太平洋の海は今日も蒼かった。
波も風も何も問題なし。蒼穹の空が美しく輝いている。
ここが一年も経たない前は日米の激戦地だったと誰が思うだろうか。
日本は太平洋戦争でアメリカに負けた。
この蒼い海に多くの人と艦艇、飛行機が散ったのだ。
その太平洋の海を一隻の大型船が航行していた。
かつて劣勢に追い詰められ始めた日本が主力空母に格上げした商戦改造空母。だが今はかつての戦場を平和の為に翔けていた。
船体の横にはどこの国の艦艇かわかるように大きな日の丸が描かれている。戦時中なら目立って敵に狙われるかもしれないが、今は戦後の平和な時代。その心配はない。
そして、その日の丸の横にはローマ字で艦の名前が書かれていた。
――『JUNYO』
空母『隼鷹』。
かつてそう呼ばれていたその艦は今は復員船『隼鷹』と艦名が変更されているが、その勇姿は今も健在だ。
戦時にはその自慢の飛行甲板には甲板を埋め尽くすほどの艦載機を運用して敵艦隊を攻撃していたが、今はその甲板には一機の飛行機もない。その代わりにいるのは太平洋の各島に散っていた日本兵が故郷に戻る事を今か今かと海の向こうを見詰めているだけ。
そんな甲板を甲板の右舷にある艦橋から一人の青年と幼い顔をした少女が見詰めていた。
「みんな嬉しそうだね、お兄ちゃん」
「そうだね」
知性的に見せる縁なし細メガネを掛けた青年の名は第二復員省復員課所属・復員船『隼鷹』航海長・長谷川翔輝旧海軍航海少佐。
かつて戦時中は戦艦『大和』の航海士として活躍し、『大和』の艦魂と共に激動の時代を翔けた彼は、元は軍人だったが、今はれっきとした公務員。それが今の翔輝だ。
そんな翔輝の隣にいる少女はこの復員船『隼鷹』の艦魂。艦に宿る魂の化身である少女は翔輝に横で優しく微笑んでいた。
戦争初期劣勢に追い詰められ始めた日本軍。そんな中南太平洋の戦いで孤軍奮闘して敵大型空母一隻に致命傷を与えた空母『隼鷹』。その後は輸送任務に従事し、マリアナ沖海戦にも参加するが、敗北。そこで姉艦『飛鷹』が沈没。レイテ沖海戦では飛行機不足から不参加。そしてそのまま内地で待機し続け、そして終戦を迎えた。
今は復員船として太平洋の島々に散っている残存日本兵の復員を主任務に活躍している。
今はもう数少ない日本海軍の艦艇の一隻である彼女は、すでに多くの日本兵を復員している彼女は同じ元空母で復員船『葛城』と並んで復員世界の『双龍』と呼ばれている。
そんな隼鷹は甲板の兵達を見詰めて微笑む翔輝にそっと抱き付いた。
「隼鷹?」
「えへへー、お兄ちゃん大好きぃ」
「ちょっと隼鷹」
「好きぃ」
ピッタリとくっ付いて離れない隼鷹に翔輝はため息して離すのを止めると優しく微笑んだ。
「隼鷹はいつまで経っても子供だなぁ」
「別にいいもーん。お兄ちゃんは子供の方が好きなんでしょ?」
「あれ? お前にそんな事言ったっけ?」
首を傾げる翔輝に隼鷹は笑顔で返答する。
「前に大和がそう言ってたか――っ!」
隼鷹は慌てて口を塞ぐ。しかしもう遅かった。
「そう、大和が・・・」
だが翔輝はそう言って微笑んでくれた。そんな彼の笑みを見詰め、隼鷹は小さく微笑んだ。
「お兄ちゃん、変わったね」
「そっかな?」
「そうだよ。だって昔は大和の話をしたら悲しそうな顔をしてたでしょ?」
「まあ、あれからもう二年も経ってるからね。もう大丈夫だよ」
戦艦『大和』が沈没して、もう二年近く経っている。彼が愛した少女は今は海の底で永遠の眠りについている。
海を見詰めて優しく微笑む翔輝。そんな翔輝を愛した艦魂は数多い。だが、そのほとんどが皆戦争で戦死している。自分はそんな彼を愛する数少ない生き残りだ。
隼鷹は翔輝の事を愛している。だが、そんな彼には心に決めた少女がいる。それが大和。
他の子に比べて特に秀でた部分もなく、いたって平均的な少女だったが、いつも彼の傍にいて彼を支え続けた。
そんな彼女を、彼は愛した。
でも今はもう大和はいない。
太平洋戦争最後の年、戦艦『大和』は九隻の艦艇を引き連れて沖縄特攻に向かい、その途中で敵機の攻撃を受けて沈没した。
彼はその時『大和』に乗っていたが、大和が彼に生きてほしいと願い、無理やり助けたのだ。
あれからもう二年。少年は青年になり、日本は平和になった。
翔輝は『大和』沈没後は陸の上で書類仕事を従事していたが、戦後第二復員省(旧海軍省)で復員課に志願。願い叶って『隼鷹』に配属された。
二〇代前半の若き航海長だが、彼を慕う部下は多い。彼の艦魂を集める人柄は人間に対しても同じ事だ。
「航海長!」
振り返ると、自分より年上の航海士が自分に向かって敬礼していた。
「船長がお呼びです」
「わかった」
航海士は敬礼して去った。
翔輝は脱いでいた軍帽を被り直した。
「昔は艦長でも、今は船だから船長、か」
「不思議だね」
「そうだな」
翔輝は下に下りる階段を下りた。その後ろを隼鷹も続く。
「私も行く」
「別にいいけど、来てもつまらないよ?」
「いいの。私はお兄ちゃんの傍にいたいから」
「そっか」
前を進む翔輝の腕に隼鷹はピョンと抱き付いた。翔輝はもうあまり気にせず進む。そんな彼の腕で、隼鷹は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
ある日の夜、仕事を終えた翔輝は自室である航海長室に戻った。そこではすでに隼鷹が寝る準備を終えていた。
「あ、お兄ちゃんおかえり」
「ただいま」
すでにパジャマに着替え終えていた隼鷹は嬉しそうに翔輝を見詰めると、ピョンと翔輝に抱き付く。
「こ、コラッ」
「えへへー」
すごく幸せそうな笑みを浮かべる隼鷹を怒れるほど、翔輝は心が強くはなかった。できる事と言えば「まったくもう」と言って彼女の行動を許す事だけだった。
「えへへー、早く寝ようよ」
「わかったわかった」
翔輝は諦めたように笑みを浮かべた。もう慣れてしまったのだ。
手際良く上着を脱ぎ、翔輝はベッドに腰掛ける。そんな彼に着替えている時は離れていた隼鷹が再び抱き付く。
「もう寝よ。私眠いよ」
そう言って隼鷹は目を擦る。それでも目は垂れ下がっている。どうやら相当眠いらしい。
「わかった。じゃあ寝ようか」
そう言って翔輝は電気を消し、ベッドの中に潜ると、隼鷹もベッドの中に潜り込んで来る。一緒に寝るのは翔輝が『隼鷹』に配属された時からの事だ。それにその前でも翔輝と隼鷹は何度も一緒に寝ている。
横になった翔輝に隼鷹がぎゅーっと抱き付く。
「ちょっと隼鷹離れてよ」
「やだぁ、もっとぎゅーってするのぉ」
「まったくもう」
翔輝はそう言って苦笑いするが、すぐに優しげに笑い隼鷹の頭を撫でる。
「お前は本当に変わらないな」
「それは性格の事? それとも体?」
「両方だよ」
「そっかな? そんなに変わってない?」
「自分ではどっか変わった所あると思う?」
「うーん・・・、そう言われると何もないかも」
「そうだろ?」
「むぅ、言い返せないよぉ」
「ははは」
翔輝の笑みに対し隼鷹は頬を膨らませてむくれる。
しばし他愛のない会話をしていたが、やはり眠かったのか隼鷹が先に倒れてすーすーと寝息を立て始めた。
横で眠る隼鷹を起こさないように、翔輝はゆっくりと起き上がった。そのまま壁に掛けていた上着を着込むと、そっと部屋を出た。
照明がほとんど落ちている真夜中の薄暗い船内を進み、甲板に出た。
少し肌寒い風が流れる甲板で、翔輝は金色に輝いている月を見上げた。
時代が幾度と変わっても、月の輝きだけは変わらない。
明るく照らす月の下、翔輝は胸ポケットから二枚の写真を取り出した。
一枚は六年前に病死した妹・翔香の写真。
もう一枚は二年前の特攻作戦出撃前日に撮った参加艦艇の艦魂達と一緒に撮った写真。十人の少女が自分を中心に囲んでいるその写真のうち八人とは数度くらいしか話をした事はないが、左右から抱き付いている二人の少女は彼の大切な人だった。
左から抱き付いている少女の名は雪風。陽炎型駆逐艦八番艦・駆逐艦『雪風』の艦魂だ。
大和の従兵を務めていた翔輝の仲のいい友人にして『大和』沈没で落ち込んでいた自分を支えてくれた恩人でもある。
そんな彼女はこの年の夏に中国海軍へ戦後賠償艦として引き渡された。その時、彼は太平洋の海を翔けていたので最後の別れができなかった。それが彼の後悔の一つだ。
そして、写真の中で右から抱き付いている長髪の少女こそ、彼が愛した艦魂――大和だ。
戦争が始まってすぐ配属された『大和』で初めて出会った艦魂。
長く辛い戦争を生き残れたのは、いつも自分の傍にいて自分を支えてくれた彼女がいたからこそだ。
「大和・・・」
不思議なものだ。
大和が生きていた頃は翔香の事を想って夜空を見上げていたのに、今では大和を想う。
もちろん翔香の事は忘れてはいないし、他の艦魂の事も考える。でもやっぱり、愛した女性を一番に想ってしまう。
「大和。今頃天国で何やってるのかな?」
そうつぶやいて小さく微笑む。
悲しくはない、と言えばうそになる。でも、彼女と共に生きた思い出がある限り、自分はこうして立っていられる。そう思えた。
「でもやっぱり、悲しいな。だって、君が死んでからまだ二年しか経ってないんだもの。君の笑顔を思い出すと、胸が苦しくなる。やっぱり僕は弱いな」
苦笑する翔輝。
自分の弱さが情けなくて幾度となく泣いたのに、それでもまだ自分は弱い。その弱さが自分や大和を苦しめたのに、いまだ脱する事ができない。
「でも、それが僕って事か」
大和はそうした自分の負の部分も含めて自分を愛してくれた。
・・・大和――
「あ、あれ?」
頬を伝う雫に翔輝は驚いて拭き取る。だが、後から後から溢れ出て来るその雫は止まらない。
「・・・本当に、情けないなぁ」
そう苦笑いする翔輝の頬を、涙が流れ続ける。
頬を流れる涙を、もう翔輝は拭く事はしなかった。もしかしたらこんな自分の情けない顔を見て、大和が心配してくれるかもしれない。そんな思いを抱き、翔輝は月を見上げながら立ち尽くしていた。だが、突如現れたハンカチが翔輝の頬を流れる涙をそっと拭き取った。
「え?」
「泣いちゃダメだよ・・・お兄ちゃん」
「隼鷹・・・っ!」
そこにいたのは、自分を心配げに見上げている隼鷹だった。
「お兄ちゃん・・・」
「ち、違うっ! これは違うんだ!」
翔輝は慌てて隼鷹に背を向けるが、すでにバレバレである。
「お兄ちゃん」
「見ないで。お願いだから、こんな情けない僕を見ないで」
「情けなくなんかないよ」
「え?」
そっと、背中が温かい何かに包まれた。
隼鷹は翔輝の背中を包むようにして抱き締めていた。
「隼鷹・・・」
「お兄ちゃんは情けなくなんかない。お兄ちゃんは立派だよ」
「そんな事ない。僕は、弱くて情けないよ」
「・・・お兄ちゃんはどうしてそう自分を下向きに見るの?」
「別に下向きに見てる訳じゃないけど」
「ううん。お兄ちゃんは必要以上に下向き過ぎる。だってお兄ちゃんは立派だもの」
「やめてよ。僕は立派じゃない」
翔輝は隼鷹を離そうとするが、隼鷹は翔輝の体にしっかりと抱き付いて離れようとしない。それどころかさっきよりもさらに強く抱き付いてくる。
「じゅ、隼鷹」
「お兄ちゃんは立派だよ! だって、お兄ちゃんはその年で私の航海長を務めているでしょ!?」
「それは立派でもなんでもないよ」
「どうして!? どうしてお兄ちゃんはいつもそうなの!? もっと自分の事を見てよ! お兄ちゃんは立派なのに、どうして!?」
「そういう風に自分を見れないんだから、仕方ないでしょ?」
「・・・お兄ちゃんは、自分の事が嫌いなの?」
「――好き、ではない。でも嫌いでもない。自分が何者で、一体何がしたいのか、まだよくわからない。だから目の前にあるのをとにかくやっているに過ぎない。それで得た航海長って役職は立派なものじゃないよ」
「お兄ちゃんは立派だよ。だって、立派に何かをやり続ける人じゃないと、みんなついて来ないでしょ?」
「それは・・・」
「もっと自分を誇ってよ! お兄ちゃんは私の自慢のお兄ちゃんなんだから! 私、お兄ちゃんを尊敬してるの! お兄ちゃんのかっこいい姿をいっぱい見てきたの! ずっとそうでいてほしいと思ってるの! だって、だって・・・っ!」
いつの間にか、隼鷹は泣いていた。
隼鷹にとって、翔輝はもうたった一人になってしまった大切な人で、愛している人。だから、そんな翔輝にはもっと笑っていてほしいし、かっこいい姿をもっと見ていたい。それは自分の勝手かもしれないけど、それでも翔輝に幸せでいてほしいと思うし、幸せにしてあげたいという気持ちは変わる事はない。
「だって・・・好きだから・・・」
月明かりの下、隼鷹は翔輝を見上げながら叫んだ。
「だって好きなんだもん! 大好きなんだもん! 好きなんだから仕方ないでしょ!? お兄ちゃんに笑っていてほしい、かっこよくいてもらいたい、優しくてもらいたい、抱き締めてほしい! それは私の勝手かもしれないけど、それでも好きなんだから仕方ないでしょっ!? 好きで好きで仕方ないの! そんな私が大好きなお兄ちゃんが自分を誇れないのは辛いの! 嫌なの! 私はお兄ちゃんが好き! だからお兄ちゃんにはもっと自分を好きでいてほしいの! お兄ちゃんはお兄ちゃんなんだから!」
言っていて、隼鷹自身も何を言っているのかわからなかった。ただ、自分の心から湧き上がる衝動をそのまま口から言語化しているに過ぎない。だから言っている事が支離滅裂なのだ。それでも、彼女が彼を想う気持ちだけは翔輝に強く伝わった。
「隼鷹・・・」
「好きなの・・・大好きなの・・・だから・・・っ!」
泣き崩れる隼鷹の肩を、翔輝はそっと叩いた。その感触に隼鷹は顔をもたげる。
「お兄ちゃん・・・?」
「もう、いいよ。お前の気持ちはわかったから」
月明かりの下、彼の優しげな笑みを隼鷹は見詰めた。
翔輝は隼鷹をそっと抱き締めた。
「ごめん。僕のせいで泣かせちゃって」
「お兄ちゃん・・・」
「泣かないで。僕のせいで泣いてるけど、泣かないでよ。隼鷹に涙は似合わないよ。隼鷹にはいつも笑っててほしいんだから」
「お兄ちゃん・・・っ!」
隼鷹は翔輝の腕の中で彼に抱き付いた。
「お兄ちゃん、大好きぃ」
「僕も、隼鷹が大好きだよ」
「大和には敵わないけどね」
「あ、う、それは・・・」
隼鷹の言葉に翔輝は返答に困る。だが、そんな困っている彼を見て隼鷹は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「冗談だよ。かわいいなお兄ちゃん」
「もう、驚かせないでよ」
「えへへー、ごめんね」
「ほんとにもう」
頬を膨らませて翔輝はふてくされる。そんな彼を見て隼鷹はくすくすと優しく笑うが、ふと、悲しげな表情に変わった。
「――わかってるもん。お兄ちゃんが本当に好きなのは大和だって」
「隼鷹・・・」
「お兄ちゃんは今でも大和が好きなんでしょ?」
隼鷹に質問に、翔輝は小さくうなずく。
「うん。今でも大和の事は好きだし、愛してる。その気持ちは今も昔も変わってないよ」
「――そうだよね。お兄ちゃんは大和の事が好き。それはわかってる」
心配そうに見詰める翔輝に、隼鷹はぱあっと明るい笑みを向けた。
「でもね、私だってお兄ちゃんの事が大好き! お兄ちゃんが大和を想っているくらい――ううん。それ以上に大好きだよ。その気持ちはうそじゃない。本当の事だからね」
そう言って、隼鷹は翔輝に強く抱き付いた。
翔輝はそんな彼女を離す事はなかった。
――彼女の肩は、小刻みに震えていた。
自分はなんて罪深い人間なのだろう。翔輝はそう思った。
隼鷹はこんな小さな体で辛い思いに耐えている。
自分を好いてくれている隼鷹の気持ちがわかっているのに、それでも自分には愛した少女がいて、それが今も続いている。
もっと自分がケジメのついた人間だったら、彼女を苦しめる事はなかったのに。
翔輝の腕の中で、隼鷹は何度も「好き」と繰り返した。
隼鷹の健気な想いに、自分は応える事はできない。今の自分にできる事は、こうして彼女を抱き締め、
「ごめん・・・ごめんね・・・」
そう謝るしかできなかった・・・
月が辺りを照らすある日の夜、翔輝と隼鷹はいつまでもお互いを離さまいと抱き合い続けた・・・
数ヵ月後、復員船『隼鷹』は呉に停泊していた。
碇を下ろして停泊している『隼鷹』と陸の間を忙しく内火艇がピストン運行して乗組員達を次々に陸に上げるのを見詰め、翔輝は小さく微笑んだ。
「航海長」
振り返ると、そこには彼の多くの部下がそろっていた。
「みんな・・・」
「航海長。今日までお世話になりました」
そう言って部下達は少し悲しげに微笑んだ。そんな彼らを見詰め、翔輝も小さく微笑んだ。
「こちらこそ、今まで僕なんかについて来てくれて本当にありがとうございました」
「そんな事ありません。航海長はすばらしい方です」
その言葉に翔輝はハッとする。
一瞬、頭を隼鷹の悲しげな顔がよぎったのだ。
「航海長?」
「あ、いや、何でもありません」
翔輝は自分を見詰める部下達を翔輝は真剣な顔で見詰めた。
「復員船『隼鷹』の役目は終わりました。これからはみなさんの歩むべき道を進んでください」
『了解!』
そう、復員船『隼鷹』の役目は全て終わったのだ。
一年半にも及んだ復員作業も終わり、復員船『隼鷹』の乗組員達もそれぞれの道へ別れていくのだ。
部下達の敬礼に対し、翔輝も敬礼して答える。
部下達が去った後、一人蒼い海を見詰めていた翔輝の横に隼鷹がそっと現れた。
「終わったんだね、私の役目も」
「そうだね・・・」
仕事を全て終えたというのに、隼鷹の表情に笑顔はない。逆に辛そうに顔をゆがめている。それはそうだ。
――復員船としての仕事を終えた艦艇の運命は、解体処分とされるしかないのだから・・・
去っていく乗組員を一瞥し、隼鷹は悲しげな瞳を翔輝に向ける。
「お兄ちゃんも、私から離れるの?」
翔輝は答えない。だが、海を見詰める彼の顔はいつになく苦しげにゆがんでいた。その表情を見て、隼鷹はうつむいた。
「・・・離れるんだ・・・やっぱり・・・」
「それは・・・」
「ううん。いいの。お兄ちゃんだって、陸で待ってる瑠璃もいるし。私のわがままに付き合う事はできないもの」
「隼鷹・・・」
「それに、これでやっとみんなの所に行ける。お姉ちゃんや翔鶴お姉ちゃんにも会える。みんなと、会えるんだから」
そう言って笑みを浮かべるが、その瞳はまったく笑ってはおらず、むしろ悲しげに揺れていた。
「大和に会ったら伝えてあげるから、何か伝言があれば今のうちに――」
「やめてよっ!」
突如響いた翔輝の怒号に隼鷹はビクリと震える。自分を怒鳴った翔輝を見詰めると、翔輝は隼鷹に背を向けているが、その肩は小刻みに震えていた。
「な、泣いてるの・・・?」
隼鷹の言葉に翔輝は答えない。返って来るのは小さな嗚咽だけだった。
「お兄ちゃん・・・」
隼鷹の小さな声に振り返った翔輝は、うつむいている隼鷹をそっと抱き締めた。
驚く隼鷹に、翔輝は泣きながら叫ぶ。
「そんな悲しい事・・・言わないでよ・・・っ!」
「お兄ちゃん・・・」
「――嫌だよ・・・」
「え?」
翔輝は顔を上げ、隼鷹を見詰めた。その顔は彼女が一番見たくなかった表情――悲痛にゆがんだ悲しげな表情だった。
隼鷹はこの顔を前に見た事があった。
大和が死んですぐの頃、まだ彼が不安定だった時にいつもしていた顔。大和の死が苦しく彼を蝕んでいた時の表情。
その表情が今、自分の為に向けられている。
「嫌だよっ! 隼鷹! 僕は、僕はもう誰も失いたくないっ! 誰にも死んでほしくないんだ! 大和、武蔵、長門さん、陸奥や伊勢、榛名も、みんな死んで、僕にはもう、隼鷹しか・・・いないんだ・・・っ!」
泣き崩れる翔輝。
隼鷹は愕然としていた。
いつも強く生き、常に前向きに、笑顔を振りまいていた彼にも、こんな弱い一面があったのだ。だが、そんな事はずっと前からわかっていた。でも決して彼は人前でそれを見せようとはしなかった。
それが今、自分の前で行われている。
隼鷹は不謹慎だと思ったが、フッと小さな笑みを浮かべ。
「お兄ちゃん・・・泣いてくれるの? 私の為に」
「当たり前だろ! 隼鷹は、僕にとって大切な、大切な――」
「友達、でしょ?」
その言葉に、翔輝は何も答えない。
わかっていた。
自分は彼のたった一人にはなれないのだ。だが、それでも――
「いいの。私はお兄ちゃんが大好き。それは変わらない。この気持ちは、ずっと変わらない。例え片思いでも、私はお兄ちゃんが好き。お兄ちゃんだって私の事は好き。でもそれはたった一人のじゃない。それでもいいの。私は大好きなお兄ちゃんに愛されていた。それだけで、十分だから」
幼顔に大人っぽい優しげな笑みを浮かべる隼鷹を見て、翔輝は小さく「ごめん」と言った。
「どうして謝るの? お兄ちゃんは悪くない。それに、私は満足だよ。みんないなくなっちゃけど、その後ずっとお兄ちゃんといられたんだもん。みんながいた頃はこんなにお兄ちゃんを独り占めするなんてできなかったもん。だから、私は十分満足だから」
そう言って、隼鷹は優しく微笑んだ。その微笑みに、翔輝は涙を拭き取った。「ありがとう、隼鷹」
「お礼なんていらないよ。お兄ちゃんと私の仲じゃない」
「そっか、そうだね」
青空の下、もうじき冬が訪れる前兆の冷たい北風が甲板を撫でた。
揺れる髪を押さえて、隼鷹は笑みを浮かべ続ける。そんな彼女を見詰め、翔輝は心の奥底に留めておいた彼女の賞賛をした。
「隼鷹。君は最高の――僕のもう一人の妹だよ」
その言葉に、隼鷹の笑みが崩れた。
「お兄ちゃん・・・っ!」
涙が溢れた顔で隼鷹は翔輝の胸に飛び込んだ。
泣きながら、隼鷹は彼に問う。
「本当に、本当にそう思ってるの? 私、私は――」
「うん。隼鷹は、最高の妹。翔香にも負けない、僕のもう一人の妹」
その言葉を聞いて、隼鷹は泣きながら嬉しそうに笑みを浮かべた。
「私は、お兄ちゃんの中で大切な存在なんだ。私でもお兄ちゃんの事を支えられてたんだ」
「あぁ。本当に、ありがとう」
「お兄ちゃん・・・っ!」
隼鷹は強く翔輝の胸に抱き付き、もう言えなくなってしまう言葉をひたすら叫び続けた。
「好きっ! 大好きッ! 私はお兄ちゃんが好きっ! 大好きっ! 大好きだからっ!」
「僕も、大好きだよ――隼鷹」
空はすっかり日が傾き、秋の紅の夕暮れが二人をいつまでもいつまでも明るく、暖かく照らし続けていた・・・
そして、『隼鷹』は解体作業をする為にドッグに入った。残っていた機関員や航海士達も最後の仕事を終え、自分達を乗せてくれた『隼鷹』に敬礼して次々に退船した。
――そして、ついに翔輝と隼鷹の別れが来た。
甲板には多くの船員達が残っていたが、その一角で二人は抱き合っていた。
「お兄ちゃん。別れたくないよぉ」
「僕だって、そうだよ。でも、ダメだったんだ・・・」
翔輝はどうにかして『隼鷹』を解体させない為に努力した。
日露戦争の英雄艦・戦艦『三笠』のように記念艦にしたり、元々客船だったのでもう一度客船化してみるとか、各方面を駆けずり回って多種多様な所に頼み込んだ。最悪『雪風』のようにどこかの国に譲渡する事も行ったが、全て断られていた。
英雄艦にしては戦果が少なく、徹底改造されていた為客船に戻す事はできず、速力や防御力の劣る小型空母をほしがる国など、どこにもなかった。
疲労困憊になってもそうし続けた時、いつも彼女が傍にいた。
何度も「もういいの。私は十分生きたから」と言って自分の体を気遣ってくれたが、それでも翔輝は隼鷹を生かせようと努力した。だが、それは全て徒労に終わったのだ。
今にも泣きそうな翔輝の頬に、隼鷹はそっとキスする。
「隼鷹・・・」
「お兄ちゃん。私ね、いつか絶対人間になるんだ。そしたら、今度はお兄ちゃんの本当の恋人になりたい。お兄ちゃんじゃなくて、翔輝くんって呼んで、いろんな所に行って、お兄ちゃんといっぱい笑って、お兄ちゃんとずっと一緒にいたいの。だから――」
隼鷹は自分も今にも泣きそうだが、それをグッと堪えて満面の笑みを浮かべて翔輝を見詰めた。
「――だから、さよならなんて言わないんだから! だってまたいつか会えるんだもん! いつかきっと人間になって、お兄ちゃんに会うんだから! だから、お兄ちゃん・・・何年、何十年かわからないけど、待っててくれる? 私、必ず会いに行くから」
涙を目の縁で我慢して必死になって叫ぶ隼鷹を抱き締めながら、翔輝は何度もうなずいた。
「・・・わかった。待ってる。ずっと、待ってるから」
翔輝のその言葉に、隼鷹の頬を涙が一筋流れた。
「本当?」
「ああ、本当だよ」
「約束だよ?」
「ああ、約束だ」
隼鷹は翔輝の腕の中で何度もうなずいた。
それから、二人は何も言わずにただ互いの温もりを感じ合った。
嗚咽しながら泣く隼鷹とそれを見て必死に涙を堪えている翔輝。
このまま時間が止まってくれれば、別れずに済むのに。
どちらもそんな叶うはずもない希望を胸に抱くが、運命とは残酷なもの。時間は流れ、ついに翔輝の退船の時が来た。
翔輝はそっと隼鷹を離そうとするが、隼鷹はしっかりと翔輝の服を掴んで離そうとしない。
「隼鷹・・・」
「もうちょっと、もうちょっとだけこうさせて・・・っ!」
ギュッとさらに翔輝の服を掴み数秒。隼鷹は翔輝の最後の温もりをしっかりと感じると、ゆっくりと離れた。
見詰め合う二人の表情はどちらも暗いものだったが、翔輝はフッと小さな笑みを浮かべた。
「隼鷹。元気でな」
翔輝のその言葉と笑顔に、隼鷹も小さな笑みを浮かべる。
「うん。お兄ちゃんこそ、体壊さないでよね」
「わかった」
「えへへ――あ、そうだ。これ持ってって」
そう言って隼鷹は軍服の胸を開くと、首に掛けていた小さく銀色に輝くロケットを外すと、そっとそれを翔輝の手に握り締めさせた。
「これは?」
「私と、お姉ちゃん、翔鶴お姉ちゃんと瑞鶴、瑞鳳と一緒に撮った写真が入ってる、私のお守りなの。――私の形見だと思って、持ってって」
隼鷹の言葉に翔輝は何か言おうとしたが、彼女の瞳はそれを許さなかった。
もう海の藻屑となるしかないのなら、愛する人に持っていてほしい。そんな想いを、翔輝は感じ取った。
「――わかった。大切にする」
翔輝はゆっくりとそれを首に掛ける。
日の光を浴びて銀色のロケットはきれいに輝いている。
「似合う、かな?」
「うん。とっても」
そう言って、二人は今まで以上の笑みを浮かべた。
互いの笑顔をしっかりと目に焼き付け、翔輝は反転して進み出した。そんな彼の後ろで、隼鷹は手を振って叫んだ。
「お兄ちゃん! 約束だからね!」
「ああっ! 約束だっ!」 そう言って翔輝はラッタルを下って内火艇に乗り込むと、甲板を見上げた。そこでは隼鷹が手を振って翔輝を見送っていた。
「隼鷹おおおおおぉぉぉぉぉっ!」
「お兄ちゃあああああぁぁぁぁぁんっ!」
内火艇は『隼鷹』からゆっくりと離れていく。その間も二人はずっと互いを呼び合い続けたが、次第に声は届かなくなり、ついに二人の声は互いの耳に聞こえなくなってしまった・・・
空母『隼鷹』の解体作業は開始され、順調に進んだ。
解体されていく自分の体を見て多少の恐怖はあったが、これで会いたかったみんなに会えると思えば、その恐怖も掻き消される。
翔輝に会えないのが唯一悲しい事だが、またいつか会うと約束したのでそれを夢見て生き続けた。
季節は変わり、春の朗らかな陽気の中、『隼鷹』の船体の解体作業も進み、もう甲板はなくなり船内の撤去に掛かり始めた頃には、もう隼鷹の体は向こう側が見えるくらい透けていて、最期の時を迎えようとしていた。
燦々と輝く太陽を見詰め、隼鷹は優しげな笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん、約束だよ・・・」
その瞬間一陣の風が吹いた。
風が止んだ時、そこにはもう、隼鷹の姿はどこにもなかった・・・
――空母『隼鷹』、太平洋戦争を生き抜いた歴戦の商船改造空母は戦後復員船として活躍し、桜が咲き誇る一九四八年春、解体された―― |