雨が降り続いていた。
小高い丘の上。
「なあ、お前はずっとここに残るんだろ?」
「……分かんねえ」
陽が落ちるのを眺めている、一組の男女。
「どっか行っちゃうのか?」
「考えてねえなあ」
白い小袖と緋袴。女は巫女装束に身を包んでいる。
「……お前がここを出るなら、オレも付いて行く」
「駄目だろそりゃ。お前には神社の役目があるだろ」
男は紺色の半纏を着ていた。男の付けた白い鉢巻が、夕焼けの中でやけに映えていた。
「そんなの関係ねえよ、オレが行きたいから行くんだ」
「そっか。けど心配すんな、後十年はここで暮らすよ」
女は不安げな顔をしていたが、男の言葉に少しだけ笑顔を取り戻す。
「別に。心配なんかしてねえよ。お前みたいな若い奴が抜けたら酒造りもしんどいって、それだけ」
「俺なんか、まだまだ下っ端だ。一人ぐらい抜けたってどうしようもねえよ」
男は笑った。
「……俺がどっかへ行ったら……。お前、寂しくなるか?」
女は顔を真っ赤にしてその言葉を否定する。
「ははっ、やっぱな。お、良い匂いがして来た」
「ありゃあ、おじさんトコからだな。そろそろ帰ろう。オレも腹減ってきた」
そう言って、女は男に背を向けて歩き出した。
「なあ」
男も、女を追いかけるように歩き出す。
「なんだよ」
「やっぱさ、俺がいなくなったら寂しいだろ?」
男から女の表情は伺えない。
「……少しだけな」
だが、その言葉だけで充分だった。満ち足りた気分になり、男は女の横に並ぶ。
その翌日、男は女の元から、この地から姿を消した。
雨が、降り続けていた。
「春風さん、あと十分切りました」
「……そうだな」
「本当に一一とフリーランスだけに任せるんですか?」
「そうだ」
「……どうなっても知らないですよ」
「知っている」
漣は溜め息を吐く。さっきから、春風に何を聞いても上の空だ。漣を認識していないような、どうでも良いと思っているような節さえ見える。
「随分と、一一を買っているんですね」
ふと、春風が漣を見た。全てを見透かしたような、そんな目で。全てを知っているような、そんな声で。
「嫉妬か」
そんな事を言う。
「違いますよ」
「……私は別に一一を買っているわけじゃない。恨みならば、買ったし買わされたがな。奴との関係などそんな物だ」
「吹けば飛ぶような、ですか?」
春風は無言で。頷きもしないで雨を見た。
どうして気付かなかったんだろう。
ぼんやりと歩いていた一の目にそれが留まった。他の建物よりも、一際背の高い廃ビル。そのビルに絡みつく、苔生した一本の糸。
「……うっ……」
一の肌を何かが這った。圧倒的な嫌悪感。纏わりつく嫌悪感を振り払うように一は身を捩る。これは何だ、と。一はそれを見上げた。その正体を一は知っている。今まで生きてきて見た事も何度かある。触った事も、一度だけなら。だが、この大きさは何だ。
背の高いビル。何階建て、とまでは一に分からなかった。それでも二十メートルはあるのではないかと推測してみる。建物を見上げる首が疲れてきたので、一は視線を地面に下ろした。
「とんでもねえよ」
一は投げやりに呟く。建物の高さが二十メートル。だとすれば、そのビルに絡み付いている、巻き付いているソレの大きさはビルと同じくらいか、大きいか。
一はソレの姿を知っていた。ソレの名前も知っていた。だが、あの大きさだけはまだ飲み込めていなかった。気持ちが悪くて、心細くて一はソレから見えない位置まで逃げる。姿を隠し、深呼吸する。
とぐろを巻いたその姿。どう見ても、何度みても、ソレは蛇だった。長い体だけが見えていて、蛇の頭は見えない。建物の中にあるのか、一からは反対側の方にあるのか。
ヤマタノオロチ。八俣遠呂智。八岐大蛇。
一は実感する。出会ったのだと。山田よりも先に、ソレに出会ってしまったのだと。とてもじゃないが、大声なんて出せそうに無い。出せば居場所を感づかれてしまう。かと言って、その場を立ち去るわけにも行かない。
――場を掻き回す。
「……どうやって……」
考え無しもいいところだ。一はビルを見上げソレを見上げ空を仰ぐ。
桁違いの大きさの蛇。
隣のビルに巻き付いた、ヤマタノオロチの出来損ない。
狙撃場所はビルの屋上。ソレを見ながら、長雨はライフルを構えた。雨で視界が悪い。蛇の急所も分かりづらい。仕掛けにくい。しかし、相棒の糸原ががなり出す前に撃たなければならなかった。スコープを少しずつずらして行く。頭はどこだ。
「……ん」
長雨の双眸がそれを捉えた。傘を持った、小柄な青年。何故こんな所に、こんな奴がいる。長雨はライフルを構えながら、考えをめぐらせる。そう言えば、と。糸原が勤務外の事を話していたのを思い出す。目つきの悪い女店長、眼鏡を掛けた優男、年端も行かないSV、火を使う女、高校生の勤務外が二人に、そして、そして。
――傘を持つ、小柄な青年。
使えると、長雨は思った。勤務外が予想よりも早く現れてしまったのは誤算だが、嬉しい誤算とも言える。自分たちが二の足を踏んでいる内に、あの勤務外に隙を作り出してもらおうと、長雨は考える。
長雨は携帯電話を掛けた。相手は糸原。ワンコールも鳴らない内に通話状態。
「……相棒、予定を変更する」
『はあ? なんでよ?』
予想通り、不満げな声が電話口から聞こえてくる。
「勤務外が来た」
長雨は出来るだけ笑わないように、淡々と告げた。
糸原の、携帯を持つ手が震えた。雨で冷えた所為ではない。
「……へえ、随分と早いのね」
血の気が一瞬引いていき、すぐに全身を駆け巡る。平静を装うとして声が固くなっていた。
『ああ。意外と出来るじゃあないか勤務外。そこで、だ。彼にやってもらおうと思う』
「何をよ?」
彼。つまり、男。男の勤務外。
『俺の代わりに隙を作ってもらう。お前の代わりに奴を倒してもらう』
「……私たちは手を出さないって訳?」
『ああ。使えるものは何でも使わせてもらうとしよう」
分かっていた。それが『天気屋』のやり方。長雨と言う男。分かっていたのに、何故か納得出来ない。
「汚いんじゃないの、それ」
電話の向こうから、噛み殺しきれなかったであろう笑い。
『漁夫の利さ。簡単な話の筈だが? 俺たちは何もせずに金を手に出来るんだぞ』
「……勤務外が隙を作れなかったら? 倒せなかったら?」
『その時は俺が作る。お前が倒す。何も変わらん』
握った電話を潰しそうだった。どうしてなのか、糸原にも分からない。
『しかし、そうだな……。ヤマタノオロチを倒してもらったとしても、少々邪魔になるか』
「邪魔……?」
「ああ。俺たちが倒したと言ってもだ、その勤務外が真実を話せば報奨金は俺たちに出ないからな。さて、どうするか……』
恐ろしく冷たい声だった。ぞわりと、糸原の全身が総毛立つ。
「お、脅せば良いじゃない。喋ったら殺すって……。分け前をやるって言っても良いんじゃないの?」
『なるほど……』
考えていない。この男は何も考えていない。
『酷く面倒だな。分け前をやる理由も無い。脅す手間も掛かる』
「……やるのね」
糸原は手汗をかいていた。声はいつの間にか震えている。心拍数も徐々に上がってきている。どうしてなのか、分からなかった。
『ああ、やるぞ。とりあえず見に入れ。勤務外とソレの動きによって、俺たちがどう動くのか決める。良いな、そこにいろ。手出しするなよ』
「あの、さ」
『どうした』
一瞬口ごもる。
「……勤務外ってどんなのが来てた?」
『ふっ、なるほどなるほど? かつての同僚か』
「赤い女だったら、厄介よ」
言わば、希望。
『ああ、心配要らん。男だ、傘を持ってる男。あんなでも勤務外になれる物なのだな。それとも何か、オンリーワンは人材不足なのか?』
言わば、絶望。
そして電話が切られた。糸原は繋がっていないそれを握り締めて、その場に立ち尽くす。
雨は、降り止まない。
それは記憶だった。これは、思い出だった。
「……おじさん?」
その日は雨が降っていた。
朝早くから、女は白い小袖と緋袴を身に纏い、男のいるであろう仕事場へと向かった。仕事場。杜氏。酒造りの場所である。
女の手には傘と包み。包みの中には、男の為の昼食が入っていた。今日も「美味しい」と言ってもらうために。
「なあ、今日は休みなのかー?」
女は入り口付近で異変に気付いた。何故、誰も働いていないのかと。平時なら、もう既に音がしていても良い筈。人の声、水の音、働く気配。そのどれもが今日はしていない。
ともかく、女は裏口の方へ回った。扉は開いている。酒造りの仕事場は、女にとって勝手知ったる我が家のような物なので、躊躇はしなかった。中は暗い。
「ヒロ? いないのか?」
ヒロとは、今年で十六歳になる少年。女とも昔から面識のあった少年で、若いのに酒造りの現場で働くと聞いたときには女も感心したものであった。
この時間、いつもなら台所に飯焚のヒロがいる筈だった。台所で全員分の朝食を作り、ささやかな歓談を交わす。サボっているのを上役に見つかりヒロが怒られ、それを女が宥めるのがここでの、女の日課とも言えた。
「ヒロ?」
何も変わらない。これからも同じ。そんな朝の筈だった。
不思議に、不審に思いながら女は靴を脱ぎ、台所に入る。台所を抜けたところで女は異臭に気付いた。鼻を刺す、つんとした臭い。嗅いだ事のあるモノ。『神社』の仕事上、そういうモノには慣れていた。しかし、今、ここで、この臭いを嗅ぐとは思ってもみなかった。
「……みんな……?」
生臭い、血の香り。女はそれ以上足を踏み出すことが出来なかった。明かりをつけようとも思えない。進みたくないから、見たくないから。だが、『神社』としての本能が先を促す。行けと、急きたてる。女の足取りは重く、鈍かった。それでも、少しずつ仕事場へと向かう。
「……しお、り……」
廊下へと差し掛かったところだった。
「――ッ!」
声が出なかった。突然、自分の足を掴まれた女はただその場で体を震わせる。
「い、行くな……」
「と、父さん……?」
視線を下げると、暗闇に目が慣れてきたのか人が倒れているのが見えた。その人物は顔も上げず、息も絶え絶えと言った風に苦しそうに呻いている。女の、父親であった。杜氏集団を纏め上げる最高責任者、酒造りの全てを任された親方。
女は父親の元にしゃがみ込む。体を抱きかかえると、女の手の平にベッタリとした、生暖かいモノがこびり付いた。
血。それも大量の。女は目を見開く。父親の腹部に大穴が開いていた。素人目にも、助かりそうに思えないような、致命的な穴。
「怪我してるじゃない! 病院、きゅ、救急車……」
女が立ち上がろうとするのを、父親は制止する。首を振り、女の手をしっかりと掴んだ。
「……俺ァ、助からん……」
「な、何を言ってるの? 父さん、気をしっかり持って。ね、他の人は……?」
男の事が気になっていたが、女は「他の人」と誤魔化して聞く。
父親は悲しそうに顔を伏せてから、力なく首を横に二、三度振った。
「……みんな、駄目、だ……」
「何が……駄目、なの?」
気付いていた。奥に進めば進むほど強くなっていく臭い。血の臭い。吐き気を催すほどの臭い。濃密な、死の気配。女は凄絶な考えに思い至るのを、父親の激しく咳き込む声で現実に引き戻された。
「父さん! しっかり、しっかりしてっ」
「……すまな、かっ、た…………」
父親は抱えられたまま、女の耳元に顔を寄せる。何事か囁いた後、いとも簡単に、あっけなく、父親は死んだ。女はしばらくの間何度も父親に呼びかけ、体を揺さぶる。
「……父、さん……?」
重かった。支える事を止めた体。支えられなくなった体。死体は、重かった。女はその重みを感じながら、声を上げて泣き出す。どうして、なんで、私たちがこんな目に遭わなきゃいけないの。
答えるものも、答えなど無い。
唯一の手掛かりは、父親の呟いた「――」だけ。
女は一しきり泣き、落ち着いてしまった後、父の躯を廊下に置き、立ち上がった。確かめなければならない。この先を、この後を、全てを。
女は走った。男に会いたい。その一心で走る。どう走ったのかも、どこを走ったのかも分からなかった。とにかく走り、只管走り、女は作業場へとたどり着く。締め切られている筈の作業場の扉。今日に限って、そこが開いていた。扉は開きっぱなしで、女が近づくと中からはアルコールの臭いがする。それに混じって、あの、血の臭い。その臭いがキツくて、女は顔を顰めた。
「――!」
心細くて、女は男の名を叫ぶ。何度も、何度も。返事は無い。女は意を決して、作業場に足を踏み入れた。作業場の中には、大きな酒樽があった。臭いは、その中から発せられているように思われる。『神社』の勘だった。女は酒樽を見つめながら、水音を立てて歩く。ふと、女は足元に目を遣った。ただの水や酒にしては粘り気があり、不審に思ったからだ。屈んで、液体を指で掬う。どろりとした感触が、指先から全身に駆け巡った。
女の予想通り、それは血。
それも大量の血液だった。人間の一人や二人分ではきかないぐらいの量の血汁が、床一面に流れて、こびり付いている。まだ固まっていない事から、つい最近流れた血液だと、女はそう考えた。そして今も血は流れ続けている。あの、酒樽の中から。
「……………………」
女の手が知らずに震えた。一歩、また一歩そこに近づいていく。
もう、全部分かっていた。理解してしまった。変わらないモノなんて、何一つ無いのだと。
作業場の隅に備え付けられた脚立を使い、上っていく。女はその一番上から、酒樽の中を覗いた。
ああ、見てはいけなかった。先に進んではいけなかった。そうすれば、少なくとも、少なくとも女は――
――地獄を見ずに済んだのに。
雨は、降り続いていた。
その話を聞いた漣は少なからず嫌悪を覚えた。ソレが現れた今の世の中では、さして珍しい話ではなかった。むしろ良く聞く話だ。親族郎党皆殺しにされた、何て話は。
「……よくもまあ、そんな事が出来ますよね」
問題は、その虐殺を行ったのがソレでは無いと言う事。
「いや、簡単だったのだろう。素手で人間を千切って樽に詰めるぐらいならば、な」
春風は事も無げに言った。
「違いますよ。どんな神経持ってんだって事です。死にかけだった自分を拾ってくれた人たちを皆殺しにするなんて、俺にはとてもじゃないけど……」
「お前は人間だからな」
「え、あ、まあ、一応人間と自負してますけど……」
その言葉を、春風は鼻で笑う。
「『神社』が追っているのはソレじゃない。人間の血が半分入ったモノなのさ」
「半分?」
漣は訳も分からず聞き返す。
「ああ、ヤマタノオロチの子孫だそうだ。そいつ本人にどれほど蛇の血が混ざっているかは知らんが、少なからず蛇が混じっているのは確実だろうな」
「……オロチの子孫、ですか?」
「恐らくは酒呑童子」
「酒呑童子? ヤマタノオロチの子孫が? 聞いた事もありませんよ、そんなの」
「お前が聞いた事が無いだけだろう。漣、アレは日本でも最悪に近い妖怪だぞ? 知らない方がおかしいと思うがな」
ふう、とわざとらしい溜め息を一つ吐き、春風は漣を見つめた。見つめられた漣は気恥ずかしくて視線を逸らす。
「俺だって、それぐらいは知ってます。白面金毛九尾の狐、大天狗。そして日本最強クラスの鬼、酒呑童子。三大妖怪の内の一匹、ですよね?」
「……そこまで知っていて、何故分からない」
「じゃあ、逆に聞きますけど。どうしてヤマタノオロチが酒呑童子と関係あるんですか? スサノオに殺されたのに、どうして子供なんて作れたんです?」
「ヤマタノオロチは殺されずに、スサノオから逃げ延びて富豪の娘との間に子を作った。その子供が酒呑童子だと、そういう話がある」
漣は怪訝な顔つきになっていく。
「へえ、初耳ですね。俄かには信じられませんけど」
「証拠とは言わないが、二匹には共通点が有る。オロチも酒呑童子も酒に倒されている、と言う所だ。スサノオも源頼光も恐れていたのさ。自分だけの、人間だけの力では倒せないとな。だから酒に頼り、寝首を掻いた。掻くしかなかったんだろうな」
「……まあ、そう言われちゃ頷かざるを得ない、ですね」
「信じるか信じないかはお前の勝手だ」
雨に打たれ過ぎたのかもしれない。雨音を聞いていたからかもしれない。山田はハッと我に返った。周囲を見回す。どうやら、自分は今廃ビルの入り口の前でぼうっとしていたらしいと、そう気付いた。短い銀髪を掻き毟り、自嘲の笑みを浮かべる。
「……何思い出してんだか」
独り言は雨音に打たれて、消えていく。
山田が思い出すのはあの日。あの日、瞳が捉えたもの。あの日、脳裏に焼き付いたもの。あの日の臭い、あの日の空気、あの、絶望感。全てが鮮明に浮かび上がってくる。逃れられない、忘れる事など出来ない。
「……ちっ」
湧き上がる悲しみ。去来する怒り。だが、それ以上に、憎しみが色濃く山田の中に影を落とす。拳を握り、やり場の無さに震え、山田は歯を食い縛った。
結局、一がオロチを発見して、オロチから見えないように姿を隠してから五分が経過していた。
一はアイギスを抱え、時折オロチの様子を窺う。あまりに大き過ぎる存在。神経は麻痺しかかっていた。どうしようも、何かしようという気さえ起こらない。元々、一はソレと戦う気なんて無かったのだ。あくまでおまけ。山田の付き添い。いざ事が起これば、アイギスを使って手助けぐらいしようとは思っているが、自ら進んで戦おうなんて、そうは思えない。そもそも、一は糸原を目的にやって来ている。未練たらたらの、腑抜けた魂胆。諦めきれない、一途な思い。
「………………」
携帯電話ぐらい買っておけば良かった、なんて一は思う。そうすれば誰かの意見を聞けたのに。誰かの言うとおりに動く事が出来たのに。
もう、勤務外として何度か戦闘をした。戦場に出た。ソレにも何度も出会った。それなのに、一は怖い。ソレが怖い。戦う事が、命のやり取りが恐ろしくて仕方が無い。考えれば震えてしまう。自分が傷つき、倒れ、死んでしまうのを想像してしまう。
その時、何か物音が聞こえた。一の耳は確かに捉える。何かが、動いた音を。音は廃ビルから聞こえてきた。ソレの、いる方から。
一は躊躇したが、体をずらし、塀から顔だけを出す。別段、先ほど見た時と何も変化は見られなかった。ふと、ビルの入り口を見る。赤い光が見えた。二つの、赤い光。それはまるで鬼灯のように赤く、ギラギラと獣性の伴った光。
その光と、一の目が合う。
「……あ……」
真赤な光。それがヤマタノオロチの目だと分かるのは、蛇の頭が完全にビルから出きった時だった。一は絶句する。
蛇の、長い胴体のほんの一部が、雨でぬかるんだ地面に現れる。泥を跳ね飛ばし、土を巻き上げ、蛇は進んだ。
ビルの入り口から一のいる場所まで、使われなくなった工事現場を挟み、距離は離れている。だが、あくまでその距離は人間からのもの。ビルに巻き付いた蛇が少し体を伸ばせば、そんな距離など無いに等しかった。
――まずい……。
一は顔を塀の内側に戻し、呼吸を整える。ソレが何故姿を現したのか。もしかしたら、自分がここにいるのがばれてしまったのかも知れない。
ギュッと、一はアイギスの柄を握った。不思議なくらい呼吸は落ち着いていた。先刻まで全身に付き纏っていた重圧めいた空気は、とっくに消えている。
蛇は頭を揺らしながら、少し開けた工事現場を徘徊していた。獲物を探しているのかもしれないし、ビルに巻きつくだけでは窮屈だったのかもしれない。鬼灯のような赤い目が爛々と輝き、二又の長い舌を出し入れしながら、蛇は進む。
「ふう……」
自分ひとりだ。一は今の状況を頭の中で整理した。助けてくれるモノもいない。ここにいるのはソレと自分だけ。逃げ出したかった。だけど、自分がやらなきゃ、いつか必ず犠牲が出てしまう。犠牲。一自身か、一の知っている人間か、知らない人間か。だが、ソレを放っておけば誰かは死ぬ。
蛇は少しずつ一の元へ迫ってきていた。もう、距離は無い。
どうせ。どうせ、と一は思った。
奮い立たせる何かを一は探す。どうせ、いつかは死ぬんだ。どうせ、いつかは殺される。今か、今じゃないか。それだけの違い。それにヤマタノオロチは完全体ではない。話だけでは信じきれなかったが、あの頭。図書館で調べたものとは違う。頭は一つしかない。
「ただの、でかいだけの蛇じゃねえか……」
やるなら、今しかなかった。一がソレと戦えるのは今しかない。
蛇の頭が、工事現場を抜けた。
「だったらさあ!」
蛇の目が一を捉えるより先、一が動く。傘の石突きの部分を目立つ所へ振り下ろした。赤い、赤い、真赤な瞳。
だが、一は力が入り過ぎていた。傘の先端はソレの目に刺さらずに、その僅か上の部位に刺さってしまう。鱗を食い破り、石突きはソレの体に食い込んでいく。血が傷口から溢れ、蛇は呻く。ダメージは僅かなりとも与えた筈だ。一は確かな手応えを感じ、反撃を食らう前にアイギスを引き抜く。
「……っ!?」
引き抜けない。
一が思っていたよりも深く刺さってしまったのか、アイギスは一が力を込めてもビクともしなかった。
蛇の赤い目が一を捉える。睨まれた一は身の危険を感じ、一旦アイギスを諦めた。蛇の頭を通り抜け、工事現場へと走りこむ。ぬかるんだ地面は酷く走りにくかった。泥が跳ね、服を汚していく。既に服は血と雨でぐしゃぐしゃになっていたので、一はそんなに気にならなかったが。とりあえず、このままビルへと逃げ込む事を決めた。泥に足を取られながらも、必死に走る。その後ろに蛇の気配。
「――――!」
空気を切り裂くような、高い音。蛇が鳴いた。
一は咄嗟に横っ飛びする。一が地面に着地するより先、蛇が一のいた所を、大口を開けながら突き抜けた。蛇はそのままビルの中へ身を隠す。頭に続いて、胴体がビルの中へ入っていくが、獲物を持たない一は何も出来なかった。とりあえず、辺りを見回す。工事現場だったであろう広場。その隅に廃材の山があった。近づいていき、手頃な角材を掴む。何度か試し振りして、一はこれに決めた。
何とも頼りなかった。
「ま、木の枝よっかマシだな」
苦笑する。やはり、麻痺していた。
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