蜘蛛の意図
花魁と共に馴染みの客が待つ、お茶屋まで向かう。
わっちは花魁付きの禿だった。
付き従う夕霧花魁は凛とした雰囲気を纏わせ、豪華絢爛な着物を洗礼された動作でさばきながらゆっくりと道を行く。
普段であれば道いっぱいに散らばっている人も、この時ばかりは自然と横に避けて夕霧花魁一行に魅入られていた。
誇らしい気持ちで夕霧花魁を眺めると、その横顔は隠しきれない喜びを浮かべていた。
それは、いつも行動を共にしているわっちでさえも見惚れるほど輝いていた。
杉谷啓介様――恋という空想に夕霧花魁を雁字搦めに縛りつけている男の、これから向かう馴染み客の名前だった。
可哀想な夕霧花魁。
叶わない恋に落とされて、擬似恋愛を紡ぐ。
たとい、嘘偽りない恋心を抱いたとして、相手の気持ちは張りぼてのようにその場限りのものなのに。
そう思わずにいられなかった。
花魁の名に相応しい舞台に足を踏み入れて、恋という遊戯を楽しむ夕霧花魁と杉谷様。
あと少ししたらわっちもあの様になるのだろうか。
日々聞き馴染んでいる優美な三味線の音に包まれて、そっと目を伏せ部屋の片隅に控えていた。
***
本格的な宵闇になると蜜月がやってくる。
吸い寄せるように重なり、他を退ける暗闇。
対のいないわっちは他の禿と共に眠りにつく。
規則正しい吐息だけが静かに、微かに聞こえてくる。
寝坊など許されることではないと分かってはいたけれどなかなか寝付けなかった。
眠れなくて寝返りをうつと寝息に紛れてしゅるりと衣擦れの音が嫌に耳についた。
ますます目が冴えてしまってもう眠れる気がしない。
外の空気にでも当たりに行こうと考えて他の人を起こさないように忍び足で廊下に出る。
もう寝息さえ聞こえなかった。
暗く無音な廊下は不気味で、何時もなら即座に部屋に引き返すのだが、この時ばかりは違っていた。
音を立てないように神経を研ぎ澄まして歩く。
行き先はどこでもよかった。
か、たん。襖が動く音。
しゅ…しゅ。殺した足音。
ひゅぅ、ひゅぅ。浅い息。
目に入る光は手元にある一本の蝋燭のみ。
ぼんやりと照らされる廊下はあやかしや幽霊が出てきても不思議ではない無機質で現実感がない雰囲気を醸し出していた。
大分寝床から離れた所まできてしまった。
このまま行くと姉さん女郎がいる客間までたどり着いてしまうかもしれないと思った途端何か聞こえた。
嫌な予感に苛まれつつ聞き耳を立てずにいられなかった。
…ーぁ、……ぅ。
人が苦しんでいる。
はぁ……ぁぁ
人が悦んでいる。姉さんの嬌声だ。
悟った途端、麻痺していた恐怖感が沸き上がった。
恐ろしい。
背筋が凍る思いがした。
もう少しで自分が同じ運命を歩もうとも恐怖心は拭えない。
呆然と暗い廊下に突っ立っていた。
体が震えて足が動かない。
どのくらいそうしていたのか、闇に閉ざされ先の見えない廊下の先にぼんやりとした光が灯った。
それはユラユラと揺れながら近づいてくる。
人であれば足音が聞こえるはずなのに、ひゅうひゅうと鳴る自分の喉の音しか捉えられない。
ばくばくと壊れそうな程に脈打つ心臓。
たらりと冷や汗がこめかみを流れた。
気紛れに進む光に囚われて、徐々に狭まってくる距離が恐怖を煽る。
光から目が離せない。
これ以上早まることの出来ない心臓の音が五月蝿い。
暗闇に目が慣れても不思議と光の正体はわからない。
けれど何かがいるのは肌で感じていた。
鳥肌が立つ。
はちきれそうな緊張感。
静寂。
暗闇。
恐怖。
圧迫感を孕んだ、存在。
「……誰か、いるのか」
「きゃ、っ」
思わず出してしまいそうになった悲鳴を必死で飲み込んだ。
光がぼんやりとうつしだしたのは夕霧花魁と共にいるはずの杉谷様。
今まで見えなかったのが不思議な程に暗闇に浮かぶ杉谷様はいつも見る微笑を湛えていた。
「夕霧の禿じゃないか。こんな真夜中にどうした。眠れないのか?」
優しく聞いてきくる杉谷様に不信感が募る。
何故花魁と共にいないのか。
どうしてこんなところにいるのか。
どうして、わっちと――出会ったのか。
「今寝床に戻るところでありんすぇ。 失礼しんす」
一刻も早く杉谷様から逃れたくて頭をさげてその場を下がろうとすると杉谷様は窓辺に蝋燭を置いて小さく笑った。
「そうか……。けれど私はなかなか寝付けなくてね。少しの間相手をしてくれるかな」
苦笑を漏らし、口に手を当てながらの提案に、酷く狼狽する。
杉谷様の横顔は、ちょうど窓から入る淡い月明かりに照らされ、底知れぬ不気味さを醸し出していた。
何故か人間味を感じさせない整端な顔つきが空恐ろしい。
恐怖で動かない口が言葉にならない声を出す。
言葉を話せない赤子のように音を出すだけで精一杯だった。
「おや、困らせてしまったかな。君とは顔を合わせてから随分と長いけど一回もまともに話したことがないから良い機会だと思ってね」
にこにこと笑いながら卑しい禿に気安く声をかけてくださる杉谷様は、世間一般的にいえば出来た人なのだろう。
けれど瞳の奥底は氷のように冷え切り、無機質な光を湛えている。
いつも微笑を浮かべいる表情も作ったよう。
それがわっちには恐ろしくてしかたがなかった。
「前から君とは話をしたいと思っていたんだ。夕霧には後で言い伝えておくから相手をしておくれ」
「……それは、できんせん。夕霧花魁が待っていんすから、どうか夕霧花魁の元におもどりくんなまし。わっちが夕霧花魁に叱られんす」
「大丈夫だよ。夕霧は調子が悪いらしくてね、今はぐっすり寝てる。だから退屈なんだ。君とは一時の逢瀬も許されないのかな?」
軽い物言いだが拒否は許さないとでもいうように問い掛けてくる杉谷様にこれ以上の拒否ができなかった。
きっと何を言ってもするりとかわし、上手く話をもっていくのだろう。
いつも夕霧花魁と杉谷様の掛け合いを見ているわっちにとって、その結論を出すのは容易だった。
深い後悔に苛まれて沈黙を守っていると、杉谷様は暗闇に包まれた外の町並みと、悠然と輝く月に目を向けて話し出した。
「ここはまるで別世界のようだね。ここから眺める景色に現実味が少しも感じられない。まるで甘く幸福な夢の中にいるようだ。嘲りや失望、虚無感といった人にとって優しくない感情を全く感じなくて済む世界。そして心さえ麻痺するほどの恋慕。一度甘い蜜を味わってしまうと身が破滅するまで目が覚めそうにない」
くすくすと笑っている杉谷様と目があった。
熱に浮かされたように語るくせに目は氷のよう。
さわりと肌が粟立つ。
「君は夕霧のようになりたいか?」
どういう意図があって質問されているのかわからない。
けれどわっちの答えは一つしか持ち合わせてない。
「わっちは夕霧花魁のようにはなりんせん」
意外な答えだったのか少しだけ杉谷様の目が大きくなる。
「おや…君は欲、というものがないのか。夕霧といえばこの吉原で随一の花魁。綺麗で豪奢な着物を身につけ、客に媚びを売ることもなく、将来さえ約束された稀有な存在だ。君のような立場の娘子ならば、憧れであり目標だろう」
「けれど夕霧花魁は…」
哀れな存在でありんしょう??
ついうっかり言ってしまいそうになった言葉を飲み込む。
文字通り夕霧花魁は全ての遊女達の頂点にいる。
流れるような優美な仕草も、見惚れるほどの美しい顔も、賢い頭も、さりげない優しさも。
その地位に曇りさえない。
けれどわっちは知っているのだ。
男に溺れた花魁の行く末を。
きっと夕霧花魁を奈落の底に突き落とすのは目の前の男だろう。
絡まった糸は、もう救いようがないほど複雑に巻き付いている。
ズキリと鋭い痛みが胸に訪れる。
「何か思う所があるのか。けれどきっと、君は夕霧のようになる。その類い稀なる美しい容姿や、人の気持ちに聡く、賢い。とても良く夕霧に似ている。もしかしたら夕霧を越すかもしれない。夕霧も君のことをとても気に入っている。これは必然だ」
珍しく雄弁に言葉を紡ぐ杉谷様に気圧されるように一歩後ろに下がる。
わっちは夕霧花魁のようになりたくない。
わっちが望むのはささやかな幸せだ。
凪いだ海のように穏やかに過ごせればいい。
たわいのないことで笑える日々。
それはもしかしたら途方もないほどの大願なのかもしれないけれど。
思うだけは自由だ。
「きっと、有名な花魁になる」
重ねて言われた言葉は、わっちのささやかで大きな夢に影を落とす。
それは泉に落とされた一粒の雫のように心に波紋を広げ、言いようのない不安が心をしめる。
もう聞きたくない。
そう強く思った時、杉谷様が薄く笑った。
まるで心を透かされているよう。
「さて、おしゃべりが過ぎたかな?長い間付き合ってもらって悪かった。もうお休み。部屋の前まで送っていこう」
窓の横に縋ってわっちを観察しているように見ていた杉谷様は再度蝋燭に手をとった。
わっちは動揺を悟られないように平常心を装って声が震えないように努めた。
「ありがとうございんす。けどお気遣い無用でありんすぇ。 わっちの部屋がある場所は男人禁制でありんすぇ。 一人で戻れんす」
杉谷様の言葉を待たずに頭を下げて今度こそこの場を離れた。
***
翌日目を覚ますと太陽は中天まで達し、外からがやがやと人の声がひっきりなしに聞こえてきた。
部屋の中に一緒に寝ていた禿の姿はなく、わっちの布団がぽつりとあるだけだった。
寝坊した。
その事実を認識するや、顔から血の気が引き冷や汗が出る。
これから怒る折檻に恐怖し、震える手足を叱咤しながら懸命に動かす。
息が切れ切れになりながらも大急ぎで夕霧花魁の元に向かった。
部屋の前で深呼吸して覚悟を決めて襖に手をかける。
部屋の中には数人の禿が、夕霧花魁の仕度を整えているところで、突然部屋に入ってきたわっちに視線が集まる。
「すみんせんでありんした」
膝を下り、深々と頭を下げて額を床に擦り付ける。
「いいでありんすぇ。 事情は杉谷様から聞いていんす 。わざと起こさなかったのでありんすから頭を下げなくでもいいでありんすぇ。 わっちもおゆるしなんし 。杉谷様のお相手をしてくれてありがとうございんす。杉谷様も楽しかったって言ってくれんした。お母さんのことも心配しなくても大丈夫でありんすぇ。 杉谷様がお気持ちを下さったからご機嫌でありんすぇ」
ふんわりと花が咲くように笑う夕霧花魁の笑顔にどっと安堵する。
些細な粗相で折檻を受け、体が使い物にならなくなったり、命が消えてしまった仲間達を幾度も見てきた。
いつわっちの番になっても不思議はないのだ。
そうそうと言いながら、すらりとした顎に細長い指を添えて夕霧花魁が話し出す。
「おまいさんもそろそろ禿ではなく新造になりんせんといけありんせんぇ。ちょうど杉谷様から頂いたご好意を無駄にしないためにも一人前にならんといけありんせん 」
びくりと体が震える。
新造になってしまうと花魁まであっという間。
少しずつ猶予がなくなっていく。
堕ちるのは、一瞬。
「ふふっ。おまいさんは飾りがいがあるからねぇ。わっちが持ってありんす反物で、これなんかどうでありんすか?仕立は上等だけれどわっちにはあわなくて……。おまいさんなら問題なく着こなすでありんしょう 」
夕霧花魁が奥から漆塗りの長方形の箱を持ってきた。
中の反物は目を見張るほど綺麗だった。
蒼を基調とし、濃淡が重なる。
藤の花が一面に散らされるように描かれていた。
「禿が一人前になるのは嬉しいでありんすぇ。 今度おっかさんにはわっちから話をしておきんす。楽しみにしておいてくんなまし」
無邪気に笑う夕霧花魁は、とても美しかった。
それから暫くしてわっちは新造になった。
豪華な衣装に見を包み、盛大なお披露目を済ませた後、花魁になるために否応なく学びやに連れていかれた。
引込新造は位の高い花魁が通る道。
着々と道を進んでいく。
その度にわっちの心には軋みを上げる。
しかしわっちの進む道はこれしか残されてないのだ。
いつものようにお世話になっている琴の師のところに行こうと下駄に足をかけたところだった。
短い間だがお世話になっている下宿先の奥様が手招きをしているのが見えた。
「ちょっとええか?」
「あい」
返事をして奥様のもとまで行くと奥様は堪忍なぁと言って話し出した。
「今日なんやけど習い事が終わったら夕霧花魁のとこまで行ってくれへんか?なんや頼み事があるらしいんよ」
「わかりんした」
「ではよろしくね。きぃつけていってきくるんよ」
「あい」
わざわざ呼び出すなんてなんの用だろうと思ったことは顔にださず、了承の意を込めて返事をした。
予定していた習い事を済ませて夕霧花魁の元へ向かう。
久しぶりに会った夕霧花魁は前よりも更に魅力的な女性になっていた。
しかしその一因に、今にも消えそうな儚さと危うさが加わったように見えるのは気のせいか。
「急に呼び出しておゆるしなんし。今日なんでありんすが、おまいさんに杉谷様の相手を頼みたいのでありんすぇ。 わっちはどうしても断れん客が来ていんす 。他の新造も出払っていんすし、杉谷様のお相手を任せられるのがおまいさんしかいないのでありんすぇ。 引き受けてくれんすか? 」
困った顔で問い掛けられる。
正直、杉谷様を上手くもてなす自信はない。
最後に顔を合わせたのはあの日、満月が嫌に目についた夜以来だ。
あれから杉谷様の姿を見ると前にも増して体が畏縮し、逃げ出したい思いにかられる。
しかし否とは言えない。
夕霧花魁は何よりも杉谷様を優先したいのだろう。
それができないのだから今のわっちに拒否権はない。
「ほかなりんせん花魁の頼みでありんすぇ。 精一杯お勤めさせてもらいんする」
本音を押し殺して答えると夕霧花魁は寂しそうに微笑んだ。
急いで仕度をし、杉谷様が待つお茶屋まで向かう。
何度も客の相手はしてきたが、いつもは禿として付き従うだけだった。
花魁の代わりとはいえ初めて客を迎えるのはひどく緊張する。
いつもより多くの簪をさし、きらびやかな着物で道を進む。
指定されたお茶屋へ入るとおちょこを片手に笑顔で杉谷が言った。
「待っていたよ」
笑いかけられた瞬間、ぞっと背筋が凍った。
夕霧花魁に絡み付いている糸がわっちにも絡み付く幻覚が見えた気がしたからだ。
――捕らえられる
固まっているところを小さく着物を引っ張られ我に返ったわっちは何事もなかったかのように挨拶をした。
夕霧花魁に別の客を宛がい、周りの新造を遠ざける。
そしてわっちがこの場に来るように杉谷様が画策したのだとは考えすぎだろうか。
そんな考えを抱きつつもかろうじてお酌をしていた時だった。
杉谷様が耳に囁きかけた。
「夕霧花魁に益々似てきた」
わっちを煽るように含みを持たせて告げる。
あぁ、夕霧花魁は何故この男に捕まってしまったのだろう。
胡散臭く、底知れない狂気をたたえた怪物のような男に。
鋭くなった目線を受けて男は益々笑う。
「ははっ、お前は大人の欲望に巻き込まれた小さき蝶のようだな。抗えどその身は無力。しかし、不本意ながらその美しい姿で他を魅力する。誠、憐れな生き物よ。かくゆう私もその美しさに惹かれた一人。いつかお前を捕まえたいものだ」
肩を寄せられ囁くように耳に吹き込まれ、そこから毒が回るように手足が痺れてくる。
じわじわと体を侵食するように回る毒は確実にわっちを侵していく。
体の自由を奪い、捕らえられるだけの存在にはなりたくない。
「わっちは無力の身でありんすが、抗うことを諦めはしんせん。杉谷様から逃れてみせんす」
意志を込めて言った言葉に不気味な笑みは深くなる。
「愉しみにしているよ」
からまった糸はいつか解ける日がくるのだろうか。
それとも――……
わっちはまだ新造のため夜伽を逃れ杉谷様と別れた。
「杉谷様はどうでありんしたかぇ? 」
「夕霧花魁が相手ではなくて残念そうでありんした。やはり夕霧花魁がよさそうでありんすぇ」
夕霧花魁は笑顔になる。
「まことでありんすか?それは悪いことをしんした。……杉谷様はわっちを身請けしてくださるのでありんしょうか。 やはりわっちが花魁でありんすからいけありんせんのでありんしょうか 」
「そんなことはありんせん。杉谷様は花魁に夢中でありんすぇ」
杉谷様が見せた狂気に気が付かないふりをして、微笑みながら優しい嘘を言う。
そんなことができる程度には大人の世界を知っていた。
願わくば無事に年季があけ、普通の生活に戻れることを。
夢見て生きていくことは許されるのだろうか――
***
花魁になる日が決まり、両手が数えられるほどになった時、夕霧花魁から呼び出しがあった。
気分は一層鬱々とするばかりで、逃げ出したい気持ちになるが、運命に抗う力も勇気もない。
大人しく花魁になる日を待つしかなかった。
夕霧花魁が待つ、部屋まで行く道すがら周りの目が異様に気になった。
なにかあったのかと馴染みの禿に聞く前に、相手から目を逸らされるばかりだった。
訝しみつつも夕霧花魁のもとへ行って初めてその理由が分かった。
あんなに鮮やかに咲き誇っていた花が、毒を浴びたようにひどく醜く爛れていたのだ。
「夕霧花魁、どうしたんでありんすかぇ?」
「来たんでありんすか。ねぇ、おまいさんは杉谷様に何を言ったんでありんすかぇ? 」
「夕霧花魁??」
虚ろな目で呟く様が、恐怖を導く。
一体何があったのだ。
「今度おまいさんは座敷にあがるのでしょ?」
「……はい」
「その時に、初のお相手をつとめるって杉谷様が言われんした。当然止めんした。けれど、わっちの妹分でありんすからっていいなさる。わっちのためだって言われたら断れるはずもないのに、嫌な予感がしてしょうがありんせん 」
凛と咲き誇っていた花が、見るも無惨な有様になっている。
みずみずしかった花弁は、乾き、色を失って黒ずむ。
まっすぐ伸ばしていた体は、影に魅入られたかのように下を向き、けして太陽に顔を向けようとしない。
可愛そうな夕霧花魁。
「杉谷様は、どうしたらわちきを愛してくれるんでありんしょうか。やはりわっちが花魁でありんすから、信用してくりんせんのでありんしょうか 」
独り言のようにぽつりと呟く。
きっと夕霧花魁はわっちの言葉など聞いてはくれないだろう。
「いちど、爪を剥いで杉谷様に渡したんでありんす。そしたら大層お喜びになりんした。でもきっと、爪だけでは駄目なんでありんしょう。だって爪なんてまた生えてくる。……指、がいいのでありんしょうか。そうしたら杉谷様はわっちだけを愛でてくださるのでありんしょうか 」
「……お、花魁?」
夕霧花魁は狂気に支配された瞳で小さな箱を手に取った。
金箔をあしらい、繊細な模様の描かれた箱から出てきたものは、刃が剥きだしになった鋭利に光る短剣。
それを愛しげに見つめる夕霧花魁の姿が、これから起こる出来事を容易に想像させた。
「やめてくんなまし。そんなことしたらこなたの吉原で生きていけなくなりんす。おっかさんも許しはしんせん」
「杉谷様のお心が手に入るなら指なんて安いものでありんすぇ」
「花魁!!やめてくんなまし!!」
微笑みながら夕霧花魁がぐっと柄を握るのが見えた。
「花魁!!」
「何事だい!!」
騒ぎをききつけた人が目を剥き、夕霧花魁を止めにかかる。
夕霧花魁は必死に抵抗するが、最後には押さえ付けられて刃物を取られている。
わちきはその様子を、震えて眺めていた。夕霧花魁が刃物を振り回したせいで部屋の中に血があちらこちらにすりついている。
「もう、あのこは駄目だね」
わちきの横で、おっかさんが溜息をついた。
夕霧花魁を見つめる目は壊れた玩具を見るかのように冷たいものだった。
***
「綺麗ねぇ」
「いっぺんお相手してほしいもんだ」
「そりゃぁ無理だ。わしら民草はそこらの女郎しか相手してくんねぇよ。全財産なげうっても手が届かねぇ高嶺の花さ」
突き出しをむかえ、花魁になる日がきた。
普通よりも豪勢なお披露目は話題を呼んだらしく、道一杯に人が集まっていた。
空いてる道の真ん中を何度も教えられた通りに一歩ずつゆっくりと進んでいく。鉛のように重たい足を引きずりなから長い時間をかけてようやくたどり着き、喜び、嫉妬や羨望などが入り混じった歓迎を受けてのれんをくぐった。
座敷の扉を開けると強烈な赤が目についた。
かつて栄華を誇った花魁の体から流れでる赤い水溜まりが広がり、鉄が錆びたような臭いが鼻についた。
最後の力を振り絞り、愛しの怪物触れた手は赤く塗れ、怪物の頬に赤みを差した。
狂気を表すかのように四方八方に飛び散った水滴は、染みのように斑点を残す。
その赤を纏い狂気に導いた怪物は無感動に死体を見下ろしていた。
そして怪物は赤い液体を付けたまま振り返りにぃ、と笑う。
「ツカマエタ」
わっちの花魁の始まりはひとつの悲劇から始まった。