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少し複雑な物語

作者: 諸林 瓶彦

少し・複雑な物語(SF)

 午前中は、体中が腐乱してしまいそうな暑さだった。

 だが、山向こうで発達したであろう積乱雲は次第にその容積を増やしながら風に乗って、この街の上空までやってきた。

 雷を伴う豪雨だった。学校が休みで助かった。

 部屋の中が急に涼しくなってきた。過ごしやすいのはいいが、肌寒いぐらいだ。僕は、扇風機の回転数を一段階減らした。雷が空を割った。

 激しい雨音にまぎれて、何か電子音がした。携帯電話ではない。少し考えて、ああこれは玄関のインターフォンの音だと思った。

 僕は玄関までダラダラ歩き、ドアスコープを覗き込んだ。

 カエルのような顔をした男が立っていた。僕と同年代だろうか、目が血走っている。

 見覚えのある顔だ……というより仲の良い友達だという気がする。だが、誰なのか思い出せない。単に名前が思い出せないという年寄り染みた現象だけではない、もっと深刻だ。

 その顔に伴うコンテキスト……、いつ友達になったのか、どの程度の仲なのか、どんな喋り方をするのか全く思い出せないのだ。にもかかわらず、ひどく懐かしい感じがした。

 男は傘もささずにここまで来たのか、びしょ濡れだった。とても追い返せるような様子ではないから、扉を押し開いた。

 男は片手を上げて僕に挨拶すると、ズカズカと廊下を歩き、狭苦しい居間までしずくをポタポタと垂らしながら歩いてきた。身体を拭いてほしかったのだが、男の呼び名が分からないので咎める言葉が喉をつかえてしまい、変なうめき声を上げることしかできなかった。

 男はちゃぶ台の前にどっかりとあぐらをかいて座ると水を要求した。息が荒いのは雨の中走ってきたからだろう、ぶしつけな奴だと思いながらコップを渡すと、彼は一気に飲み干した。

 そして、さらにぶしつけなことを言った。

「どうせ死んでしまうなら、なぜ今生きる必要があるんだ?」

 僕は笑った。青年期という、一番人生に悩む年頃とはいえ、そんな質問をいきなり友達(多分)にする奴があるだろうか。だが、彼の目は真剣だった。

「何のために生きるかなんてそんなことを考えたってしょうがないだろう」

 僕の口をついて出たのは、何かの本かブログに書かれていた文章をそのまま引き写したようなセリフだった。「何のために生きるのか」という問いに対しての定番の答えとも言ってよい。

 そうだ、考えてもしょうがないのだ。

 だが、男は僕の顔を真っすぐに見つめ、もう一度繰り返した。その瞳の奥底にうごめく異様な生き物の気配に僕はたじろぐ。瞳の奥の生き物、それは脳なのかそれとももっと恐ろしいものなのか。

「どうしてそんなことを訊くんだ? そいつを教えてくれなければ、的確な答えはできないよ」

 僕は大きく息を吐き、何とか恐怖で身体が硬直するのを避けようとした。

 男は僕に噛み付くのではないかというぐらいに身を乗り出してきた。

「ただ、頭の中に響くんだ。ずっと前から同じ言葉が。オレ一人じゃあ答えが見つからないんだよぉ。お前なら、読書家のお前なら答えを知っていると思ってここまで来たんだよ!」

「そうなのか。でも、頭に声が響くなんて普通じゃないぞ、カウンセリングでも受けた方が」

「カウンセリング? そんなのは大人達が考えた、深淵に蓋をして目をそらすためのパテに過ぎない! ダメなんだ、オレは答えが知りたいんだよ! さあ、今すぐ答えを言ってくれ!」

 この状況で下手なことを言って、より興奮させてしまうと危険だ。何か哲学的に深そうなことをいって上手くごまかすしかないだろう。

「生きることに意味はない、僕はそう思う」

 これも、多くのインテリが異口同音に語った、いまや使い古された答えだった。だが、男は怯えたように身体を仰け反らせた。

「な、なぜ生きる意味がないんだよ。そんな、そんなのってありかよ」

「人間だからだ。例えば、道具なら必ず使い道がある。スプーンは食べ物をすくうために、コップは水を飲むために、パソコンは情報処理のためにあるんだ。使い道がなくなれば、そこで道具としての意味は終わる。でも、人間は何者かの道具じゃない。何か目的を外付けされて生まれてきたんじゃないんだ。だから、人間が何のために存在するかっていう問いは、そもそも意味をなさないんだよ」

 僕はなるべく男を興奮させないように、刺激的な単語は避けて、冷静に語ったつもりだった。

 「そんな馬鹿な話があるか!? この地獄のような世界に生まれ落ちて、毎日毎日少しずつ心を傷つけて、泣いて、叫んで、苦しんで、ぼろぼろになっていくそんな人生に意味がないなんて、そんなことが許されるとでも思っているのか!?」

 男は立ち上がった。涙をポロポロと流し、激しく嗚咽している。

「許さんぞ! さてはお前は悪魔だな! 間違った教えを世界に広め人類を滅ぼそうという悪魔め!」

 男の激昂に、僕は本当に腰を抜かしてしまった。逃げようとしても、足が動かない。

「悪魔は、処刑されねばならない!」

 背中に仕込んでいた刃渡り三十センチのナイフを振りかざす男。こいつ、完全に狂ってやがる! 

 僕は、必死で手を振り回し、ちゃぶ台をひっくり返して抵抗した。

 だが、腕を切り裂かれ、足を踏みつけられ、押え込まれる。

 視界が赤くなり、すぐに白くなり、やがて何も見えなくなった。



 月面ドームから見える星々は燦然と輝いていた。

 地球にいたときは、こんな星空を見ることができるとは、つゆほども思っていなかった。僕はそのことを神に感謝した。

 不思議なものだ、地球にいたとき僕は全く信仰を持たなかった。なのに、彼らに選ばれて地球の外に出てからは、毎日祈りを欠かさない。

 これも、文化人類学者のいうアイデンティティの先鋭化なのだろうか。人という生物種は、自分とは異なる文化圏の人間と交流すると、自分たちのもつ固有の文化をそれまで以上に主張し始めるのだと言う。それは、石器の型式から政治思想まで、人類文化の広範にわたる。

 雑多な異星人達が過ごす月面ドームにおいて、信仰を持つものはまれだった。彼らは、科学的には証明できない超越者に頭を下げるなどもっとも不合理なことだと考えていた。大宇宙でそれこそ神々のような生活をしている彼らに、信仰など不要なのだろうか。

 だけれど、地球から少し離れてみて、絶対に見ることがないと思っていた光景を目の当たりにして、僕は超越者の存在をひしひしと感じたのだった。それは理屈ではない。結局人間は、そういう脳の構造をしているのだとしか思えない。

「あなた、また不思議なことをしているのね?」

 脳内に埋め込まれた異種間コミュニケーション用デバイスを使って話しかけてきたのは、遥か千光年先から月面に出張してきたヨージェという異星人だった。

「あなた達地球人のするその行為は、一体なんなのか全く分からないわ。何か、外部にいるものとのコミュニケーションを図っているように思えるけれど、それは決して達成されることはない。だって、その神様って人から一度でも応えがあったことがあるかしら?」

「僕は、ないよ。でも、地球人の中には、神様の声を聞いたっていう聖人がたくさんいるよ。君たちにはバカバカしいかも知れないけれど」

「本当にバカバカしいわね。そんなのは、あなた達の脳神経がおかしたエラーに過ぎないわ。地球人だってとっくに気がついているのに、でも『信仰』とやらを捨てることはない」

「ああ……、だって怖いじゃないか。こんな広大な宇宙のどこにも、自分を本当に見てくださっている人がいらっしゃらないとしたら、何を拠り所にして生きていくんだい?」

「観測されないものを拠り所に生きるというのは理解できない」

「じゃあ、君たちは何のために生きるんだい? 前にも訊いたことがあったよね」

「その問いはわたしたちにとって意味をなさない。多分、あなた達との根本的な構造差から生じるもので、その溝は永久に埋まらないでしょうね」

「そうかい。だけれど、こんな広大な世界を目の前にして、祈ろうとしない方がおかしいよ」

 僕は再び、超越者に対して頭を下げる動作をした。

「地球にいたころのあなたは、その信仰というわけの分からないものを全く持っていなかった。それが、あなたをここに呼んだ理由の一つだったのにね」

「うん、それは分かるよ」

 彼ら、月面ドームにいる異星人達は「星間連邦」に所属しているものだった。数世紀前、知的生命体の存在する太陽系の惑星を発見し、月面からその動向を観察してきたのだ。

 地球を星間連邦に所属させる準備の過程で、地球人を月面によび、働かせてみようということになったらしい。異星人達の中での地球人の振る舞いを観察し、連邦に所属するに足りるかを決定しようとしたのだ。

 無作為に選んだわけではない。だが、僕がとびきり優秀だったから選ばれたわけでもない。無気力で何の信念ももたず日々を過ごしてきたことが理由なのだ。

 ただ何となく高校に通い、ただ何となく教科書を広げ、友達と遊ぶでもなく、灰色の毎日を過ごしてきた。このままでは、ニート街道まっしぐらだったろう。

 だが、彼らの「知性」にはそんな僕が「他者を傷つけることない純粋な存在」と映ったのだった。

 当然、攻撃性を内在した人間は、狭い月面ドームでは生活できない。僕は、何の技術も持っていなかったし、頭も悪かったが、他者に暴力を振るおうなどと思ったことはほとんどなかった。そして、信仰という彼らにとっての不確定要素も全く抱え込んでいなかった。今は違うが。

「悪いね、君たちの思い通りに成長しなくって」

「……その信仰が、どれだけ世界に憎悪をまき散らしているか、あなたは分かっているの?」

 ヨージェが思念だけで巨大演算装置を操作すると、僕の目の網膜に直接情報が映し出される。

 それは、数々の宗教戦争の光景だった。異なる信念をもったものどうしの闘い、異星人達にはくだらないものに見えるのだろう。

 でも、今の僕には分かる。少なくとも人類にとっては、科学主義すら一つの信仰なのだと。数学者や物理学者はしばしばいうではないか。「この世界の根本をなす、一本の美しい数式を発見したいのだ」と。それは、中世における神への愛とどう違うのだろうか?

 その意味での信仰を、異星人達が全く持っていないとは思えない。世界の根本原理を発見しようと彼らも努力しているように見えるし、そうでないならどうしてわざわざ地球まで調査しに来る必要があったのだろうか?

 僕は、何度も異星人達に問うたのだが、彼らは上手く理解しないようだった。

 地球を何世紀にもわたって観察してきた彼らは、表面的には地球人との円滑なコミュニケーション方法を知っているようだった。気の利いたギャクを言って、笑わせてくれたこともある。なのに、この根源的な断絶は、ちっとも埋められない。

 僕の網膜には、虐殺され積み上げられた死体の山が映っている。

「もう、いい。もうやめてくれよ。気持ち悪くなってきた」

 ヨージェが何か操作をすると、網膜から幻影は消えた。

「今まであなたに隠してきたけれど、わたしたちはもう限界なの。あなたの理解できない振る舞いにも、地球人がまき散らす憎しみの連鎖にも」

「ど、どういうこと?」

「わたしたちは繰り返し繰り返し演算した。何度やっても結果はほとんど同じだったわ。地球人は、このままでは宇宙にまで争いの種をもたらす存在に成長する、と」

「そ、そんなの、君たちの手でいくらでも修正可能じゃないか」

「いいえ、もう無理。わたしたちが観察していることに気がついたとしたなら、地球人はパラノイアに陥り、必ずここを攻撃してくる」

「な、何だって!?」

「だから、地球から地球人を一掃することに決めたの」

「ば、馬鹿なことを言うな! 地球から攻撃を受けたって、君たちは蚊に刺された程度の痛みしか感じないはずだろう!」

「今はまだね。でも、軍事技術だけを奇形的に発達させた地球人は、いずれとんでもない暴挙にでる。その芽は早く摘み取らなければならない」

「何を言っているんだ!? 人類を滅ぼそうなんて、君たちの方がパラノイアだ! 平和な国や社会は、地球上にいくらでもある。平和を望んでいる人々は大勢いるんだ!」

「いいえ、わたしたちの演算では、やがて人類全体は狂気に陥るでしょう。その兆候はいくらでもある。例えばあなたの出身国でさっきあった出来事よ」

 網膜に画像が映し出される。

 多分、最低の家賃であろうボロアパート。一人高校生が座っている。その顔は、どこか僕に似ていた。

 そこにもう一人高校生が訪ねてくる。びしょ濡れだ。

 二人は何か会話をし、激昂した一人が、もう一人をナイフでメッタ刺しにした。喧嘩か? 確かに狂ているとしか思えない。

「いずれ、あのナイフはわたしたちに向けられるでしょうね」

「だからって!」

「何をあなたは怒っているの? 可能世界理論はみっちり学んだはずよね」

「ああ……、この現実とは異なる様相を示す世界が、無限に存在するって理論だろ。それがどうした」

「滅びるのは、この世界の地球人達だけ。他に無数に存在する、危険性を孕まない人類は生き残り続けるわ」

「君たちにとっては、それは軽い出来事なんだろうが、僕達は!」

「……やっぱり、地球人はこの上なく理解できないわね。そもそも、この世界はあなたが元いた世界ではないというのに」

「頼む、やめてくれ!」

 僕は土下座した。そのジェスチャーの意味を、彼らは何世紀も前から承知のはずだ。だが、ヨージェの声は冷酷だった。

「もう、部隊は出撃している」

「やめろおお……!!!」

 僕はヨージェに殴り掛かった。

 だが、拳は永久に届かない。分かりきっている。


 

 僕は居酒屋のカウンター席で高校来の友人と待ち合わせしていた。

 僕はしがないサラリーマンになったが、あいつはイラストレーターとして大成した。今や、ゲームやアニメ業界で、引く手数多の存在だ。

 職業に似合わずガタイのいい彼は、僕を発見するとすぐににこやかな笑みを浮かべて隣に座った。相変わらず、カエルのような笑顔だった。

「遅れて悪いね」

「大して待ってない。日本酒を頼むか? まずはビールかな」

「そうだな」

 瓶ビールが二本カウンターの上に置かれた。彼も僕もお酒にそれほど強くはないが、ビールと日本酒は割合に好きだった。

「お前は凄いよな。高校時代には、ここまでの才能があったなんて全然分かってなかったよ」

「フン、才能なんてあっていいのかどうか分からんぜ。お前さんと違って定年まで安定した収入がある保証はない。絵柄が古くなって世間に飽きられたらそれで終わりだ」

「憎たらしい謙遜だよ、そりゃ。僕の何十倍も蓄えがあるんだろ! それにお前は背景も動物も描けるから仕事からあぶれることもないだろうしな」

「日々、怖いんだよ。走り続けなきゃなんない、時々それが疲れることもある。そんなときお前さんがいてくれることがどれだけ心の支えか」

「大げさな。癒してくれる取り巻きなんていくらでもいるだろうが」

「いいや、オレには喧嘩した仲の友達なんてお前しかいない。それに、お前ほど物事を深く考えている奴は滅多にいないぜ。何で、哲学者にならなかったんだよ」

「職業哲学者として生活できる人なんて、ほんの一握りだよ。優秀な大学の中でもごく一部の奴らだけさ。サラリーマンも大変だけれど、金はある程度稼げる」

「サラリーマンなんてお前さんには一番似合わないと思ってたけれどな」

「だろうな。でもな、哲学なんてどこにいてもどんな時でもできるんだ。戦争の最前線でだって」

「そんなもんかね。フフフ、イラストレーターも文系サラリーマンも戦争が起こったら真っ先に最前線だろうな」

「違いない、違いない」

「高校時代の喧嘩を時々思い出す」

「ああ……、お前が血相を変えて押し掛けてきた時は、内心震え上がったよ」

「あのとき、オレは必死だったんだ」

 今やイラストレーターになったこの親友は、当時、密かな野心に燃えていたのだった。僕は似合わないと止めたのだが、彼は生徒会長の選挙に立候補した。

 生徒会長になれるかどうかなど、個人の力量は全く関係ない。生徒の中で権力を持っている奴にどれぐらいコネクションがあるかどうかだ。学校をよりよきものにしたいという崇高な理想だけでは、人は動かないのだ。特に、僕たちがすごした三流高校では、理想を語る言葉は空転するしかないのが現実だった。

 親友は、必死で演説した。彼手製のイラストが書かれたビラも配った。でも、冴えない風采で女子の浮動票も得ることができなかった彼の投票数は最下位だった。

 親友がどんな気持ちだったのか、僕は察することもできなかった。当時僕は無気力人間で、学校へ来てただ教科書を広げ、ほとんど誰とも会話がないまま家に帰る毎日だったから、生徒会の選挙なんていう政治的なことに全く興味はなかった。

 親友はそのことが気に障ったらしい。そもそも、僕が彼に投票したのかすらも疑っていた。

 そして、一人暮らしする僕のアパートに押し掛けてきたのだ……、人は何のために生きるのかとういう、恐ろしく煮詰まった問いを引っさげて。凄まじい雷の音がしたのを覚えている。まるで、空が割れて、溶けた鉄の雨が降るのではないかと思ったほどだ。

 彼は、危険な状態だった。夕立に打たれ憔悴し、今にも自殺するのではないかとすら思えた。

「お前さんの返答次第では、殺すつもりで行ったんだ、オレは」

「ああ、本当に殺されかけたよ」

「そうじゃない、今だからいえるが、オレは本当にナイフをズボンと腰の間に忍ばせていたんだよ。絶望していた、誰も信用できなかった、何のために生きているのか分からなかった」

「そうなのか」

「殺して、オレも死ぬつもりだった。でもな、お前さんの返答がバカバカしくって、殴りたくなったんだよ」

「ああ、絵がうまいみたいだから、イラストレーターか画家にでもなったらどうだっていったんだよな」

「全然、オレの問いに答えてなかった。頭に血が上ったけれど、それで、陰気な気持ちは吹き飛んじまった」

 だから、ふざけるな! と僕を殴ったのだ。突然殴られて意味が分からなかった僕は、渾身の力を込めて殴り返した。お互いに大して体力があったわけではないから、殴り合いはダラダラと続き、最後は力つきて倒れた。

 親友は倒れたまま笑っていた。僕の頬も緩んで、こみ上げてきた笑いを抑えることもしなかった。

 バカバカしい青春の一幕だった。

「僕が応えを間違えていたら、殺されていたんだな」

「そうだ、オレも自殺していただろう。お前の言葉が命を救ったんだ」

「ハハハハ、大げさな!」

 僕は、コップに注がれたビールを飲み干した。実にさわやかな気分だった。



 月面から見る地球は、ヨーグルトが浮かんだ青いシロップの玉のように見えた。そこで泳ぎ回る微生物のほんの一種類が、すなわち人類なのだった。

 僕がここに連れ去られて、もう何年も経った。こうして遥か高みから同胞を見下ろしているような位置にいるが、それは相対的なものだ。宇宙に絶対座標がないように、この世のあらゆる認識者は決して特異点たり得ない。例え、神々のような力を持つ僕の同僚達でも、認識論的には人類と対等だ。

 僕にそのことを教えてくれたのは、ヨージェという太った青白い骸骨のような姿をした異星人だった。

 では、祈りとはなんなのか? 認識の絶対座標がないとしたなら、それは超越者がいないのと同じことだ。だから、僕が毎日欠かさない礼拝(それは空に向かって頭を下げるという簡単なものだったが)は、ヨージェにとって奇妙なものに映ったようだ。

「キミはいつも何をしているのかね? 地球人類が、他者に敬意を払うときしばしば頭を下げる動作をするのは知っているが。キミが頭を下げる先には誰もいないぞ……少なくとも千光年先までな。まさか、千光年先の知的生命体に敬意を表しているわけではあるまい?」

「難しい質問ですね……、僕は多分、この時空内に存在していないものに対して頭を下げているのです」

「時空内に存在しない? それは概念としてだけ存在しているということなのか? 例えば数のように、言葉の意味のように?」

「確かに、イメージとしてはそれに近いですね。でも、概念であるなら人間の思考の範囲内に収まるのですから、つまり世界の内側に存在するということに変わりはありません。僕が祈りを捧げているものは、人間の思考の限界を超えたものなのです。ですから、概念ではありません」

「では、どのようなカテゴリーに属しているのか? 敬意を表するというジェスチャーが通じる相手なのだから、人格を持っているとも思えるが」

「祈りの対象は、祈りを捧げるものを映す鏡のようなものです。僕が人格を持っているのなら、相手も同様の態度で接してくれるのです」

「確かに、君たち地球人類はしばしば他者を『鏡』と表現する。不思議な表現だ」

「そう、僕にとってあなたは鏡だし、あなたにとって僕は鏡だ。だから、合わせ鏡のようにあなたの中には無限の僕が、僕の中には無限のあなたがいるのですよ」

「ハッハッハ、残念だがわたしたちはそういう認識の仕方をしていない。わたしの中に、無限のキミなどいないよ」

「そうでしょうか?」

「まあ、興味深い哲学ではあるがね。……すると、キミの言う超越者の中にも無限のキミがいるというのかね?」

「います。そして、僕の中には無限の超越者が映っている」

「ますますわけが分からなくなったよ。所詮、外付けのコミュニケーションツールでは溝は埋まらないということか。もっとも、これなしでのコミュニケーションは永久に不可能だろうがね」

「超越者は……神は、僕たちを生かしてくれている存在です。ここにきて、僕はそれをはっきりと感じた」

「それは前も聴いたよ。無慈悲な大宇宙の中で人類が生存を許されているのは何者かのご意志だと」

「そうです。むしろ僕が不思議なのは、宇宙の脅威を十分に知っているあなた方がなぜ神の存在を感じないのか、ということです」

「『超越者』が存在していなくとも、世界のあらゆることが説明できるのに、そんなわけの分からないものを持ち出す必要はない……。いや、あらゆることというのは言い過ぎだったか。この宇宙には、わたしたちにも分からない事だらけだ。でも、その原因を世界の外部に求めてしまっては、何も進歩しないじゃないか」

「そうですね、それは正論だ。多分、神とは人間の脳の持つある種の癖が生み出したものなのでしょうね。でも、その癖は呼吸をするのと同じぐらいボクらの生に密着している。それなくしては、人類は一秒たりとも生き残れないのです」

「……わたしたちの観察では、キミの故郷の弧状列島では『信仰』とやらに熱心ではなかった。キミは地球にいたとき、一度でも本気で『祈った』ことがあったのかね」

「ありますよ。まぁ、『困った時の神頼み』的な祈りでしたけれど、ああ、だから本気の祈りじゃなかったか。でも……」

「また、よく分からないレトリックを使うね。君たちは『信仰』を持たなくとも生存できる、それは過去のキミが実証している」

「……、何も存在しないのではなく、世界が存在していると信じる事自体が、一つの信仰です。世界の存在は、自分自身のセンスデータというもっともあやふやなもの以外に根拠がないのですから。だから、全人類はみな、信仰を持っていると言える」 

「何を言っているのか分からない」

「世界が存在するという奇跡を信じること、それは信仰ではありませんか? あなた達から可能世界理論を学んでから、僕はそう確信しました。世界は無数に存在しているのに、実在するのはこの世界だけだという不思議」

「確かにそれは不思議かも知れないが、それと神を信じることにどう関係があるのかね?」

「世界に実在を与えることができるとすれば、それは神しかいない」

 ヨージェはしばらく黙り込んだ。彼にしては珍しく、思考に時間をかけている。

「分からない、だが、わたしはキミを理解したい。君たち人類を理解したい」

 ヨージェは天空に広がる星々の海を見上げた。

「わたしは間もなく転勤になる。キミとは別れることになるだろうと思っていたが……。わたしといっしょに来ないか? キミはもっともっと広い世界を見る資格があると思う。宇宙旅行に危険はつきものだがね」

「……それは……!」

 僕は、胸が躍るのを隠せなかった。

 月面ドームも面白い。だけれど、もっともっと世界の神秘を見てみたい、それが叶うのなら多少の恐怖は乗り越えられるだろう。


*  


 僕は冷や酒をちびちび飲んでいた。

「いい人生だよな、僕たちって?」

 親友は真っ赤な顔をして、机に突っ伏している。いつになく深酒だ。

「オレたちは運が良かったよ。本当に、今生きていることに感謝しなくちゃな」

 感謝って、誰にだよ。ろれつが回らなくなっていたので、その一言はまともな声にならなかった。 

 

 

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