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狼男
あなたは人狼ですか?
 コヨーテは、人語を解さない。


 一は即座にコヨーテから距離を取った。
「な、何だ! 何で喋ってんだお前!」
「何言ってんだ、リトルボーイ。さっきまで会話してたじゃねーか」
 コヨーテは不思議そうに一を見上げる。
「それより、早く続きをやってくれよ。あんたのフィンガーテクは中々良かったぜ」
 獣に褒められても嬉しくない。一は周囲に人影があるかどうか確認した。いない。誰もいない。
「いや、気付かなかったのはアレだけど。とにかくさ、お前、動物だろ? なんで俺と話が出来るんだ?」
「……それこそミーの台詞だぜ。あんたこそ、どうして俺と話が出来る? どうして俺の言葉を聞き取れる?」
「?」
 コヨーテからは、敵意を感じない。嘘を言っているようにも見えない。だからこそ、意味が分からない。
「どうしてって、お前が喋ってるからだろ」
「まあ、喋ってると言ったら喋ってるけどよ。普通の人間にゃ聞き取れない筈だぜ」
「そんな訳ない。俺だって普通の人間だぞ」
 父親が妖怪だった訳でも、母親が天使だった訳でもない。人間と人間から生まれた、正真正銘純度百パーセントの人間だ。
「そうなのか? だがリトルボーイ、あんたからは何か匂うぜ」
「匂うって、どんな?」
「……そうだな。あんた、魔術は使えるかい?」
 久しぶりに聞く言葉だった。聞く事も無い言葉と思っていた。
「いや、使えない」
「じゃ、魔絡みの本なり石版なり、見えはするんだな」
「……なんで分かるんだよ? お前も、その、魔術を使えるのか?」
 一の言葉。それを鼻で笑い、コヨーテは牙を見せた。
「ミーが魔術を? 冗談キツイぜオイ。そもそもだリトルボーイ、あんた自分を普通だって言ったよな?」
「それがどうしたんだよ」
 にいい、と。まるで人間みたく口の端を吊り上げコヨーテは笑った。
「その割にゃ、魔術について知ってるみたいだな? 普通の人間は、存在すら知らないし、知ってても信じないと思うけどよ」
「……たまたまだよ」
 言い返せなかった。
「ま、知ってんなら話が早いぜ。良いかい、ミーの言葉は、普通では理解できない。聞こえない。それこそ、本当に犬が鳴いてるようにしか聞こえないんだ」
 一は黙って続きを待つ。
「となると、ミーの言葉を聞ける奴は限られてくる。まず、ミー以外のコヨーテ。ミーと同じくらいの力の持ち主。あとは、魔術的素養を少なからず持っている者だ」
「俺は……」
「コヨーテじゃない。ミーに匹敵する力も無い。すると、答えは三択のうちの残り一つって訳さ。理解したかい(ドゥユーアンダスタン)、リトルボーイ?」
 一はまた黙った。なるほど、ならば納得がいく。あの日だ(・・・・)あいつだ(・・・・)。それが本当ならば。本当に、コヨーテが嘘をついていないのならば。
「……お前は、ソレ、なんだよな?」
「イエスだ。尤も、ソレなんてのは人間が勝手に名付けた物だけどな」
「目的は何だ? どうしてここにいるんだ?」
 喋れるからと言って、今、こうして話しているからと言って油断は出来ない。百パーセント信用出来そうにもない。信じるな。簡単に引っ掛かるな。
「呼ばれたのさ」
「呼ばれた?」
 帰ってきたのは短い答え。一は拍子抜けする。
「ああ、そうさ。誰彼構わず、とにかく助けて欲しいって、何とかしてくれってな」
「……誰に?」
 コヨーテを呼ぶ人物などいるのだろうか。半信半疑ではあったが、一は続きを促した。
「ここの犬たちさ」
 心臓が強く、一の胸を打つ。
「い、ぬ? いぬって、犬か?」
「……犬は犬だろ。少なくとも、ミーは()にしか呼ばれてない」
「この街の犬が、お前に助けを求めたって言うのか?」
 コヨーテは空を仰ぐ。月が徐々に、その姿を現し始めていた。
「ミーだけじゃない。その声が聞こえるモノ全てにだ。ま、目的なんて無いさ。あんまりその声がうるさいから、ついつい見に来ちまっただけだぜ」
 まだ、信じられない。
「何だよ、この街に何が起こってるって言うんだ?」
「さあね。けど、良い事だけは起こりそうにないな。そう思うだろう、リトルボーイ?」
今のところ、その言葉だけは信じられる。
「ソレが、またここに来るって言うのか?」
ソレ(・・)をミーに言うか? もう来てるじゃねえか。いや、来てたって言うべきか、居てたって言うべきなのか」
「……嘘だろ……」
 また、ソレが来る。戦いが始まってしまう。
「なあ、教えてくれよ。何が来るって言うんだ? 何が起こるって言うんだ? 知ってんだろ?」
「その前にだ。あんた、そうやって警戒心を剥き出しにするのはやめてくれよ」
「え?」
「わかんねえのか? まずはミーを信じろって言ってるんだ。話を聞くなら、態度を改めて欲しいところだぜ」
 コヨーテは尻尾を振りつつ、一を眺めた。
「あんたがミーを警戒しているように、ミーもまた、そんな態度をしているあんたを警戒しているんだぜ」
「……だってさ、お前ソレなんだろ?」
「ふん、縛られるなよリトルボーイ。益々小さくなっちまうぜ。ミーは、確かにあんたらの言うところのソレだ。けど、だからどうしたってんだ? 何もソレが、人間以外の種族が、全てリトルボーイに危害を加える訳じゃないんだぜ」
 諭されて一は冷静さを取り戻す。確かに、喋るだけならばガーゴイルやシルフも人語を話していた。だが、彼らは異形の姿をとっていたからであって、一の二十年近く積み重ねてきた常識が通用しないと、最初から分かっていたからだ。割り切れていたからだ。コヨーテ。一の知っているコヨーテは、喋れない。そのコヨーテにも一の常識は通じない。
「ん。まあ、そうだよな。そうなんだよな……」
 一は自分に言い聞かせる。何もかも、今更だ。
「分かってくれたところで、ミーから一つアドバイスだ」
 コヨーテは耳を寝かせ、幾分か嬉しそうに尻尾を振った。
「昼間に会った嬢ちゃん、気を付けておいた方が良いぜ」
「……嬢、ちゃん?」
「とりあえず、ミーは行く。そろそろサムライガールもバッドガールも来る頃だ」
「え?」
 コヨーテは立ち上がり、一から背を向ける。
「縁があれば、また会おうぜリトルボーイ」
「お、おい! 嬢ちゃんって誰の事だよ!」
 振り返ることなく、コヨーテは夜の街に消えていく。
「なんなんだよ……」
 時刻は午後六時過ぎ。一の勤務終了まで、残り二十時間弱。


「お兄ちゃん、何してたノ?」
「片付けだよ。それよか、立花さんは?」
 ジェーンは商品の廃棄漏れを確認しながら、バックルームを指差した。
「ボスにどなられてる」
「……そっか」
 あとで泣き付かれるな。一は肩を落とし、消費期限の切れたパンをかごに詰めていく。
「なあ、ジェーン?」
「なあに、お兄ちゃん」
「コヨーテって喋れると思うか?」
 ジェーンは一瞬、一を不思議な物でも見るように見つめた後、
「……メ、メルヘンチックな話ネ」
 それだけ言った。
「ありがとう。それだけ聞けりゃ充分だよ」
「何かあったノ?」
 一は首を緩やかに振る。
「いや、何でもない。しっかし、お腹減ってきたなー。店長休憩くれないかな」
 野良犬が増えたなんて話よりも、コヨーテの話よりも、何よりも切実に一は思った。先の事もも大事だが、今の方がもっと大事だ。
「タチバナとチェンジすれば良いじゃナイ」
「んー、良いのかな?」
「ノープロブレム。かまわないヨ」
 一は頭を振る。
「そうじゃなくて、お前に悪いなって。ジェーンだって俺と同じくらいに入ったろ。お腹空いてないか?」
「……レディにそんなコト聞かないでよ」
「OH、失礼。じゃ俺だけご飯食べてて良い?」
「ダ、ダメ……」
 ジェーンはお腹を押さえながら訴えた。
「はいはい、分かったよ。最初っからそう言えば良いのに」
「ビークワイエット。レディのタシナミ何だから」

「はじめくぅん……」

「うわっ」
 いきなり背中にしがみ付かれ、一は飛び上がる。振り返ると案の定、目を真っ赤にさせている立花がいた。
「店長、怒ってないって言ったじゃないかぁ……」
「ご、ごめん」
 そんな目で見られては、謝る事しか出来ない。
「……遅刻したボクが悪いんだけどさぁ」
 立花は指で『の』の字を書き、イジイジとしている。
「け、けど良いんだ。あの子がいるし、元気をもらうからさ……」
「あー、言いにくいんだけど。あいつ、どっかに行ったよ」
「え、え?」
「ついでにさ、俺たちお腹減ったから、少し休憩に入るね」
「えええっ?」
 今しかない。隙を見せれば彼女は容赦など無しに牙を突き付けてくる。
「そーいうワケだから、タチバナあとよろしくネ」
「はっ、はじめ君!?」
「お、お客さんも少ないし、仕事も片付けたし。だ、大丈夫心配いらないよ」
 一は立花から背を向け、逃げるように歩き出す。
「は、はじめ君はボクの事が嫌いなんだ?」
 計算でも何でもなく、彼女は素でこんなことを言えるのだ。一は恐ろしくて仕方がなかった。
「ちっ、違うよ! 嫌いな訳ないじゃないか!」
「……じゃあ、どうしてボクが来たら休憩に行くの?」
 お腹が空いてたし、交替するにしてはこれ以上無い最高のタイミングだから。とは言えない。断じて。口が裂けても。
「……俺は、立花さんを信じてるんだよ。君になら、任せられるんだ」
「そ、そうなの?」
「そうなの!」
 必死だった。
「じゃ、じゃあさ、はじめ君はボクが嫌いじゃないんだよね?」
「当たり前じゃないか」
「ボ、ボクの事が……、……好き、なんだよね?」
「そう! ザッツオーライ!」
 一は叫んだ。
「お、お兄ちゃん?」
「も、もう一回、今度はちゃんと言ってくれないかな?」
「そう! ザッツオールァイ!」
 一は叫ぶ。ちょっとだけ発音が良くなっていた。
「そ、そういう意味じゃないのに……」
「? とにかくごめんね。なるべくすぐに戻るからさ」
「う、うん。お、お願いだよ?」
 一は喉を押さえながらバックルームに入っていく。その後ろを、不満そうな顔でジェーンがついていった。


 一は店長に休憩する旨を告げた。店長はまず最初に自分に言えと憤っていたが、立花を一人にさせる事が彼女への、遅刻に対しての罰だと気付き、快く一たちに休憩を与えてくれた。
「……さ、どうすっかな」
 休憩を貰ったは良いが、特にどうするかなんて考えていない。差し当たっては晩ご飯だが、財布を取られたままではどうしようもなかった。隣で腕を絡めようとするジェーンを遠ざけながら、一は頭を捻る。
「……ジェーン」
「えへー、何? お兄ちゃん?」
 ジェーンはツーテールを揺らして、嬉しそうに答えた。
「金貸してくれ」
「WHAAAAT!?」
 静かな町並みに、彼女の甲高い声は良く響く。
「だって財布ないんだもん」
「な、なんで?」
「……糸原さんに取られたんだよ。とにかく、お前は金あるだろ? 良いから出すもん出せよ」
 手を差し出し、一は横柄に告げた。
 ジェーンは体を震わせ、口元をひくつかせる。
「い、色々と言いたいコトはあるけど、しょーがないワ。お兄ちゃんをかわいそうな目にあわせられナイからネ」
 不承不承と言った具合に財布を差出し、ジェーンは一を見つめた。
「助かるよ。それじゃ……」
「ウェイト」
 一の出した手が軽く払われる。
「何だよ」
「条件があるワ。守ってくれるナラ、ご飯を食べさせてあげる」
「……ええ? あー、無理な事は言うなよ」
 仕方ない。一は自分を納得させて頷いた。
 ジェーンは満足そうに微笑み、人差し指を立てる。
「一つめ。お兄ちゃんはアタシとご飯を食べるコト」
「あいよ」
 それぐらいなら問題ない。
「二つめ。お兄ちゃんはアタシに優しくするコト」
「いつもしてるだろ」
「してナイ!」
 分かった分かった。一は手を適当に振り返事する。
「……むー。じゃあ、三つめ。お兄ちゃんの作った物が食べたいナ」
「俺の?」
 意外だった。
「ま、まあ、そんなんで良いなら。任せろ、お安い御用だよ」
 どうせ材料もジェーン持ちなのだ。お金を出して貰える。断る理由なんて無い。
「I did it! それじゃ、お兄ちゃんの家に行こ!」
「俺んち? んー、お前のマンションよか近いから良いけど。その代わり、家には何もないから買い物が先な」
「オッケーオッケー、さ、ゴーゴー!」
「おい、近いぞ」
「近くしてるノ!」
 ジェーンに引っ付かれ、腕を絡められる一。仕方ない。諦めて成すがままにされる。


「ねえ、一は?」
「あ、しのちゃん」
 一たちが店を出て数分後、入れ違いになる形で糸原が店にやってきた。片手には大きめの袋を抱えている。
「はじめ君ならジェーンちゃんと休憩に行ったよ」
 カウンターの中で暇そうに立っている立花が声を掛けた。
「休憩ぃ?」
「う、うん。あ、あの、なんで怒ってるの?」
 立花はおずおずと尋ねた。糸原の眉間に、急に皺が寄ったからだ。怒らせてしまっただろうかと不安になる。
「別に。怒っちゃいないわよ……」
「そ、そう? で、でもさ」
「――でも何よ?」
 その剣幕に、ぶんぶんと首を振って視線を逸らした。
「ちっ、何よ。つまんないわね」
「あ、それさ、隣町のお肉屋さんのコロッケじゃない?」
 立花は見覚えのある袋を指差し、嬉しそうに見つめる。
「あー、有名なの?」
「ボクたちの学校で、今人気なんだよ。安いけど、すごく美味しいからさ」
「ふーん」
 何の気なしに、糸原は袋の中を覗いた。結構な量のコロッケが、まだ湯気を立てている。湯気と一緒に、芳ばしい香りが周囲に広がっていった。
「わっ、良い匂い……」
「……あー、食べる?」
「い、良いの?」
「そんな目で見られちゃあね」
 糸原は店のキッチンペーパーを取って来て、コロッケを丁寧に包んでから立花に渡す。
「うわあ、ありがと、しのちゃん」
「はいはい、こぼすんじゃないわよ」
 さあて、残りはどうやって処理しようかな。糸原の気分が少し、沈んだ。


 卓の上には簡単な料理が並んでいた。
「……お兄ちゃん……」
「あー、お腹減ったし」
 カレーライス。ハンバーグ。エビフライにナポリタン。全てレトルトである。
「手を抜きすぎじゃナイ?」
「うるさいな。お前のリクエストには答えてやっただろ」
「……?」
「ほら、ちゃんと冷蔵庫にプリンも冷やしてるし」
 一は呆れたように口を開いた。
「サ、サンクス? でも、アタシリクエストなんてしてないヨ」
「馬鹿だなあ、兄を甘く見るもんじゃない。俺にはお前の食べたい物が分かるんだよ」
「……それが、これ?」
 どうにも、年端の行かない幼子が好みそうなメニューである。ジェーンは訝しげに一を見た。
「ねえ、お兄ちゃんもしかして……」
「あ、そうだ」
 一は何かを思い出し、立ち上がる。戸棚を漁り、何かを持って戻ってきた。
「悪い悪い、忘れてた」
 旗、だった。爪楊枝と紙で作られた、小さなアメリカの国旗を模したもの。一はそれをハンバーグに突き刺し、ジェーンの側に寄せた。
「はい、完成」
「Are you kidding!?」
「ちょ、大声出すなよ。馬鹿になんてしてないって」
「どう見ても! お子様ランチじゃナイ!」
 ジェーンはこたつから足を抜き、憤慨した様子で立ち上がり、一を指差す。
「指差すな」
「さささ、さされるようなコトしたのはお兄ちゃんでしょ!」
「何だよ。こういうのが食べたかったんじゃないのか?」
「絶対に言ってナイ! バカ! お兄ちゃんはバカ!」
「そう……だったのか? 悪い、ついスーパーのお菓子売り場ではしゃぐお前を見ていたら……」
 一は頭を押さえながらよろけた。
「と、とりあえず座ってくれ……」
「ン」
 素直に指示に従い、ジェーンはこたつに足を入れる。その時に、何かを蹴ってしまったが気にしない。一は何も言わなかった。
「お兄ちゃん、アタシも小さいままじゃないんだヨ。なのに、ちょっとばかりひどいんじゃない?」
「まあ、考えが至らなかったのは認めるよ。でもさ、お前が何も言わないのも悪いんじゃないか?」
「……アタシは任せるって言ったもん」
 頬っぺたを膨らませ、ジェーンはオレンジジュースに口を付ける。
「アメリカ人の癖に、自主性が無いのかお前は」
「ゴーに行ってはゴーに従え、ヨ」
「口は上手くなったなあ」
「ニホン語も、上手になったでショ?」
 悪戯っぽく笑い、ジェーンはナポリタンにフォークを伸ばした。
「ああ、上手いもんだよ。初めて、日本で会った時は驚いた」
 あの、あどけない少女が。
「お兄ちゃんは変わってなかったネ」
「悪かったな。背も伸びてないし、髪も染めてなくて」
「ウウン、良かった」
「……良かった?」
 口の中のハンバーグを飲み込み、ジェーンは頷いた。
「お兄ちゃんは、お兄ちゃんのままで、良かった」
「なんだそりゃ?」
「ふふ、ナイショ」
「……あっそ。ま、別に良いけどさ」
 旗をスプーンで退かし、ジェーンは次にカレーを食べる。口に入れた瞬間、甘口だと分かり眉を顰めた。
「でもさ、お前も変わってないぜ」
「……そう?」
「イエース。分かりやすいところは、やっぱりあの時のまんまだよ」
「そう、かナ?」
 一は楽しげに頷く。ジェーンは自分の皿のエビフライを平らげ、満足そうに目を細める。
「美味しかった?」
「So-so……」
「では、おぜうさま。デザートをお持ちしましょうか」
「ふふっ、オネガイするワ」


 外は寒かった。店を出た時よりも冷え込み、風が一たちを穿つように通り過ぎていく。
「一時間以上も店開けちまったな」
「良いじゃナイ。お兄ちゃん、明日までお店にいなきゃダメなんだヨ?」
「そう、だよな。でもさ、そんな無茶、何とかしてほしかったなー」
 一は恨めしい目付きで、隣に並ぶ少女を見つめる。
「ボスには逆らえないヨ」
「……お前でも無理か、あの人強いよなー」
 クスクスと、ジェーンはおかしそうに笑った。
 こうして改めて見ると、彼女は変わったなと、一は思う。背丈こそあまり伸びてはいないが、体付きは丸くなり、大人っぽく見えた。
 二年、か。一はしみじみと、アメリカにいた時の事を振り返ってみた。思い出していけば。短いようで、長かった。その曖昧な時間の大半を、ジェーンと過ごしていた事も思い出す。
「お兄ちゃん?」
 考えに耽っていたので、一は少しだけ驚いた。
「……どした? 寒いか?」
「ン、平気。お兄ちゃん、何考えてるのカナって……」
「ああ、いや、別に。そういや、おじさんたち、元気してるのか?」
 連絡ぐらいは入れた方が良いだろうか。一は向こうで世話になった人たちを思い出す。
「……元気、だと思うヨ」
「なら良かった。あのさ、今更だけど手紙とか書いた方が良いかな? ほら、俺もこっちで一応、お前の保護者みたいなもんしてるんだし」
「気にしなくて、良いと思う」
「そう、か?」
 ジェーンの答えは、妙に歯切れが悪かった。さっきまでは笑っていたし、怒らせたつもりも一にはない。
「……ジェーン、もしかして疲れてないか?」
 ジェーンは黙ったまま、首を横に振る。
「何か、悩みとかない?」
「ナイ」
「……じゃ、出来たら言えよ」
「ふふ、何それ」
 微笑んでくれるジェーンを見て、一は益々訳が分からなくなった。

「――――!」

「ん?」
 唸り声が聞こえる。距離は近い。
「なあジェーン、今何か聞こえたよな?」
「……ウン。近いね」
 犬、だろうか。野良犬が増えていると店長は言っていた。
「急ぐか」
「う、うん……」

「――!」

 甲高い鳴き声だった。聞き流して店に急ぎたかったが、その声がやけに耳に残っている。本能に訴えかけてくる。嫌な、声だった。
「犬の鳴き声か」
 一はぼんやりと口にする。
「お兄ちゃん、先に行ってて」
「は? 何でだよ?」
「良いカラ!」
 そういう訳にはいかない。一は隣に目を向け、立ち止まる。ジェーンは一の後ろで立ち尽くしていた。
「……っ、おい! 帰るぞ!」
 様子がおかしい。空気が重い。張り詰めていく。風がひどく生臭い。鼻を突き刺す獣臭。
「ジェーンっ!」
 彼女は答えなかった。一に背を向け前だけ見据える。
 見たくない。見たくなかった。そんなの、見せるな。
 一は前を見た。
 そこに、いた。
 大きな、男。人間の形。筋肉が異常に発達しているのか、その男は太かった。しかし、決してその太さが脂肪の為ではないとも分かる。脚も腕も胸も腹にも筋肉がしっかりと付いていた。嫌でも分かった。何故なら、男は服を着ていない。上半身は裸。下にはジーンズを穿いていたが、筋肉で今にもはち切れそうだ。靴も履いておらず、彼の爪先は丸見えである。
「……あ……」
 異様に、鋭かった。男の爪は嘘みたく長い。右足、左手、右手、左足。まるで獣のそれだった。男の全身、肌の見えているところは全て毛むくじゃらで、いったいどんな生活をすればそうなるのか。一には一つも理解できない。
 異質。異常。異形。なまじ人間のカタチをしている分、男の姿は筆舌に尽くしがたい。見るに耐えなかった。
 茫然とする一を見て、男が笑う。口の端を吊り上げ、楽しそうに。その口から見えているのは、もはや歯ではない。牙だ。ギラギラと月光を浴びて輝くそれは、立派な凶器。もはや、狂気。極め付けは耳の位置。彼の顔。通常の、普通の、人間だと証明する為の位置じゃない。顔の横ではなく、男の耳は頭の天辺から生えていた。そして男の顔。いや、男だった顔と言うべきか。人間だった頃の名残は見受けられるが、彼の、その、顔は。
 出来の悪いホラームービーから抜け出した怪物。月明かりを受けて、この世界にいるのが当たり前だと言わんばかりに立つ男。

 ――狼男。

 一はそう、連想する。
 体が動かない。助けて欲しくて、一は眼球だけを動かした。視線の先にはジェーン。何をしているんだ。早くここから逃げないといけない。こちらには今、何も無い。武器が無い。戦えない。アイギスも、ジェーンの銃も店に置きっぱなしだ。
「お兄ちゃん、先に行って」
 それなのに。
「……置いていけるか」
 ジェーンは動こうとしない。男と向かい合い、見えない火花を散らしている。今にも戦闘が始まってしまいそうな、一触即発の闘気をぶつけ合っている。
「おねがい、先に行って」
 珍しく、強い語気だった。戒めるような、嗜めるような、一種上からの目線で。意志の籠もった彼女の言葉。その、本当の意味を一が理解する前に男が動いた。速い。男が風を切る。一の目では追い付けない。
「――――!」
 破砕音。一の目では追い付けない。音のした方へ、数瞬遅れ目を向ける。見開く。民家の塀が粉々に砕かれていた。その破片の中、強靱な肉体を持つ男が仰向けに倒れている。
「なっ……!」
 何で。
 二の句が継げない。見たくない。見たくない。信じたくない。そんなの、嘘だと思いたい。倒れた男を見下げ、ジェーンが立っている。彼女のツーテールは風に揺れ、緩やかに宙を泳いでいた。気持ち良さそうに。
 気持ち良さそうに。
 ジェーンは笑っていた(・・・・・)
 あどけない彼女は何処に行ったのか。その笑みは、今までに一が見た事が無い、嗜虐的な物だった。
「…………」
 声を掛けることすら躊躇われる。ひどく曖昧で、遠い存在に思えてしまう。

 事実、そうだった。

 ジェーン=ゴーウェストの肉体は、もはや人間のそれではない。体付きこそ小さなままだったが、身に纏う空気が違う。圧倒的に逸している。ヒトの形をした獣。アンバランスで、歪で、見る者全てを不安にさせる威圧感。瞳はぎらついて、男を見る目付きは狩人のそれだ。舌なめずり。歯が見えた。鋭く、長い。
 ――誰だ、これは。
 一の問いには誰も答えない。『妹』の格好をした何かが、只管に一をざわつかせる。
 月明かりを浴びる彼女。耳の位置、獣じみた空気、あのざらついた瞳。まるで、人狼。出来損ない。ホラームービーから抜け出した怪物。
「……ジェーン」
 その名前は誰の物だったのだろう。
 一の声は誰にも届かない。
 月明かりに照らされる彼女は、酷く綺麗だった。一はぼんやりと、そう思う。


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