主人は、僅かに顔をひきつらせていました。怯えたのでしょうか。しかし甘やかすのは良くないですからね。
「つまりあの機会に於いて、旦那様、奥様、御主人、私の四名の時間を消費して、時間割が決められたのです。それを破るということであれば、私達にしかるべき説明及び失った時間を返却、しかも利子つきで、が必要になるのですよ」
「利子つき!? 厳しすぎない!? ちなみに幾ら!?」
「おおまけにまけて、十三ですね(十日で三割)。優しいでしょう?」
「どこがだよ、超高利貸しじゃないか!」
目を剥く七歳児に、私は微笑みます。懐から一枚の紙を取り出し、御主人の眼前に晒しました。
「嫌ですね、御主人。ここにほら、御主人の可愛い筆跡でサインがされています。自ら約束されたのですよ、もし時間割を破ったら十三で時間を私達に返しますと」
「こ、こんな紙にサインなんかした覚えないよ! っ、あああっ、スハールカ、お前、僕が昼寝している時に手を取って無理矢理サインさせたろおおお!」
「証拠はおありでしょうか、御主人?」
殊更に無表情に、私は顔を寄せました。幼い御主人は、その分だけ顔を引きました。ふふ、幼い顔がひきつる様は最高です。
「な、無い、無いけど」
「ありませんよね。それに私は、無理は申し上げておりません。最初に決めた時間割に従えば、御主人には何の罰もございません。反乱の気配を見せた罪人に対し、これはもう聖女のごとき優しさと包容力かと」
「あのさ、僕一応、君の御主人なんだけど!? 罪人って酷くない!?」
「約束を破ろうとしたのですから仕方ないですよ、罪人」
「泣いていいかな、この毒舌ホムンクルス!」
ひとしきり怒鳴って、御主人は息を切らします。それを尻目に、私は水差しを手に取りました。御主人が、そのくりくりした茶色の瞳を動かします。
「水くれるの? 喉乾いてたんだ、ありがと」
「いえ、花に水をやらなくてはと思っただけです。何で私が罪人にお水をあげなくてはならないんですか、そんな義務無いんですけど」
「ほんと性格悪いんですけど!?」
御主人はいきり立ちました。おやおや、顔が真っ赤だ。仕方ないですね。
「はい、特別サービスでお水です。罪人には過ぎたる大サービスです、感謝してください、いやほんと」
「うぐぐ、い、いつかスハールカに絶対勝ってやるんだからな! 覚えてろ!」
「そんな三下みたいな捨て台詞を吐いてるようじゃ、語彙力が疑われますよ。ですからお勉強が必要なのです」
完璧に論破して、私は御主人を机に戻らせました。流石に抵抗する気力も無くしたらしく、御主人は素直に従います。口を尖らせて何やら呟くくらいは、見逃してあげましょう。
「ふんだ、スハールカなんか......」
「嫌われても構いません。私が嫌われるくらい、御主人の健やかな成長に比べれば、安い犠牲にございますれば」
「......嫌いじゃないよ」
そっぽを向いた小さな頭部を、私は優しく撫でました。人間の女性型に作られた私の手は、それなりに柔らかくたおやかです。血肉が通っていなくとも、触られて悪い気はしないと思います。
「ありがとうございます、御主人。流石は未来のシュハウザー家のお世継ぎでございます」
「子供扱いしないでくれる? ほら、勉強するんだから、さっさと教科書貸して」
「どうぞ」
少し顔を赤くして、御主人は教科書を開きました。窓硝子を通した春の柔らかい光が、御主人を照らし出します。その姿に、私はほうと息を漏らしました。
これは御主人こと、マイセル・シュハウザー様が七歳の頃の春の一日です。私の記憶には、この何でもない光景がしっかりと刻みこまれています。
******
御主人は頭はともかく、体力や武芸には才能が乏しいのは知っていました。人間には向き不向きがあります。だから、それを責めようとは思いません。
「体力や武芸についてはほんとすかたんなんですね、御主人。知っていたつもりでしたが、本日改めて認識しました」
「そこ、傷口抉るようなこと言うなあ!」
涙目になりながら、御主人が髪をかきむしります。灰色の柔らかい髪は、一気にぼさぼさになりました。
「申し訳ありません、御主人」
「......いや、いいんだよ、スハールカ。僕が体を動かすのが苦手なのは、事実だから」
「いえ、ふけが飛ぶので髪をかきむしるのは止めていただきたいと言いたかっただけです」
「ごふっ」
あっ、血を吐いた。いやですね、汚いじゃないですか。
うん、でもこれ以上苛めては可哀想かもしれません。十一歳になったことで、御主人は本日初めて魔物討伐を体験されたのです。他の貴族のご子息に比べて、多少......ええ、多少酷い有り様でも、頑張られたのは事実なのですから。
「まあ人生は結果でしか評価されませんから、努力しただけでは骨折り損のくたびれ儲けですけど」
でも私は敢えて言います。人造人間特有の白い髪を指でいじりながら、御主人を見据えます。
「なあ、スハールカ」
「はい、何でしょう。三時間頑張った挙げ句、ゴブリン一匹倒せずにおめおめ逃げ帰ってきたマイセル様」
「お前、僕のこと嫌いだろ?」
「マイセル様は私のことは嫌いでしょうか?」
「質問に質問で返すなあああー! うぐぐ、むーかーつーくー!」
ああ、この調子なら大丈夫ですね。ほら、悔しさの余り、三点倒立されています。バランス感覚だけは大したものです。
その時です。私の危機察知感覚に、何やら触れる物がありました。無視できるレベルではありません。
御主人を放っておいて、私は周囲を見渡します。おや、何か上空から舞い降りてきますね。青空を背景にして、大きな翼を広げています。緑色の鱗に覆われた体、そして長い首の先には鋭い牙を備えた頭部。ふむ、あれは。
「翼竜だ! まずい、総員戦闘体制!」
「くそっ、よりによってご子息達がいるというのに!」
おやおや、周囲の貴族の方々が焦り始めました。無理もないか、一体の翼竜でも熟練の冒険者のパーティーを壊滅させることがあるのですから。
「子息達は逃がせ、後方待避だ!」
「騎士団は前へ、魔導弩砲用意!」
うん、的確な指示だと思います。いきなりの翼竜の襲撃にも慌てず、統率の取れた動きです。けれども、御主人と私にまで「早く逃げろ、シュハウザー家の方々!」と言うのは、ちょっといただけません。
「スハールカ、任せていいかい」
御主人の茶色の瞳が、私の赤い瞳を捉えます。
「勿論でございます、御主人」
対して、私も片膝をついて応えます。右手を前へ、左手は腰の後ろに。正式な臣下の礼を取りながら。
「空で落とせ。僕たちに指一本触れさせるな」
「承知しました、ゴブリン一匹倒せない御主人には指一本触れさせません!」
「その枕言葉、必要!?」
御主人の非難を無視して、私は武装形態へ移行します。体内の魔力炉を廻し、全身へ魔力を伝達。両の腕を伸ばし、肘から先を武器化します。今日はどの武器にしましょうか。そうですね、切り刻みたいのでやはり双剣で。
「準備完了。駆逐します」
「頼むよ、スハールカ」
御主人の激励に頷き、私は跳躍しようと――あ、この格好だと辛いですね。足首まである長いスカートを、一気に膝上まで切り裂きます。ほら、これで動きやすくなった。
「おおおおおい、スハールカ! はしたないだろ、それ太もも丸見えだろ!」
「は? 足が見えるくらいなんですか、何を動揺しているんですか。小さい頃は一緒にお風呂に入った仲で、何を足くらいでがたがた言ってるんですか」
「うわ止めろ、馬鹿、言うな」
顔を真っ赤にして、御主人はわたわたしています。何でしょう、反抗期でしょうか。まあいいです。とにかく今は迎撃です。
「行きます」
そして私は、宙高く跳び上がった。
翼竜は驚いただろう。地上に這いつくばっている餌が、いきなり眼前に迫ってきたのだから。
「いやあ、けれど所詮はドラゴンもどきですよね」
対峙する私は微笑む。跳躍からの魔力制御で、翼竜と同じ高度で向かい合って静止している。手それ自体が剣と化した相手を、翼竜は何と認識しているのだろうか。
ま、考えるより先に。
「さよならです」
先手必勝。静止状態からの爆発的な加速で、間合いを零へ。すれ違いざまに、私は刃を突き立てる。袈裟がけからの、下肢への斬撃。そこから反転して回り込み、両の翼を切り捨てた。形容しがたい叫び声が、翼竜の顎から漏れる。
「ああ、落ちないでください。下の皆さんに危ないので」
重力に引かれて落下しかけた翼竜を、私は串刺しにする。そうですね、微塵も無く消し飛ばしておきましょう。双剣へ魔力を伝導、翼竜の体内でそれをスパークさせます。白熱した魔力は疑似的な雷光となり、翼竜の体を散り散りに焼き切りました。
呆気ないです。でも、御主人が無事なら、それにこしたことはありません。黒い煤が舞い落ちる中、私は御主人の下へ帰還しました。
「任務完了しました、御主人」
「ありがとう、と言いたいところなんだけどさ」
ん、何やら不満なのでしょうか。御主人は私に詰めよってきました。幼かった顔も少し大人っぽくなったと、私は場違いな感想を抱きます。
「何でしょう。翼竜はバラバラです。ぶるぶる震えていた御主人には、指一本触れさせておりませんよ」
「震えてないよ! あ、あのね、スハールカさ。そのさ、跳び上がった時に」
「跳び上がった時に」
「君、女性型だから、その、穿いている訳だろ。見えるんだよ! 気をつけろよ!」
「ああ、分かりました。つまり御主人は私のパンツを見て、ムラムラきてしまったと! このムッツリスケベ!」
「ムッツリ違うわ! 最近扱い悪くないか前からだけどさ!?」
「だって、御主人をいじるのは楽しいからです、決まってるじゃないですか。そんなことも分からないんですか、坊やですねえ」
顔を真っ赤にして、御主人は俯いてしまった。なるほど、私は人造人間だから羞恥心などない。けれども、周りから見たら、やはり若い女の下着が見えるのはまずいようだ。
「以後気をつけます、御主人。あと、私なんかのパンツで反応しないでください。確かに今日穿いているのは、黒のレースで結構刺激的かもしれませんが!」
「だから何故そういうことを大声で言うんだよ! 泣くぞ、ほんと!」
「いや、御主人もそろそろ殿方の楽しみを覚える頃かなと。下の毛も......むぐぐ」
くっ、油断した隙に口を塞がれてしまいました。
「スハールカあああ、それ以上言うなあああ~」
「すいません、下の毛が最近生え始めた御主人」
「わざとだよな!?」
こんな風に、私と御主人は平和な日々を送っています。これは御主人が十一歳のある日の出来事です。私の記憶には、この何でもない光景がしっかりと刻みこまれています。
******
シュハウザー家の裏庭で発見されてから、私はずっと御主人に仕えています。スハールカという名前をつけてくれたのも、御主人です。その時、御主人は僅か四歳でした。
よくもまあ、こんな口の悪い人造人間を捨てずに置いてくれていますよね。食費のかからない護衛兼家庭教師なのでしょう、多分。
そう、そして私もそのご恩に応えるべく、必死で働いてきました。
「ほら、転んだらすぐ立つのです。御主人の汚い泣き顔など、誰も見たくないのですから」
「ふ、ふえええ......ぐすっ」
「出来る、出来ます。あなたは私の御主人なのですから!」
全く、御主人はほんとによく泣くどんくさい子でした。
「それはナイフ、こちらはフォーク。外側から使うのです。食器も使えないのでは、犬と同じですよ」
「ご、ごめん、スハールカ。もう一回お手本見せて」
「はあ、仕方ないですね。いいですよ、何度でもお見せします。地獄の果てまでお供する覚悟は出来ていますからね」
唇を噛み締めながら、御主人は諦めずに私のしごきについてきました。根性だけは認めて差し上げます。
「はい? 友達と喧嘩した? あー、だからこんなに顔に傷を作ったのですね」
「うん、嫌な奴でさ、足の悪い子を馬鹿にするから。僕がその子の代わりに戦ったんだよ」
「......弱いくせに立派じゃないですか、御主人。ふん、一丁前に男の子してますね」
腕力には自信無いのに、たまにいい格好することもありましたね。傷口に薬を塗る私の身にもなって欲しいのです。けど、ちょっと誇らしげなその顔を見るのは、悪くありませんでした。
「ねえ、スハールカ。一緒にお祭り見に行こうよ」
「嫌です。お祭りなんか別に興味無いです、人造人間ですから。御主人も、口の悪い私などより別の方を誘うべきです」
「嫌いじゃないから」
「は?」
「スハールカのこと、毒舌でも嫌いじゃないからさ。一回くらい、一緒にお祭り見に行きたいんだ」
「物好きですね......分かりました、一回だけですよ」
何故、私などを、笑顔でお祭りに誘うのでしょう。意味不明です。可愛い女の子がいなかったから、仕方なくなのでしょうか。はあ、将来が心配になってきました。
心配ですから、ずっと私が守ってあげなくては。
******
屋敷の窓から見る庭は、一面の雪景色だ。白い雪に、傾きかけた夕陽の橙が映える。
「雪景色の中で挙げる結婚式ですか、御主人には勿体ないくらい素敵な式になりそうですね」
「あ、ああ、そうだね」
「あれ、どうかなさいましたか。寒さでお腹でも下しましたか。全くだらしないのですね」
おかしい。御主人の反応が鈍い。明日が結婚式だから、緊張しているのだろうか。花嫁となる令嬢とは意気投合しており、両家の仲も良い。懸念事項は無いのに何をびびっているんですか、このへたれは。
「結婚式を前にそんな浮かない顔をしていたら、幸せが逃げてしまいますよ。シャキッとしてください、シャキッと。はっ、まさかあれですか」
「あれって?」
「初夜が上手くいくか心配なんですね? ふごっ!」
うおっと、御主人の強烈な一撃に私の後頭部が揺らぎます。十七歳にもなると、弱いなりに成長するんですね。感心感心。
だけど、顔を上げた私の目に映るのは。
「あのさ、スハールカ」
眉を寄せ、苦しげな表情をした御主人の顔でした。ふっと不穏な影が、私の思考をよぎります。
「はい、何でしょう。葬式みたいな陰気面の御主人」
「茶化すなよな......」
あれ。御主人の体が近付いてきます。とてもゆっくりと、だけど確実に。何をして――ん、んん?
「御主人、えーと、これは」
「いい、喋るな」
零距離の間合い。密着した体。私の肩に、御主人は顔を埋めている。今はもう私より背が高くなったから、少し私にもたれかかるようにして。
「何でだろうな」
ぽつり。御主人の、マイセル様の声が響いた。
「何で僕は、君なんか好きになっちゃったんだろうな」
また、ぽつり。好きという単語に、私はどう反応すべきか迷った。意味を分かりかねた。だから沈黙を保つことを選んだ。
「こんな口が悪くって、僕に厳しくって、人のことをおちょくりまくって」
「いや、そんな褒めないでください」
「褒めてないからな!? どんな思考回路を経由したら、そんなポジティブになるんだよ!」
「はは、すいません。御主人、あの、ありがとうございます」
「スハールカの割りには、平凡な反応だね。語彙力が不足しているんじゃない?」
「いつぞやの仕返しですか。御主人の成長が認識できて、嬉しく思います」
調子が戻る。けれども、マイセル様の腕は私の背中に回されたままだ。もう子供ではないのだから、これは単なる親愛の情以上の意味があるのだろう。
どうしようか。胸の内の魔力炉が、どんと大きく鳴った。仕方ない。覚悟を決めて、私も両の腕をマイセル様の背中に回す。
「マイセル様」
「ん」
「明日の結婚式から逃げ出そうなどとは、まさかお考えではないですよね」
「一瞬考えたけど、その考えは捨てたよ。僕の肩にかかった重みは、シュハウザー家の命運そのものだから」
「それなら良いのです。もし万が一、私などを選び、駆け落ちするなどとおっしゃったならば」
「おっしゃったならば?」
「マイセル様を薬で洗脳して、人格を一から作り直さねばならないところでしたからね」
「怖いな、おい!」
いつものやり取りを、いつもとは違う体勢で、マイセル様と私は紡いでいた。マイセル様の体熱が伝わってくる。けれども、私には人間にはある体熱が無い。だから、マイセル様は寒いだろう。
私は人造人間だから。
「ほんとに趣味が悪うございますね、マイセル様は。こんな人間でもない、造られた存在の、心も持たない人造人間などに好意を寄せるなど」
言葉が、私の唇から漏れた。自嘲の響きを含んだそれは、何故か口に出すと痛かった。痛覚など、私には無いはずなのに。
「――うん、自分でもそう思う」
「性格も口も悪く、生殖能力も無く、体熱すらも無い、ただの人形に過ぎないのですよ、私は。それなのに、よく好きなどと言えましたね。馬鹿なんですか、マイセル様は」
「スハールカだからな、僕にとっては」
「え?」
「君が人造人間だろうと何だろうと、ずっとずっと傍にいてくれた......スハールカだから。うん、君がスハールカだから、好きになったんだと思う」
「は、はは、何ですか、それ」
予想を遥かに越えた御主人の反応に、私は不覚にも狼狽えた。魔力炉が、またどくんと鳴る。知らない、こんな状況は想定していない。
「勝手です、御主人は。私の事情なんか考えもせずに、こんな風に」
「ごめん」
そうだ、勝手だ。
「糞味噌に罵倒しながら、必死こいて御主人を育ててきたのは、全部立派なお世継ぎになってほしかったからですよ」
「うん、知ってる」
そうだ、まだ私の腰にも背が届かぬ頃から、ずっと面倒を見てきたんだ。
「御主人がちょっとずつ成長していく傍で、私はずっと同じ外見のままで、けれども、御主人が立派になっていくのが嬉しくて」
「......うん」
人造人間は歳を取らない。魔力炉がその動作を停止する恐らく数百年先まで、ずっと同じ外見を保ち続ける。
「御主人の婚約が決まった時、本当に嬉しくて、私は祝杯をあげたものです。大して飲めもしないのに」
「ああ」
「なのに、こんな時に、そんな感情を伝えられても、私は――」
どうやら、私の語彙力も大したことは無いらしい。この状況を最適な形で処理する言葉が、どうしても出てこない。仕方ない、言葉が使えないなら行動だ。
一度だけ。
私が停止するまでの長い長い月日の間の、この一度だけでいいから。
貴方を抱き締めよう。この血の通わぬ腕に、万感の想いを込めて。
******
小さなお二人を寝かしつけおえてから、私はそっと寝室を後にした。御主人が小さい時も、よく同じように寝かしつけた物だ。二十年以上も前のことを、私は昨日の事のように記憶している。
「任務終了しました、御主人」
「お疲れ様。ああ、そうだ、スハールカ。一杯やらないか?」
部屋に戻ると、御主人が声をかけてきた。奥様と二人で酒卓を囲んでいるところを見れば、何をやろうとしているのかは明らかだ。
「はあ、またお酒ですか。昨日も一昨日も飲まれてましたよね、よく飽きませんね毎日毎日」
「あら、私達の健康を心配してくれてるのね。ありがとう、スハールカ」
「なっ、い、いえ、そんなことは......はい、少しは」
奥様の柔らかい微笑みに、私は言葉に詰まる。どうも私はこの人には敵わないらしい。むぐぐ、と唸りつつ、お相伴にあずかることにする。
「誘っておいて何だけど、スハールカって飲めるんだったかな?」
「前にも話しましたが、ちょっとくらいは飲めますよ。まだ若いのに呆け老人とか勘弁ですよ、御主人。介護機能までは持ち合わせて無いですから」
「ふふ、でも何だかんだ言っても、スハールカって優しいわよね。口の悪さで照れ隠ししてるだけなんでしょ?」
「えっ、そうなの? 僕が小さい時からずっとこんなんだぞ、こいつ」
奥様につられるように、御主人が私を見る。昔と変わらない茶色の瞳は、今もやはり優しい。
「ふん、どうせ私は性格悪く造られておりますれば。さ、お酌いたします。酒瓶をお貸しください」
トクトクと、赤紫色の葡萄酒をお二人のグラスに注ぐ。自分の分は、御主人が注いでくれた。恐縮なんかしてやらないです、ふん。
チリン、とグラスが触れあい、澄んだ音が鳴る。この何気無い風景を記憶の中に閉じ込めるように、私は葡萄酒を喉に流し込んだ。
そう、ただ一度の抱擁の思い出さえあれば、他には何も望まないのだから。へたれで弱くて泣き虫で、だけど愛しくてたまらない御主人との思い出が、今日も私の魔力炉を動かしている。