また夢の中に、あの人が出てきた。
彼は、今日も私に向かって「僕はやってないんだ!」と訴えていた。
その声にたたき起こされるようにして、私は目を覚ました。
心の中では、まだ動揺が静まらずにいた。
私は、いつもどおりに朝食を食べると、いつもどおりの時間に家を出た。
そして、いつもどおり通学に利用している駅に向かっていき、いつもどおりの電車にのって学校に向かうことになっていた。
そう。今日もいつもと変わらない1日が始まろうとしていた。
私は以前、痴漢に関する裁判で証言をしたことがあった。
満員電車の中で痴漢にあった時、犯人だと思って捕まえた男の人が隣にいる中で、私は当時の状況を詳しく話すことになった時だ。
私はそれ以前にも痴漢にあったことがあった。
それまでは心の中で(お願い、やめて!)と叫びながらも、ただ泣き寝入りをしてばかりだった。
しかし、いつしかそれじゃいけないと思うようになった。
親に相談した時には、
「俊子。こういう時はただ黙っているだけじゃだめだ!」
「そうよ。一度勇気を振り絞って声に出してごらんなさい。」
とアドバイスされた。
そしてあの日、私は体を触られた時、その言葉を思い出した。
やっぱり怖くなったけれど、ここで勇気を出さなければ、私はこれからも被害を受け続ける。チャンスは今しかない!
そう思って、私はありったけの勇気を振り絞って男の人の手をつかみ、「痴漢したでしょ?」と告白した。
その時はこれで痴漢の恐怖から解放されるという希望を感じていた。
でも今では、あの時、勇気を出して告白したことを心の中で後悔していた。
確かにあの時には、この人が犯人に間違いないと思っていた。
一瞬手を離してしまったけれど、この人に間違いないと思っていた。
でも、本当に痴漢をしたのはあの人だったのだろうか…?
もしかしたら人違いだったかもしれない。
本当に痴漢をした人を逃がしてしまい、何の罪もない、ただその場に居合わせただけの人を罪人に仕立て上げてしまったのかもしれない。
いつからか、そんな罪悪感が心につきまとっていた。
最初は、こんなに事が大きくなるなんて夢にも思わなかった。
ただ、痴漢の犯人が捕まって、警察の人に取調べを受けて、反省してもらって、そして私が勇気ある人だとみんなからほめてもらって、それが痴漢に悩んでいる人達への前向きなメッセージになればということを期待していた。
そう。私が望んでいたのは犯人に反省してもらうことだった。
それさえ叶えば十分だった。
決して、あんな緊張感の張り詰めた裁判の場所に行かされて、思い出したくもないあのシーンをしつこいぐらいに掘り起こされて、他人を一方的に揶揄するような言葉を聞かされて、あの人を犯人だと決め付けられて…。
そんなことを望んでいたわけではなかった。
あんな裁判で勝っても、ちっとも嬉しくなんかなかった。
何より、私はこうしていつもどおり、当たり前のように学校に通えるけれど、私が捕まえてしまった人は、今日も牢屋の中で「僕はやってないんだ!」と叫びながら過ごしているのかもしれない。
あの人の人生を、私は狂わせてしまったかもしれない…。
一人で考え込んでいると、いつも利用している電車の来る時間がやってきた。
あの時「痴漢したでしょ?」と言って、一人の男の人を捕まえた時と同じ電車だった。
でもあれ以来、あの時と同じ車両には乗ったことはなかった。
もしかしたら、その車両にあの人がいるかもしれない。
そして、「よくも無実の自分をこんな目にあわせたな!」と言いながら、復讐しにくるかもしれない。
本当は牢屋にいると分かっているけれど、もしかしたらもう釈放されたかもしれない。牢屋を逃げ出してきたかもしれない。
いつしかそんな幻覚に悩まされるようになり、怖くてとてもその車両には乗れなくなってしまった。
私は比較的人の少ない、一番前の車両の前方の扉から電車に乗り込んだ。
いつもどおりに電車に揺られながら、私は学校で先生が私をほめてくれた時のことを思い出した。
「皆さん。古川さんは、電車で痴漢にあった時に、勇気を出して犯人の手をつかみ、声に出して告白しました。他の女子の人達も、もし被害にあったら彼女を見習って積極的に声に出して訴えましょう。男子の人達も、痴漢を見かけたら、見てみぬふりをしないで、近くにいる人や、駅員に伝えてください。分かりましたか?」
「はーい!」
生徒達からは威勢のいい声があがっていた。
その後、女子の友達からは、次々と私を褒め称える声が寄せられてきた。
「俊ちゃん、すごいわね。犯人を捕まえるなんて!」
「私もその勇気を見習わないと。」
「今度痴漢をしてくるような人がいたら、私も英雄になってやるわ!」
彼女らは、本当に私が真犯人を捕まえたと思い込んでいるようだった。
私を称える言葉は、両親の口からも出てきた。
「俊子。よくやったわね。それでこそ、あなたは私達の自慢の娘よ。」
「父さんの言ったとおりだっただろ!その勇気を忘れるなよ!」
その言葉を受けて、最初は嬉しかった。
本当に真犯人をやっつけた気になっていた。
痴漢の横行する社会に一石を投じることが出来たと胸を張ることが出来た。
駅に貼ってある、痴漢防止を呼びかけるポスターを見るたびに、何か誇らしげな気持ちすらわいてきた。
しかし、捕まったあの男の人が必死に無罪を訴えているということを聞くうちに、その気持ちにも変化が出てきた。
そして、段々罪悪感が込み上げてくるようになった。
最初はそれでも、英雄になった気分のほうが勝っていた。
でも、今は違う。
裁判では、ずっと忘れていたいことをしつこく話さなければならなかった。
それも、あの人が壁一つ隔てた向こうにいる状態で…。
私、怖かった。
その人が逆上して、いつ襲い掛かってくるのかという恐怖に襲われた。
あの人は判決が出た後、すぐに控訴した。
また戦うつもりだ。
いや、あの人だけじゃない。あの人のお母さんも無罪を勝ち取るべく戦う姿勢を見せている。
私は、また裁判所にまた行き、法廷の場で証言をしなければならなくなった。
ただでさえ足が震えた場所に、また行かなければならない。
またあの人を有罪にするために、努力をしていかなければならない。
また自分の時間を、一方的にあの人を犯人と決め付ける警察や裁判所の人達のために使わなければならない。
すべては、裁判で私が勝つために…。
でも、あの人を有罪にすることが、本当に正しいことなの?
あの人にも家族がいる。
あの家族の人も息子さんを信じてくれている。
あの家族は、今日も胸が張り裂けそうになるくらいの気持ちを抱えながら生きている。
私は、自分が裁判で勝てば、その家族の人生をさらに狂わせてしまうかもしれない。
より一層深い心の傷を背負わせてしまうかもしれない。
そんなことになったら、私はどうやって生きていけばいいの?
いつもどおりに起きて、学校に行って、授業を受けて、部活をして、また家に帰ってきて、宿題をやって、布団に入って…。
それが出来たところで、罪の意識が消えるわけじゃない。
きっと、ずっと心の中にその意識を抱えたまま生きていくことになるのかもしれない。
多分、大人になっても、ずっと消えないまま…。
結局私は、自分の人生までも狂わせてしまった…。
しかし、だからと言って今さら後戻りも出来ない。
今までのことを撤回することも出来ない。
もし私が「すみません。人違いでした。」なんて言ったら、なんて言われるのだろう。
先生からも、友達からも、親からも嘘つき呼ばわりされ、一人ぼっちになってしまうかもしれない。
高校にも行けなくなってしまうかもしれない。
もし彼氏が出来たとしても、今回のことがばれたら一方的に別れられてしまうかもしれない。
誰からも必要とされなくなってしまうかもしれない。
そうなったら、生きる意味なんてない…。
結局、自分が助かるためには、どんな手を使ってでも、どんな嘘をついてでも、あの人を犯人に仕立て上げるしかない。
あの人がどこまででも「僕はやってない!」と言い続けるのを黙らせるしかない。
そして、有罪判決を勝ち取るしかない。
あの人に愛する家族がいようと、親友がいようと、恋人がいようと、どんな理由があろうと、奈落の底にまで突き落とすしかない。
そう。それしか、私が助かる道はないの。
私はいつの間にか、そう自分に言い聞かせていた。
その時、ふとそばにいた男の人が
「君、興奮した顔をしながら何を変な独りごと言っているんだい?」
と言い出してきた。
「えっ??」
私はふと我に返った。
どうやら自分でも気がつかないうちに声に出てしまっていたようだ。
「え…、な、何でもないです…。ただ、ちょっと…。」
私は途端に顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われた。
そして、気持ちに整理がつかないまま、うつむいてしまった。
そうしているうちに、降りる駅が近づいてきて、電車はどんどん減速していった。
そして完全に停車し、ドアが開こうとした、その瞬間!!
私のおしりの部分に、なにやら変な感触が走った。
誰かの体か、かばんでも当たった?いや違う。そんな感触ではない。
あの日の電車の中、面接に向かう途中だったあの男の人を捕まえたあの日に感じたものと同じだった。
間違いない、痴漢だ!
私、痴漢にあっている!
犯人は私のすぐ後ろにいる。
今なら捕まえられる!
チャンスは今しかない!
私はあの時と同じように手を伸ばし、「痴漢したでしょ?」と言おうとした。
しかし次の瞬間、あの人の幻覚が脳裏を横切った。
また私の前に立ちはだかってきた。
それでも私は手を伸ばし、痴漢をした手を捕まえようとした。
だが次の瞬間、またしてもあの人が止めに入ってきた。
私は一瞬迷った。
もしここで無実の人を捕まえてしまったら…。
また私は裁判に巻き込まれるかもしれない。
またまわりから私の勇気を称える声ばかりを浴びせられながら、心の中では罪の意識に襲われ、誰にも自分の悩みを相談出来ないまま過ごすことになるかもしれない。
裁判ざたになるのはもうたくさんだった。一つでもこれほど辛いのに、二つの裁判に立ち会うことになったら、もう耐え切れない…。
そう考えると、手を伸ばすことが出来なかった。声を出すことも出来なかった。
それでも私はもう一度だけ勇気を振り絞った。
ここで捕まえなければ、私はこれから痴漢にあっても、もう一生犯人を捕まえることは出来ないかもしれない。
一生痴漢に対して泣き寝入りをしながら生きていかなければならないかもしれない。
せっかくみんなから勇気ある行動を称えられたのに、今度は腰抜け扱いされてしまうかもしれない。
捕まえるのよ!今ここで!今しかチャンスはないの!
私は懸命に自分に言い聞かせた。
…しかし、それでも私は言い出せなかった。
私は一瞬のうちに身も心もボロボロに傷ついてしまい、失意の底に突き落とされてしまった。
気がつくと、ふらつくような重い足取りで駅のホームを歩いていた。
両手はわなわなと震えていて、目からはとうとう涙があふれてきた。
私はもう二度と、痴漢してきた人を捕まえることは出来ないことを悟った気がした。
恐らくこれからも、私は被害を受けるかもしれない。
その時こそ、真犯人を捕まえることが出来るかもしれない…。
だけど…、
それでもワタシは言い出せない…。
何故なら…、
私は、一人の男の人を不幸にしてしまった人間だから…。
お父さん、お母さん、先生、友達のみんな…。
本当に…、ごめんなさい…。
こんな私を許してください…。
そして…、助けて…。
お願い…。誰でもいいから…。
誰か助けて…!!
私は心の中で悲痛な叫びをあげていた…。
それでもワタシは言い出せなかった…。
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